詩の日めくり 二〇一六年七月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一六年七月一日 「ヴィーナスの腕」


コンクリート・鉄筋・ボルト・ナットなどなど
構造物の物質的な素材と
温度や重力や圧力や時間といった物理的な条件や
組み立てる技術や出来上がりの見通しや設計図
といったもので建物が出来るとしたら
さしずめ
概念は物質的な素材で
自我は物理的な条件や組み立てる技術や出来上がりの
見通しといったものだろうか
言葉が言葉だけでできているわけではないといわれるとき
後者の物理的な条件や技術や見通しなどのことを
考慮に入れてのことなのだろう
その言葉に個人の履歴が
またその言葉の歴史的な履歴があって
そういったもののほかに
その言葉を形成したときの個人の状況(部屋の様子など)も
大いに反映されてる
ヴィーナスの彫刻の腕のない有名なものがあるけれど
その彫刻について
「腕がないから
 想像し
 美しいというように思えるのだ」
みたいな文章を
綾小路くんが読んだことがあって
って
ぼくが
たくさん本を読んでいると驚くことがあんまりなくなるんだよねえって
一般論を口にしたときに言って
しばらくお話
不完全なものが完全なものを想起させるという骨子の文章だったかな
ヴィーナスだからうつくしい
だから
ない腕も
あった状態でうつくしいはずっていう
常識論でもあると思うんだけど
人間て
あまのじゃくだから
Aについては非Aを思いつくんじゃないのって言った
でもさらに人間は
Aでありかつ非Aであるという矛盾律に反するものや
Aでもなく非Aでもないっていうのまで
Aという内容を見たら頭に思い浮かべるんじゃないのって言ったら
森くんが
人間って
そんな論理構造で捉えられるものばかりじゃないものまで
捉えるんじゃないのかなって言うので
まさしく
ぼくもそう思っているよと言った
そしたら
綾小路くんが
(ヴィーナスの話をはじめたときには
彼は 
はっきりと言わなかったのだけれど
ということは話の途中で思いついたと思うのだけれど)
(その腕のないヴィーナスの話を書いた人は
きのう大谷くんから
その文章は清岡卓行のものだと教えてもらった)
たぶんその思いつきに自分でこれはいけるぞって
思って書いたのではないかと思います
とのこと
作者がうまく説明できることだからという理由で
その文章を書いた可能性があるということ
というのも
綾小路くん曰く
「ぼくはその腕を頭に思い浮かべることができなかったんです」

ふううむ
それに思いついたことひとつ
腕のある状態を
ぼくらはふつうの状態としているが
そのふつうの状態も
具体性にかけることがあるということなのね
またまた思いついたことひとつ
事柄だけをAと捉えず
文章全体をAと捉えて
非A
Aかつ非A
Aでもなく非Aでもなく
エトセトラ・エトセトラと考えると
わたしたちは文章を書くことに過度に敏感になるのではないか
臆病になるのではないか

と書かれてあるだけで
ほかのいっさいのものの意味まで
ひきよせて考えてしまう
句点

だけで
あらゆる意味概念の
言葉
文脈
文章をあらわすとなると
文学が
とても
書くのが
いや
解釈も
むずかしいものになる

意味概念が
Aかつ非A
といったことはあるかもしれんが
現実の物事が
Aかつ非Aということはないかものう
しかし
解釈論としては
事物に対しても
Aかつ非Aはありえる
そいつは
まあ
解釈が
現実の事物そのものではないからじゃが
しかし
神秘主義の立場でなら
たとえば
イエスが
神であると同時に人間であるというのは
何十億という
クリスチャンたちが
(何億かな)
信じてるんだから
事物でも
Aかつ非Aはあると
考えることについては
意義がある
意義がない


二〇一六年七月二日 「人間自体が一つの深淵である。」


わたしたちのこころには
自分でも覗き込むことの出来ない深い淵があってね
それは他人にもぜったいに覗き込むことのできない深い淵でね
自分でも
じゃなくて
自分だからこそかな
その深い淵にはね
近づこうとすると
遠回りをさせて
その淵から引き離そうとさせる力が自分のなかに存在してね
無理に近づこうとすると
しばしば躓いてしまって
まったく違った場所を淵だと思ったり
ひどいときには
あやまった場所で
二度と立ち上がれなくなったりするんよ
もしかすると
他人の方が近くに寄れるのかもしれないけれど
でもね
その近さってのは
ほんのわずかのものでね
淵からすれば
ぜんぜん近くなってないのね
ひとがいくら近いと思っても
そうじゃないってわけ
人間自体が一つの深淵である


