ただ、風に揺らぐように
ホロウ・シカエルボク
光線は不規則にそこかしこで歪み、まるで意識的になにかを照らすまいと決めているみたいに見えた、ガラス窓の抜け落ちた巨大な長方形の穴の外は無数の騎士たちが剣を翳しているかのような鋭角な木々の枝で遮られているのだ、断末魔のような声で鳴く鳥がその枝のどこかに居るようで、くっきりと浮かび上がる音といえばそんなものくらいだった、もとは木材かなにかの内装が施されていたのかもしれないが、途方もない年月が過ぎたのだろういまとなっては、ただただ剥き出しのコンクリートが手の込んだ墓標のように突き立って居るだけだった、時間はようやく夜から朝に完全に入れ替わったばかりで、初夏といえど山頂では肌寒さすら感じるほどだった、どこかから滲みだしているのか、水の滴る音が微かに聞こえていた、耳を澄ましているとそれはまるで無差別で無意識で無意味な催眠術のように聞こえてくるのだった、あとはただ、もはや明確な意識すら亡くした過去が、水族館の巨大水槽をゆっくりと泳ぐピラルクのようにがらんどうの空間を移動しているだけだった、そんなところに佇んでいると、今年の初め、アナフィラキシーショックで意識を失くしたときに見た夢のことを思い出した、その夢の中で、どこか、存在しない空間の中で、実際には居ない誰かと待ち合わせをしていた、そこに、偶然久しく会っていなかった、実際には居ない知人と出くわす、本当に久しぶりだね、なんて会話をして、このあとヒマかと尋ねられ、悪いんだけどいま待ち合わせをしているんだ、と答える、そうか、残念だな、と彼は答え、じゃあ、またどこかで、と言って去っていく、そんな夢だった、気付くと処置室のベッドの前で車椅子に乗せられていた、夢からすぐに帰ってこれず、一昔前のドラマで見る光景のように、わけがわからず狼狽えた、ああ、あれはとてもリアルな表現なんだな、とあとになって考えた、手摺も何もない二階への階段を上がりながら、あのとき、もしも待ち合わせの約束を反故にしてそいつについて行っていたら、と考えてみる、そのときは、こんな階段ではなくて天国への階段を上るハメになっていたのかもしれない、いや、もちろん、地獄への穴を真っ逆さまに落ちていたのかもしれないが、地獄か、清いものだけが穏やかに微笑みながらのんびりと過ごしているところより、無数の悲鳴がこだまするおぞましい光景のほうが落ち着くかもしれないな、それはいま住んでいる場所とあまり違いがないように思える、ただ、成り立ちがまるで違うだけなのだ、心の悲鳴か、実際に聞こえる悲鳴か、それだけのことだ、階段を上りきると、建物の内側をすべて使った広間が現れた、一階と同じようで違う光線が壁や床を切り裂いていた、床の一部分がへこみ、天井から落ちてきたらしい水が溜まっていた、あの音はここから聞こえていたのだろうか、けれど、どれだけ見上げてみてもそこから落ちてくる水滴は確認出来なかった、水滴にも意思があって、人間が見上げている間は落ちてこないのかもしれない、広場の一番奥にはステージのような空間があった、どこかの野外劇場のような殺風景なステージだった、そちらに向かって歩いていくと、空気に少し圧力のようなものが感じられた、目に見えるものはなにもないのに、なにかで満たされている、そんな感じだった、そういう感じがする場所というのはたまにある、こうした、かつて人が集う場所であったもの、あるいは、居住区、それから、大型家具店の、ソファーやベッドなんかを売っているスペースには、必ずそういう感じがする場所というのがある、ステージの脇に回ると数段の階段があった、そこを上るとさらに圧迫は強くなっていった、ステージの中央に立って、さっき歩いてきたところを見下ろした、足元が歪み、揺れるような不安定な感じがあった、どこにも繋がっていないところへ落ちるのではないかという不安が巻き起こった、けれど動かずにじっと立っていた、世界はきっと便宜的に実存を余儀なくされている、確かにそこに在るというものなど本当はひとつもありはしないのだ、そうだよな、とそこに集まっているなにかに思わず話しかける、窓であった空間からこちらを覗き込んでいる木の枝が、嘲笑するみたいに束の間かさかさと揺れた、ふらつきながら舞台を去り、一階へ戻ると、嘘のように空気は静かになった、目に見えるものばかりを信じるのは愚かだ、だけど、目に見えないものに踊らされ続けるのはもっと愚かかもしれない、確かにそこに在るというものなど本当はひとつもありはしないのだ、必要なことは多分、それらすべてをそのまま受け止めることなのだ、建物をあとにすると、途端に鳥たちが騒ぎ始めた、あいつらもきっと、自分だけにしか見えないものを見つめ、そしてそれをどこかへ吐き出したくてしかたがないのだ、そのときなぜかそんなことを思った、いつのまにか汗が滲むほどに気温は上がり始めていた。