深い夜の砂漠
ホロウ・シカエルボク
回転体のオブジェの間を潜り抜けて、濃紺の闇の中で和音の乱れた子守唄を聞いた、心の中に忍び込んだそいつらの感触は夕暮れに似ていて、ノスタルジーは現在と比べられた途端に苛立ちへと変わる、犬のように牙を剥き出しにして、だけどフレーズとして生まれようとする衝動だから、進化を求めることが出来る、アドレセンスの扉は閉ざされることはない、共通概念や社会通念を言い訳にはしない、逃げ道を用意する人間たちのみがそんなものの中に溶け込んでいく、貨幣価値と同じレベルのイズム、彼らの人生は鮮やかにデータ化されることが出来るだろう、数十年をルーティン化して生きるなんて、能動的な洗脳にも似た悍ましさを何故に誇らしく生きることが出来るだろう、現状維持だけが命題の人生の中でどんな器を満たすことが出来るだろう、パースのおかしな小動物が何匹か寄って来る、彼らはおそらく餌を欲しがっている、手を高く差し出して爪を切って見せると、彼らはアリクイのようにとんがった唇でつんつんと突っついたのち興味を失くして去っていった、一匹だけが居残ってその欠片を啄んだが、静かに、座り込んで、春の窓辺の眠りのように穏やかに死んでいった、そいつらのことを何も知らなくて良かったと思った、知らないやつの死はそれほど悲しくはない、たとえそれが人間であってもね、歩き続けると次第に子守唄は聞こえなくなった、単に遠ざかっただけか、あるいは歌っていた誰かがどこかへと行ってしまったのか、とにかくその世界は静寂に包まれた、歩いている俺が立てる音以外どんな音もなかった、フィルムの色褪せた砂漠のような光景だった、足元の砂の深さでもう生きものが居ないだろうことを知った、さっきの小動物はもしや、もともとは誰でも知ってる生きものだったかもしれない、いまさらのようにそんなことを考えた、でもなにもかもがもう遅かった、もしそうだとしても彼らは形が変わり続けていたし、こちらはこちらで気まぐれが過ぎたのだ、わずかな隆起のほかはなにもなかった、歩いている理由も理解出来なかった、けれどそんなことはもう問題にはならなかった、理由ありきで進行する出来事など本当は数えるほどもありはしないのだ、要は、そこに後付けが出来るかどうかという話なのだ、だから、もう理由にはこだわらなかった、わけのわからない場所だろうと、存在の為に行動することは同じなのだ、疲れは感じなかった、見慣れない風景がそうさせるのだろう、自分ではそれほど明確な衝撃を感じてはいないつもりでも、身体のどこかが高揚しているのだ、景色、景色が変わることは大事だ、そうは思わないか?同じ景色は人間を麻痺させる、その麻痺は始末が悪い、相当な毒だが、不思議なほどに疑問を抱かせないのだ、余程巧妙なシステムか、あるいはトラディショナルがあるのだろう、気付くとその場所で人間は人間ではなくなる、もはや洋服屋の中に立っているマネキンと同じくらいの存在意義しかなくなる、御覧、マネキンの束だ、のっぺりとした表情で立ち尽くしている、悍ましい光景だ、さっきもそんなことを思った気がする、関りがループしている、比較対象が明確になり過ぎている、それはブラフだ、ただふたつの世界が比べられているだけに過ぎない、現象としての認識が甘すぎるのだ、いわば、見えるものにとらわれすぎてその奥にあるものを感じ取ることが出来ないでいるのだ、少しの間なにも考えることがないようにと努めて歩いた、リセットというわけじゃないが、一度対象との距離を取ってみることはとても大事だ、最初に感じたことに夢中になってばかりいると大きなものを見落としてしまう、それで少しの間、頭を空っぽにして歩いた、そうしてどれだけの時が経ったのだろうか、やはり疲れは感じていなかった、興奮や体調のせいではない、そこには何か別の原因があるのだ、これは観念的な世界の中での出来事なのかもしれない、簡単にいうと明晰夢のようなものを見ている状態なのかもしれない、けれど、それはしかし、観念的というフィルターを通してみるとあまりにも死のにおいが立ち込めていた、俺は初めて混乱した、俺自身になにかあったのではないかと不安になったのだ、けれど、ここに来るまでのことは思い出せなかった、だから、その問題は後回しにすることにした、そうしなければなにも片付かないだろう、歩いているうちに、そういえば砂地の上など歩いたのはどれくらい前のことだろう、とふと考えた、大人になってからはもう何年もそんなことをしていなかったように思えた、もしかしたら、幾つかの出来事を忘れているだけかもしれない、一度記憶に不信感を抱くとそんな考えが当たり前のように頭をもたげてくる、そのままこだわらないで歩き続けることも出来た、けれどなぜかどうしてもそのことについてはもう少し考えたかった、砂上に座り込んで、脳味噌の中を掻き回した、やがて俺の身体はさらさらと砂のように崩れ落ち、それまでそこにあったものたちとなんら変わらないものになった、ほんの一瞬、ささやかな風が吹いて、底に誰かが腰を下ろしていたかもしれないと思えるような小さな窪みも初めから無かったかのように消え失せていた。