二〇一六年七月三日 「朗読会」


 きょう、京阪浜大津駅近くの旧大津公会堂に行くことにした。ジェフリーさんと久しぶりにお会いする。方向音痴で、交通機関の乗り方もあまり知らないので、早めに出ることにする。三条京阪から30分くらいのところらしい。(いま、ネットで調べた。)

 伊藤比呂美さん、平田俊子さん、新井高子さん、川野里子さん、田中教子さん、ジェフリー・アングルスさん、キャロル・ヘイズさんの朗読らしい。

 個性的な強烈な詩の朗読だった。新井高子さんとは、何年振りかでお会いした。相変わらずチャーミングな方だった。また平田俊子さんの詩のユーモアは、ぼくにはないものだった。そして、伊藤比呂美さんは、朗読も迫力があり、人間的な魅力にもあふれた方だった。とりわけ、伊藤比呂美さんは、人間の器が違い過ぎる。巨大だ。ぼくの書いているものが弱弱しい糸で縒り合わせられたものであることが実感された。生の朗読会、行ってみるものだなって思った。

 きのう、モームの『サミング・アップ』を読んでいて、それがあまりに自然に自分の胸に入ってくる文章なので驚いた。きょう、ジェフリーに、「さいきん、何を読んでいるの?」と訊かれ、即座に、「モーム。」と答えた。「あとSFと。」と付け足した。「ルイーズは、げらげら笑っちゃった。」と言った。

 ううん。撚り合わせる糸を太くしなければならない。55歳。だいぶ経験もしていると思うのだけれど、どこか弱弱しいのだな。もしかしたら、経験していないのかもしれない。経験していないのかもしれない。きちんと。


二〇一六年七月四日 「優れた作家の凡庸さ」


 いま、きみやから帰ってきた。これから、モームの『サミング・アップ』を読みながら寝る。さくさく読める。メモはいっさいしていない。書かれてあることに異論もなく、新しい見解も見出せなかったからである。成功した作家というものの凡庸さに驚きはしたけれど、常識がなければ小説も書けないのだから、そう驚くべきことではないのかもしれないとも思った。まあ、それでも短篇選は読むけど。むかし、長篇の『人間の絆』を読んだけれど、よかったと思うのだけれど、記憶がまったくない。読んで栄養にはなったと思う類の本だった。とにかく体調が悪い。本を読みながら床に就く。


二〇一六年七月五日 「マンリケちゃん」


ハイメ・マンリケの『優男たち』太田晋訳・青土社
編集を担当なさった郡 淳一郎さんからいただいたのですけれど
いま100ページくらい読みました
プイグがなさけないオカマとしてではなく
こころある人間として書かれてあると思いました
キャンプなオカマとしてのプイグ
鋭く
繊細で
力強いプイグ
マンリケも
ぼくのいちばん好きな『赤い唇』をもっとも高く評価していたので
うれしかった
レイナルド・アレナスのことが書かれた章を読み終わったところ
アレナスの本はすべて読んでいたので
アレナスがどんなものを書くか知ってはいたが
最期に自殺したことは記憶になかった
その作品があまりに強烈な生命力を持っていたからか
自殺するような作家だったとは思いもしなかったのだ

持ってる本で
一番手近なところにおいてある
『夜明け前のセレスティーノ』に手をのばして
解説を読むと自殺したことが書いてあった
読んだのは
そんなに前ではなかったし
ユリイカの特集号も持っているし読んだのに
やっぱり生命力のずばぬけて傑出した作家だったから
自殺したことを読後に忘れさせてしまったのだろうか
47歳だった
ぼくも2008年1月で47歳だ
アレナスはカストロを死ぬまで憎んでいた
それは死ぬまで自由を愛していたということなのだと思う
同性愛がただたんに愛の一つであること
ただそれだけのことを世界に教えることのために
死ぬまでカストロを憎んでいたのだと思う
ただ同性愛者というだけで
数多くの人間を拷問し虐殺したキューバ革命の指導者を
マンリケの本を読んでよかった
怒りや憎しみが人を輝かせることもあるのだ
愛だけがふれることのできる変形できるものもあるかもしれないが
愛だけではけっして到達できない場所やできないこともあるのだ
ロルカの章を読んだ
スペインの内乱時に
銃殺されたという悲劇で有名な
ジプシー歌集と同性愛を歌った詩を
読んだことがあったのだが
それほどいいとは思われなかった
しかしマンリケという作家の力だろうか
いままでそれほどよいと思われなかったフレーズが
えっこんなにこころによく響く言葉だったんだ
って思わせられてしまった
(といっても二箇所だけ)
まあしかしこのマンリケという作家
いままで耳にしたこともなかったけれど
言葉の運び具合がじつにいい
適度に下品でそこそこ品もよい

