ごく限られた世界の夜から昼への移動距離を並べて
ホロウ・シカエルボク


きちがいじみた雨の夜に骨まで濡れた俺は自然公園の多目的トイレを占拠して身体に張り付いた衣服をすべて剥ぎ取り蛇口だのなんだのに引っ掛けて便座に腰を下ろして朝までを過ごした、当然寝つきは良くなかったしそれほどいい夢も見れなかったけれどそれでもたぶん先週の週末よりはずっと良かったような気がする、先週のことなんかもうほとんど思い出せもしないがそう思ったということはそういうことなのだろう、そもそもそんなことどうだっていい、過去と過去を比較してどちらがどうと決めるようなことにどれほどの意味があるだろう?無意味だとは言えない、おそらくそれなりの意味はあるだろう、けれど、もう変えられないことにこだわることは賢い行為だとは思えなかった、教えてくれる過去は必ず知らない間に身体に植え付けている、取り立ててこちらから動くような必要などない、そういうものじゃないか、長い夜だった、二度と明ける時は来ないのではないかと不安になるくらいの長い夜だった、おまけにあちこちに掛けた服はおよそ乾いたとは言えなかったがそれでもここに潜り込んだ時よりはずっとましだった、少なくとも家に帰るまではこれで我慢しようという納得だけは出来た、俺はなにも文句を口にしなかった、これはずっといい方なのだ、ツイていたと思うべきなのだ、顔を洗い、鏡で髪の毛を直してから、古代の城門を思わせる大げさな金属の鍵を持ち上げて外へ出た、朝早い公園にはまだ誰の姿もなかった、もう夏も近いというのに少し寒ささえ感じた、風邪なんか引かなきゃいいけどな、なんて思いながら少しの間ベンチに横になってまともな眠りが得られるかどうか試してはみたけれど、そんな時に限って太陽がそそくさと顔を出すのだった、俺は眠るのを諦めて服を完全に乾かすことに専念した、雨続きの近頃にしては奇跡的なくらいのきちんとした晴天だった、二時間で服はカラッカラになった、俺はひとつため息をついてから家に帰ることを再開した、あとどれくらい歩けばいいのか見当もつかなかった、いつもは電車を使うからだ、でもまだ電車の動く時間じゃなかった、人並みの人間が人並みに動き始める時間になるまではまだしばらくあったのでこの際開き直って歩こうと考えたのだ、一時間半から二時間はかかるだろうなと見当をつけて公園のそばの自動販売機で缶コーヒーを買って飲んだ、とにかく一度家に帰らなければいけない、シャワーを浴びて身体を綺麗にしてのんびりと寝直したかった、人並みの週末にどっぷりと浸かりたかった、すべての物事を円滑に動かすためにどうしても一度家に帰らなければならなかった、口を拭って歩き始めるとすでに太陽の光はその力を存分に発揮し始めていた、今日は怖ろしいくらい暑くなりそうだ、そんな天気予報どこかに出ていたかな、けれどここ最近天気予報を目にした記憶がなかった、それが本当のことなのかそれともなんらかの理由で記憶を無くしているのか判断がつかなかった、でも家までの道も自分の名前も年齢もきちんと覚えていて生きていくには困らないのでもうそこにこだわるのはやめにした、人間の感覚なんて簡単に疑える、嘘だと思うなら一晩多目的トイレで過ごしてみればいい、家には難なく帰りつくことが出来た、歩いて一時間くらいのことなら昨夜のうちに帰ればよかったのだとふと頭に浮かんだけれど歩いてどれくらいかかるのかはっきりとはわからなかったとにかく濡鼠だった自分をどうにかしたくて断念したのだ、早速服を脱いで洗濯物の籠にぶちこみ浴室へ飛び込み長い時間をかけてシャワーを浴びて洗い身体をほぐした、それからインスタントコーヒーを入れて急ぎ気味に飲み干した、喉の中を熱い感覚が通過する、炎を飲み込んだみたいだと思いながら深呼吸をすると蒸気がこめかみから出て行くような感じがした、それから歯を磨いてベッドに潜り込み三時間眠った、なにか奇妙な夢を見ていたはずだったが内容はまるで思い出せなかった、昼前だったので簡単なものを作って食べた、人間はシンプルな生きものだ、シンプルに生きることは難しくない、でもそれはまるで重要な事項だと思えない、あらゆる現象が送り込まれる世界でシンプルさだけを追求するのはある意味で逃避に過ぎない、俺はもう一度外に出ることに決めた、特別目的も理由もなかったけれど、移動することには必ず意味が生じるー少なくとも俺のような人間にはね。



自由詩 ごく限られた世界の夜から昼への移動距離を並べて Copyright ホロウ・シカエルボク 2021-06-27 21:50:11
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