尺八老人と漬物の恋
道草次郎

抹茶色の外郎のような色の池の水を背景に、若葉のもみじがソメイヨシノの木陰でいくらか涼しい風に小刻みにわらっている。

おれは蟻やら小枝やらがあるくちかかりのベンチに身をもたせ、とにかく西の方までずっと笑いっ放しの抹茶色の外郎のさざめきの海をみるとなくみている。

ヒノヒカリというものはおよそ1億と5000億キロという、いちてんもん単位というおもしろい尺度のむこうからとどいたものなのです。YouTubeの関連動画でかってにあがってきたベテルギウスに呑み込まれんとする太陽の図を、ふとおもいだします。するってえとこの眼前の外郎も、ベテルギウスの公転惑星でならなんびゃくばい、なんぜんばいってえヤンチャな外郎にちげえねと、そうおもいます。おもったりします。

どうも、ふしぎ。かんがえといもののふとした連関、その極彩色の混迷のような顕れ。ふしぎですね。

然るにここ龍のおわすところの水所。裏手には低山、涼し気な緑色の風を池に吹かせておりますが、いくらか青い萼紫陽花もちらほらみえはする。

そういえばここに来たのも、昨日、葡萄の房抜きのバイトをして握り締めた茶封筒の6350円のうちの五千円札を郵便局に入れて帰って不調の為寝ていたらもとつまから電話あり、ひるからねていることを咎めだてされたような心持ちにこちらで勝手になり、ではこれから日も暮れそうで涼しいし、相葉くんがいるかもしれないすざかし動物園にいってこうようかということになり、本当に来てしまった正直ものだか馬鹿なのだか判然しない、今なんです。(どうにもとてもいい文がおれはかけた気もする)

と言うのも、相葉くんがロケしてるかも知れない須坂動物園はこの臥竜公園に隣接ですから。だけれども、もれきこえるそれらしき声もなく、ついでに、みようかとおもっていた滝も残念なちょろちょろ、だから朱色の弁天橋という橋を渡って池のなかの離れ小島には来てみました。なんだか露出した木の根のせいで足もとがおぼつかない。とりたてて新たなる発見もないのでこうしてベンチに座ったというわけ。

風の名を聞き、若葉の囁きにみみをすませ、きょだいな抹茶色の外郎のような池のつらを眺めているのです。

あ、鳥がひとなき。

橋向こうの往来のみぎからは中学せいの一群、左からは三輪車とサンダルばきの3歳。めいめいの脳の井戸のそこから見上げる青空がめいめいがたの視界というわけです。

鳥がもうひとなき。なんだろうあの鳥は。鳥の鳴き声がわからないというのは何だかつまらない。

詩文のことで色々言うには、おれなどはあまり知らなすぎるのだが、花があったらあれは花ですとかくのがやっぱりいいんだとおもう。

水面の様子を、はすかいに泳ぐ鴨のにわの揺曳する水尾の文様とその刻刻変幻する水分子に内在する哀しみ、とかそういうのはだめ、唯、水がゆれます。風のせいです、とそう書くのが救いとなるならばその限りにおいてそうかけばよい。

とても、紫陽花が綺麗ですから、撮って送りました。

ああ。
東屋で尺八を吹く初老の方ももう姿がみえない。
かつて、おれがおれの横の人とそのひとのなかにいたもう1人のひとに、とてもたくさんな事を話しながら歩いたときのあの公園ではもうありません。ときは流れた。

漬物を毎日のように尺八老人にもってくるおばあさんの恋は実らなかったのでしょうか。夜勤明けのあの日、ほほえましいあの恋についてはなしあったことがまるで夢のようだ。
そうだよ、じつにほんとうだとは思えない。


(やどったものは、よく笑ってくれるそうです。)

じつは一番の目的、相葉くんには悪いけれども、池のほとりのお地蔵さまだったのです。

(やどったものは、そだち、わらい、なきます。そのどちらもシリウルカギリただしく。)

てをあわせたので、かえります、帰る所など、もう無いけれど。そうと口には出さないで。

夕焼け。
さいわいをいのります。


散文(批評随筆小説等) 尺八老人と漬物の恋 Copyright 道草次郎 2021-06-21 18:38:11
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