しかし訳文で一箇所
これはいやだなって訳があった
萌え
って言葉が使ってあるところ
キャンプなオカマってことは
わかってるんだけど
この言葉は
当時の文化状況を説明するときには
合ってないような気がする
いまの文化状況ならわかるけれど
ここんところ
異論はありそうだけど
ロルカが巨根だったって
へえええええええ
マンリケが人から聞いた話でだけど
そんなこともマンリケの本には書いてあった
ぶひゃひゃ
そんな話題もうれしい
いい薬です
いやいい本でした
マンリケの本の最後はマンリケ自身のことをつづったものだった
ただしそこに自分と同じ名前の人間を探すというのがあって
これっていま
たくさんの人がしてるけど
ネットで自分の名前を検索するってやつ
マンリケの場合は人名帳だったけれど

ぼくと同じ名前のひともたくさんいて
そのひとたちが嫌な思いをしなければいいなって思うんだけど
いやな思いをしてたらごめんなさいだす

マンリケの本に戻ります
自己分析してるところで
シモーヌ・ヴェイユやリルケの引用をしてたんだけど
どちらの引用も
ぼくの大好きなところだったから
マンリケのことを
これからはマンリケちゃんと呼ぶことにするね

それらの引用は
とてもいいって思うから
ここに引用しとくね
「苦しんでいる人に注意を向けるという能力は
非常に稀にしか見られないばかりか
きわめて困難なことでもある
それはほとんど奇蹟に近い
いや
奇蹟にほかならないのである」
「おそらく恐ろしいものというものはすべて
その存在の深みにおいて
私たちの救いの手を求めている
救われない何かなのである」


二〇一六年七月六日 「品詞」


形容詞とか
名詞とか
動詞とか
副詞とか
助詞とか
言葉というものを一括して品詞分類しているが
どれも「言葉」としての範疇で列記されている
しかし
おなじ「言葉」としてカテゴライズされてはいても
じつは
身長とか体重とか温度とかくらいに、それぞれが異なる別の範疇のものかもしれない


二〇一六年七月七日 「詩人」


 塾の空き時間に、『モーム短篇選』上巻で、「ジェーン」を読んでいた。まだ途中だけど、モームがうまいなあと思うのは、とくに女性を意地悪く描いているところが多い。ぼくのエレクトラ・コンプレックスを刺激するのかな。これ読みながら、きょうは寝る。おやすみ、グッジョブ!

 いま日知庵から帰ってきた。『モーム短篇選』下巻のつづきを読もう。「詩人」の落ちは予想がついてた。予想通りだったけど、笑った。


二〇一六年七月八日 「「モーム短篇選」上巻の脱字」


 むかしから学生映画とか好きだったからショート・フィルムをよく見るんだけど、演技者も無名、ぼくも無名ってのが、よいのかもしれない。ぎこちなさを以前に書いたけど、ぎこちなさというのが、ぼくには大事なポイントかな。芸術が芸術であるための一つの指標かな。ぎこちなさ。大事だと思う。クロートっぽいというのは、どこか、うさん臭いのである。とりわけ、芸術において、詩は、シロートっぽくなければ、ほんものに見えないのである。というか、ほんものではないのである。ぎこちなさ。

 岩波文庫『モーム短篇選』上巻の脱字 203ページ 3行目 「好きなだけ歌っていのよ」 「い」が抜けている。 岩波文庫に間違いがあると、ほんとに嫌気がさす。やめてほしい。間違ったまま、7刷もしているのね。うううん。

 読書を可能ならしめているのが、個々の書物に出てくる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」「おれ」が、異なる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」であっても構わないという約束があって、たとえば、同じ映画を見ても、見る者によって、見られた人物が異なってもよいというところにある。


