花束みたいな恋をしたリライト
はだいろ

朝早く、やっている時間帯の、
映画の中で、どうしてもというわけではなかったけれど、
「街の上で」と悩んで、
時間上の都合から、「花束みたいな恋をした」を見た。

下北沢か、調布か、だったら、
僕は調布に縁がある人間なので、よかった。
見る前は、「所詮、坂元裕二だもんな〜」と思っていて、
見た後は、「所詮、坂元裕二だったな〜」であった。


ヘッドフォンの、LとRとを、恋人で分け合って、
それを、音楽が好きじゃない人、と言うけれど、
モノラルの優位性を確かめている人なのかもしれないじゃないか、
と僕なんか思うのであり、
もちろん僕の知らない人の名前もいっぱい出てくるので、
偉そうに言いたいわけじゃなく、もともと合わないんだよな〜というところですが。


ところが、天気の子と同じく、映画ライター(なのかな)の、
これはCDBという人が、この映画について書いているのを読んで、
また考え込んでしまった。

つまり、これは男女の社会的階層の断絶を描いているのであって、
文化の花を根付かせることのできない社会の側の貧しさを・・・
批評的に描いているのだ、というような。

素直な僕は、またもやなるほどなあ、と感じ入ったのだけれど、
やっぱり、どう見てもこの映画から、テクニカルにこうしたテーマを受け取るのは、
無理があると思う。
映画に描かれていないところ(いや、描かれてはいるのか。断面的には)
を、見る側の教養や、優しさや、経験や哲学によって、補足されている。
その補足がなければ成り立たないのだとすると、
それはどこかしら、
作品に欠陥があるのだと僕は思う。
欠陥があることがいけないのではないが、欠陥が放置されていることは、
見過ごしてはいけないと思う。


では、どうすればよかったのだろう。
もし、この映画が、そうした断絶をテーマとしているのなら(あくまでも仮定だけれど)
男子の方の、社会との関わり方の描き方が、
どうしても希薄に過ぎる。
彼は、社会の何にぶつかり、何に絶望して、何にねじ曲げられ、
一番大切な物を、自ら手放すに至ったのだろう。
女子の方が、大切な何かを、手放さずに済んだとして、
本当に、男子が大切にしていたものと、それは同じものだったのだろうか。
実は、もともと違うものではなかったのか。


結局、書く側の社会性のなさが、
皮肉なことに浮き出ている作品になっていると思う。
もちろん、彼はもう三十年近くも、第一線に居残って、
こんな二人の素晴らしいスターを主演にした映画の本が書けるのである。
圧倒的に、凄いことだと思う。
だけど、調布の町の、家賃3万7千円の風呂なしアパートに住んでいた、
僕に響かせる何かは、
この映画の中には、あまりなかった。



















自由詩 花束みたいな恋をしたリライト Copyright はだいろ 2021-06-15 16:12:50
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