もみじ
板谷みきょう

屏風山のずっと奥深い所に純白の峰があった。
その「せせらぎの峰」の頂上に立てば、この世の果てまで眺められ、全てを知ることができると云う、言い伝えまでがある。
しかし、頂上はいつも、雲に隠れていて、獣たちの誰も、見たことが無かった。屏風山に住む長老のみみずくは、一度だけ見たことがあるそうだけれど、獣たちの誰も、その本当を聞いたことが無かった。

クヌギやコナラなどの雑木林に流れる「ぬらくら川」のほとりに、一本の紅葉の木があった。獣たちが、いつもの様に、紅葉の木の根元に集まっていた秋の日に、にわかに雲が、すっかりと消え去り、見渡す限りに清しく、晴れ渡る青空の向こうに、忽然と姿を現した。
集まっていた熊や狐、狸やねずみ、とんびやつぐみ、ヤマガラ、メジロ、蛇と蛙、カラスやスズメに至るまで、あっけに取られてしまいました。
「あ、あれ。ま、まぼろしのせせらぎの峰。ど、どうして…」
やっとのことで、誰かが一言、口に出したが、峰は神々しく、輝いて見えていた。
「あのせせらぎの峰の頂上に行くぞ。俺は、この世のすべてを知りたいんだ。」
たまらず、青蛇が急に叫んだ。
「せせらぎの峰に?」
「無理だよ。」
「今までだって、そうやって帰って来た者は、誰も居ないのに?」
「馬鹿はおよし。」
黙っていた他の獣たちは、堰を切ったように、口々に話し出した。
真顔で、或いは、笑いながら…。

その様子を、黙って見ていたみみずくが、厳かに語り出した。
『昔から、「翼のある者は、鳳凰となりて、足を持つものは、麒麟となりて、その他の者は、龍となりて、せせらぎの峰に立つべし。」代々、そう語り継がれている。』
あちこちから溜息が漏れてくる中、青蛇は、息せき切ってみみずくに言った。
「それじゃあ、俺がせせらぎの峰に立つには、龍になれば良いんだな。どうすれば俺は、龍になれるんだ。」
『龍…か。龍になるには、まず、この「ぬらくら川」を下って、「荒れ狂いの大海」で、怒涛の中、七つの冬を越せば良い、と聞くが…。』
みみずくの言葉も終わらぬうちに、青蛇は聞くが早いか、眼の前の「ぬらくら川」に、飛び込むように滑り込んだ。
突然の青蛇の行動に獣たちは、止めることはおろか、その場を動くことすら、誰もできなかったのだ。
とんびが、空高く舞い上がり「ぬらくら川」を下り始めた青蛇の姿を最後まで見ただけだった。

「せせらぎの峰」に立つ、龍になることを、夢見ながら「ぬらくら川」を、下り「荒れ狂いの大海」を、目指した青蛇だった。
…が、青蛇の初めての川下りを、「ぬらくら川」は、唯々諾々と受け容れることは無かった。
ゆるゆると流れていたのが、のたうつようになり、時には、轟轟と音を立てる中で、いつしか青蛇は、やせ細り、鱗は剥げ、血が滲み、傷だらけになっていった。
幾つもの昼と夜を、川の中で見続けながら、息も絶え絶えになり、ほうほうの体で入り江に着くことが出来た時、青蛇は、すっかりと体力を失っていることに気付いた。
入江から見える海は、真っ黒な雲に押しつぶされて、稲光が走り回る、嵐の「荒れ狂いの大海」だった。振り返ると小さく屏風山が見えた。けれどもそれはそれは遠くにかすかに見えるようで、その遥か向こうにあろう「せせらぎの峰」は、影も形も見えなかった。

力尽き果てた青蛇には、とてもとても「荒れ狂いの大海」で、七つの冬を越すだけの、力も気力も無かった。かと言って、この「ぬらくら川」をさかのぼり、屏風山に戻ることも出来るはずも無い。
その時、やっと、その時になって、やっと。
青蛇は、気付くことが出来たのだ。
龍となって、「せせらぎの峰」の頂上に立つ、己の姿を夢見続けたこと。
必ず龍になれると信じ、疑わなかった自分自身の思い上がりに。
屏風山の懐かしい情景と、仲間たち、軽率だった自分の行いを、思い出し、悔やんでも悔やみきれなく悲しくなった。
しかし、今の青蛇には、もう屏風山に帰ることすらできないのだ。

夢破れ、やせ細って、すっかりと老いてしまった青蛇は、今も、入り江の静かな場所で、暮らしている。
「ぬらくら川」を眺め、遠く屏風山を想いながら。
青蛇は、龍になることも、この世のすべてを知ることも、出来なかった。
屏風山の獣たちは、無鉄砲だった青蛇のことを、忘れてしまっていた。
けれど、毎年、秋になると、紅葉の紅い葉が、「ぬらくら川」を伝い流れてきている。


散文(批評随筆小説等) もみじ Copyright 板谷みきょう 2021-06-27 22:01:40
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