二〇一六年七月九日 「ひさしぶりの梯子」


 学校の帰りに、大谷良太くんちによって、そのあと、きみや、日知庵のはしご。きょうは、ビール飲みまくり。あしたは、遊びに出かけよう。


二〇一六年七月十日 「投票」


鉄橋のアザラシ バナナな忠告 疑問符な梨 さらにより疑問符なリンゴ

 投票してきた。共産党候補と共産党とにである。帰りに、スーパー「ライフ」で、サラダと穴子弁当を買ってきた。


二〇一六年七月十一日 「文学経験」


 20代と30代は、世界文学全集を、いろいろな出版社で出ているものを読みあさっていた。40代になり、SFの文庫本の表紙がきれいなことに気がついて、SFにのめりこんだ。ミステリーとともに。50代になって、純文学とSFの比重が同じくらいになった。


二〇一六年七月十二日 「煉獄効果なのだろうか?」


転位
一つの象徴からまた別の一つの象徴へ
夜がわたしたちを呼吸する
わたしたちを吐き出し
わたしたちを吸い込む
夜が呼吸するたびに
わたしたちは現われ
わたしたちは消滅する
これは比喩ではない
夜がわたしたちを若返らせ
わたしたちを年老いさせる
転位
一つの象徴からまた別の一つの象徴へ
不純物が混じると
結晶化する速度が大きくなる
純粋に近い結晶性物質であればあるほど
不純物の効果は絶大である
記憶に混じる偽の記憶
もしも事実だけの記憶というものがあるとしたら
それは記憶として結晶化するには無限の時を要することになる
もしかしたら
記憶として留めているものは
すべて不純物である偽の記憶を含有しているものなのではないだろうか
無数の事実ではないもの
偽の記憶
偽の記憶ではあるが
それは不必要なものであるかといえば
そうではない
むしろ
事実を想起せしめることが可能であるのは
その偽の記憶が在るがためであろうから
絶対的に必要なものなのである
偽の記憶がなければ
いささかの事実も明らかにされないのであろうから
虚偽がなければ記憶が想起され得ないという
わたしたちのもどかしさ
自分のものであるのに
どこか他人ごとめく
わたしたちの記憶
しかし
そうであるがゆえに
わたしたちは逆に
他者の記憶を
わたしたちのなかに取り込んで
わたしたちの記憶のなかに織り込み
わたしたちの生のよろこびを
わたしたちの事実を
わたしたちの真実を
横溢させることができるのである
偽の記憶
すべての営みが
与え合い
受け取り合う
真偽もまた


二〇一六年七月十三日 「顔面破裂病」


通勤電車に乗っていると
前の座席に坐ってる
女子高校生の顔が
ピクピクしだした
いそいで
ぼくは
傘をひらいた
ぼくの顔が破裂した
ぼくはゆっくりと
傘をしぼませて
傘の内側にくっついてる
顔の骨や目ん玉や鼻や唇や
ほっぺたの肉など
みんなあつめて
顔のあったところでくっつけていった
女子高校生の顔面のピクピクは
顔面破裂病の初期症状を
はっきりと示していた
彼女は
おぞましいものを見るような目つきで
ぼくの顔をちらちらと見ていた
ぼくもむかしはそうだったんだよ
ひざを持ち上げて
傘を盾にしていた向かいの席の人たちも
ぼくが顔の骨と骨をくっつけているときには
すでにみんなひざを下ろして
傘をしまっていた
突然
床が顔に衝突
と思ったら
両目が顔から垂れたのだった
もう何度も顔から飛び出しちゃってるんで
ゆるゆるになっちゃってるのね
ぼくは
もう一度
目ん玉を元に戻して
額の上に
顔面破裂病のシールを貼った


二〇一六年七月十四日 「さぼっている。」


 7月になって、本を読まなくなったのだけれど、自分でも理由がわからない。ぼうっとしているだけの時間が多くて、無駄に過ごしている。まあ、そんなときがあってもいいかなとは思うけれど。


二〇一六年七月十五日 「「わたくし」詩しか存在していない。」


けっきょくのところ、
あらゆる工作物は自我の働きを施されたもので形成されているので、
詩もまた「わたくし」詩しか存在していないような気がします。
また、「非わたくし」性を呼び込むものが
歴史的事実であったり、科学的事実であったり
他者の個人的な履歴や言動であったりするのでしょうけれど
それをも「わたくし」にするのが表現なのでは
と、ぼくは思っています。
引用という安易な方法について述べているだけなのではなく
引用以外の部分の一行一句一文字のことをも、
ぼくは、「わたくし」化させているような気がしています。
でも、これは、自我をどうとるかという点で
見方が異なるということなのだと思います。
ぼくは、すべての操作に自我が働くという立場ですから
そういうふうに捉えています。

「客観的」というのはあるとしても表現の外での話で
「他者」も表現の外でなら存在するかもしれないのですけれど。
どちらも、完全な「客観性」や「「他者性」を持ち得ないでしょうね。
ぼくは、そういう見方をしています。

「わたくし」について書かなくても「わたくし」になってしまう。
公的な部分というのは言語が持つ履歴のようなものだと考えています。
読み手のなかで形成されるものでもあると考えています。
あくまでも表現されたものは、表現者の自我によって形成されていると思うのです。
どんなに自分の自我を薄くしようとしても、その存在は消せないでしょう。
表現する限りにおいては。

言葉から見ると、人間は道具なのですね
言葉の意味を深めたり拡大したり変形したりするための。

あるいは、餌といってもいいでしょう。

物書きはとりわけ
言葉にとって、大事な餌であり、道具なのです。

詩人の役目は
言葉に奉仕すること

ただこの一つのことだけなのですね。

できることは。

そして
言葉に奉仕することのできたものだけが
ほんとうの意味での詩人なのだと思います。

そういう意味でいうと
「私を語る」ことなどどうでもよく
「詩の署名性」のことなどもどうでもいいことなのですね。

ただ、人間には自己愛があって
まあ、動物のマーキングと似たものかもしれませんが
「私を語る」欲望と
「自分が書いた」という「署名性」にこだわるものなのかもしれませんが
言葉の側から見ると
「私を語る」ことが、言葉にとって有益ならば、それでよいし
「私を語る」ことが、言葉にとって有益でなければ、語ってくれるなよ
ということなのだと思います。

人間の側からいえば
言葉によって、自分の人生が生き生きしたものに感じ取れればいいのですね。
読む場合でも、書く場合でも。


二〇一六年七月十六日 「全行引用による自伝詩。」


 パウンドも生きているあいだは、その作品をあまり読まれなかったのかもしれない。ダン・シモンズの文章に、「生きていたときには、あの『詩篇』なんて、だれも読まなかったのに。」(『ハイペリオンの没落』上巻・第一部・14、酒井昭伸訳、215ページ)とあった。

『全行引用による自伝詩。』のために、10分の1くらいの量のルーズリーフを処理していた。どうやら、『全行引用詩・五部作』上下巻より、よいものになりそうにないので、計画中止するかもしれない。何年もかかって計画したものもあるけれど、すべて実現してきた。計画中止にするかどうかはわからないけれど、こんなの、はじめての経験だ。


二〇一六年七月十七日 「詩人」


詩人とは、言葉によって破滅されられた者のことである。


二〇一六年七月十八日 「1つのアイデア」


 1つのアイデアが、ぼくを元気づけた。1つのアイデアが、ぼくの新しい全行引用詩に生き生きさを与えてくれた。引用の断片を見つめているうちに、ふと思いついたのだ。引用自体に物語を語らせることを。言葉は、ぼくを使役するだろう。言葉は、ぼくを酷使するだろう。言葉は、ぼくを破滅させるだろう。

 きのうのぼくの落ち込みは、ほんとうにひどかったけど、いま5つの断片を結びつけてみて、おもしろいものになっているので、ひと安心した。きのうから、韓国アーティストの Swings の曲をずっと聴いている。まえに付き合ってた男の子にあまりに似ているので、なんか近しい感じがする、笑。

 きょう一日でつくった部分、3メートルくらいの長さになった。休日なのに、ずっと部屋にこもって作業してたぼくの咽喉に、これからコンビニに行って、ビール買ってきて飲ませよう。

 これが、2、30メートルになると、1冊の詩集になる。これから、サラダとビールをいただく。

 短篇のゲイ・フィルムをよくチューブで見るのだが、その1作に出てた、てらゆうというアーティストの「ヤッてもないのに君が好き~easy~」って曲を、これまたチューブで聴いてて、なんだか癒された。彼のチューブを見てたら、トゲトゲした自分の感じがちょこっとでもなくなってくような気がした。

 イマージュを形成しつつ、そのイマージュを破壊するコラージュをつくっていると、どうしてもトゲトゲしくなってしまう。ああ、これかもしれない。ぼくの恋愛がすぐに終わってしまう理由は。未成熟。55歳で。歯を磨いて、クスリをのもう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年七月十九日 「全行引用による自伝詩。」


 いま、てらゆうという名前のアーティストのチューブに、彼の曲の感想を書いたのだけど、芸術のなかで、ぼくは、ユーモアがもっとも高い位置にあると思っているのだが、きょう、つくっていた全行引用詩も、ユーモアのあるものにしたいと思って、ハサミで切った紙片をセロテープで貼り付け合わせていた。

 すべての紙片の順序を決めた。あとは、セロテープでくっつけていくだけ。きょうじゅうにくっつける。ふう、これで、8月に文学極道に投稿する新しい作品『全行引用による自伝詩』ができた。シリーズの第一作品だけど、たぶん、これだけで詩集1冊分あると思う。『全行引用詩・五部作』の補遺みたい。

 終わった。晩ご飯を食べに行こう。セロテープも、ダイソーで買っておこう。あと、ちょっとでおしまいだから。ワードへの打ち込みは、今晩からはじめよう。恋人がいないと、こんなに作業がスムーズ。(負け惜しみ~、笑)

 これからさっき出来上がったばかりの『全行引用による自伝詩』をワードに打ち込んで行こう。理想とはかけ離れたものだけれど、現実につくれたものに限界があっても、あたりまえだものね。自分の発見していない美が、どこかにひっそりと潜んでいるかもしれないしね。まあ、レトリック例文集みたいな詩。

 1メートル分くらい打ち込んだ。きちがいじみた内容だったので、お祝いに、コンビニに行って、ビールを買ってきて飲んでいる。55歳にもなって、まだ、きちがいじみたものが書けることがうれしい。

 いいものが書けたときって、なんというか、過去に何度か死のうと思ったことがあったのだけれど、ああ、死ななくてよかったなって感じかな。自分がここに存在しているという実感が、ぼくにはつねにないのだけれど、その予感みたいなものは感じ取れるって感じかな。

 腕の筋肉が痛くなるまでワードに打ち込んでいこうと思う。並べてみて、はじめて発見したことがある。ぼく以外のひとにも発見の喜びを知ってほしいので書き込まないけれど、ラテンアメリカ文学者同士の影響って、言葉のレトリック上にも見られるのだなと思った。ヒント書き過ぎかな。まあ、いいや。

 2メートルほど入力した。しんど~。まえにつくった『全行引用詩・五部作』上巻・下巻をどうやって入力したのか記憶がない。もとのルーズリーフを切り刻んでいないので、書き写したことになるのだが、そうとうな労力だったろうなと思う。もう二度と、できない。今回のは、書き溜めたルーズリーフの半分ほどを処分するつもりで、半分くらいしか読み直しをせずにつくったのだけれど、これは、ライフワークにするつもりだったけれど、今回でやめるかもしれない。ここ数日の苦痛はたいへんひどかった。きちがいじみた、笑けるものができたのでよかったけれど、打ち込みもたいへん。


二〇一六年七月二十日 「全行引用による自伝詩。」


 きょう、ワードの打ち込み、A4で、14ページまでだった。あと半分ちょっと。これだけで、薄い詩集ができる。このあと、全行引用詩はしばらくつくらないことにした。あまりに精神的な労力が激しくて。というか、ぼくは、ふつうの詩を、ここしばらくつくっていない。つくれなくなったのかな。

 きみやからの帰り道、ぼくの頭のなかは、ピンクフロイドの「あなたがここにいてほしい」がずっと鳴ってた。15年の付き合いのあった友だちとの縁が切れて1年。ぼくは、人間にではなく、芸術に、詩に、自分のほとんどの精力を傾けているのだなとあらためて思った。人間が好きだと思っていたのだけど。

 たくさんのことを手にすることは、ぼくにはできないと知っていた。20代、30代、40代と、何人もの恋人たちと付き合って別れた。付き合いつづけられなかったのは、ぼくの人間に対する愛情が、詩に対する愛情より高くなかったと思える。いま、全行引用による自伝詩を書いていて、そう思った。

 1つのことを得ることも、ぼくにはむずかしいことかもしれない。でも、まあ、もう、死もそんなに遠いことではなくなって、少なくとも、詩だけは、得ようと思う。

 Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を聴いている。もう5回か、6回目。これくらい美しい曲のように美しい詩が、1つだけでもつくれたら、死んでもいいような気がする。ぼくは、もう、つくっているような気がするのだけれど、つくっていないような気もする。

 まあ、いいや。ぼくの詩は、ぼくが生きているあいだは、ほとんど読まれないような気がする。それでよいという声も、ぼくの耳に聞こえる。おやすみ、グッジョブ!

 Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を、もう10数回は聴いてる。美しい曲。すてきな恋人たちとは何人も出合ってきた。美しい曲もたくさん知っている。でも、ぼくのこころは、どこかゆがんでいるのだろう。詩をつくろうとしている。はやく死が訪れますように。

 たぶん、死ぬまで、詩を書きつづけるのだろうから。これでいいや、と思うのが書けたら、死んでもよい。


二〇一六年七月二十一日 「あなたは私を愛した甘い夢」


昨日の夜でした.
悪夢だ.
悪夢から逃れる方法は,
目を覚まして真ん中に
しかし睡眠を開始します.
別のブランドの新しい悪夢.
起きてまた寝て, 起きて, 寝ます.
起きて夜の外に,
沈黙や沈黙.
目に失敗して暗くなる前に適応.
目を開けて.
それは落ちるようにブラックホール.
なぜ, また目を閉じた.
見ないであろうタバコを吸いに素敵な夢を
あなたは私を愛した甘い夢.

いま見た中国人のFBフレンドのコメントの機械翻訳
これは詩だよね。

「あなたは私を愛した甘い夢.」

すばらしい言葉だ。
「みんな夢なんだよ。」
って引用を、きょう、ワードに打ち込んでた。

ぼくと付き合ってた恋人たちも
みんな夢だったのだ。

ぼくも、だれかの夢であったのだろうか。

たぶんね。

そこにいて
笑って
泣いてた
夢たちの記憶が
きっと
ぼくに詩を書かせているのだな。

「みんな夢なんだよ。」

「みんな夢なんだよ。」

「あなたは私を愛した甘い夢.」


二〇一六年七月二十二日 「あいまいに正しい」


「あいまいに正しい」などということはない。
感覚的にはわかるが
「正確に間違う」ということはよくありそうで
よく目にもしてそうな
感じがする 。


二〇一六年七月二十三日 「孤独な作業」


 ワードを打ち込みながら、作品つくりって、こんなに孤独な作業だったっけと、再認識してる。うううん。

 いま日知庵から帰ってきた。塾に行く途中、てらゆうくんに似た男の子が(22、3歳かな)自転車に乗ってて、かわいいなと思った。こういう系に、ぼくは弱いのだな。日知庵では、帰りがけに、かわいいなと思ってた男の子(31歳)がそばに寄ってきて、しゃべってくれたので、めっちゃうれしかった。

 きょうはワード打ち込み、2ページしかしなかった。なんだかつながりがおもしろくなくって、というのもあるんだけど、だけど、ぼく的におもしろくないってだけだから、ひとが読んだらどうなのかは、わからない。思いついて数分で書いた「水面に浮かぶ果実のように」が、ぼくの代表作になってるものね。
 ぼく的には、『全行引用詩・五部作』が、いちばん好きなんだけど、これが評価される見込みは、ほとんどゼロだ~。まず、さいごまで読むひとが、ほとんどいなさそうだし、ぜったい、どこか飛ばし読みしそうだし、笑。

 あかん。Swings の曲を聴いて、ジーンとして、きょうも目にした、かわいい男の子たちを思い出して、自分の若いときのことを思い出してる。夢を見たい。むかし付き合った男の子たちの。えいちゃん、えいじくん、ノブユキ、ふとしくん、ケイちゃん、名前を忘れてしまった、何人もの男の子たち。


二〇一六年七月二十四日 「書くことはたくさんある。」


 いま日知庵から帰った。あしたはワード打ち込み、何時間やれるだろう。がんばろう。さいきん、本を読んでいない。『モーム短篇選』下巻の途中でストップしている。

 今週は、『全行引用による自伝詩』の制作にかかりきりだったのだが、まあ、まだ数日かかるだろうけど、さっき、ふと思いついた。この引用に関するノートを付け加えようと。『The Wasteless Land.』と同じ構造だが、膨大な量のノートになると思う。『全行引用による自伝詩』の本文で、8月に文学極道に投稿したあと、その注解ノートを何か月か、場合によっては、一年くらいかけて書こうと思う。さっき冒頭の3行ほどの引用について考えた部分だけで、数ページ分くらい思いついていたので、どこでやめるか、あるいは、やめないか、自分自身にいたずらを仕掛けるような感じで書こうと思う。ぼく自体はからっぽな人間なのに、書くことはたくさんある。どしてかな。


二〇一六年七月二十五日 「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」


 きょうは、ずっと横になって音楽を聴いてた。これから大谷良太くんとコーヒーを飲みに出る予定。『全行引用による自伝詩。』の入力は夜にしよう。音楽を聴いて、ゲイの短篇映画を見てたら、ハッピー・エンドって少なくて、たいていは苦い終わり方。ふつうに生きてるだけでも苦しそうなのにね、この世界。

 いま、きみやから帰ってきた。大谷くんと、モスバーガー、ホルモン焼きや、日知庵のはしご。きょうは、入力ゼロ、笑。帰りに、阪急電車のなかで、途中から乗ってきた男の子がチョーかわいくって、隣に坐ってきたからドキドキだった。まあ、毎日が、奇跡なんだよなって思う。美しい、悲しい、味わい深い、この人生。

 ロジャー・ゼラズニイの引用で、「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」というのがあったと思うのだけれど、これ、『引用による自伝詩。』に入れてなかった。あした入れておこうと思う。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』のさいしょのほうの作品に引用してたと思う。

 この1行の引用について、えんえんと何ページにもわたって注解を書くことになると思う。好きになった子にはかならず聞くことにしているのだが、みんな、「そんなん考えたこともない。」と言うのだった。ぼくはいつも考えているので、そう聞くたびに眉をひそめるのだった。


二〇一六年七月二十六日 「作業終了」


『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。


二〇一六年七月二十七日 「蛙。」


同じ密度で拡散していく。


二〇一六年七月二十八日 「イタリア語では」


イタリア語で
Hのことは
アッカっていうの
でも
イタリア語では発音しないから
ハナコさんはアナコさんになります
ヒロシくんはイロシくんになります
アルファベットで
ホモシロイと書けばオモシロイと読まれ
ヘンタイと書けばエンタイと読まれ
フツーよと書けばウツーよと読まれます


二〇一六年七月二十九日 「因幡っち」


 韓国のアーティストのCDを買いたいと思ってアマゾンで検索しても買えないことがわかって悲しい。Hyukoh と Swings の音楽がすごく好きなんだけど、手に入らない。これって、どうして? って思うんだけど。いまいちばん美しい音楽を手に入れられないって、どうしてなの? って思う。

 きょう、因幡っちとカラオケバーで朝5時まで歌った。かわいかった。人間は、やっぱ、かわいい。かわいいというのが基本だわ。

そう、かわいいというのが基本。人間は、基本、かわいいわ。


二〇一六年七月三十日 「TED」


マイミクのTEDさんの「sometimes」という詩を読みました。

sometimes we love
sometimes we sad
sometimes we cry

sometimes sometimes

life is it
it is life

とても胸がキュンとしたので

i think so.

a lot of time has us
a lot of places have us
a lot of events have us

so we know ourselves
so we love ourselves
so we live together

と書き込みました。

同じような喜びと
同じような悲しみを
わたしたちが体験しているからでしょうね
うれしい顔はうれしい顔と似ています
悲しい顔は悲しい顔と似ています


二〇一六年七月三十一日 「文学極道投稿準備完了」


『全行引用による自伝詩。』の本文の見直しが終わった。ぼくの全行引用詩のなかでは、不出来なものだ。しかし、注解をつけて、その不出来さを逆手にとろうと思う。できるかどうかはわからないが、もちろん、できると思っているから着手するのだ。全行引用による本文はきょうの夜中に文学極道に投稿する。






自由詩 詩の日めくり 二〇一六年七月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-05-31 10:34:17縦
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