メモ(たわいもないこと)
道草次郎
ふと、かわいそうでかわいそうで仕方ない時がある。誰がとかではなく、何がとかではなく、ふと、何となく漠然とそうなるのだ。小学生の時、担任だった教師がかわいそうという言葉は無責任だと言っていた。ぼくは中学校から日本の学校制度の世話にならなくなったけど、思えばかわいそうなものを素直にかわいそうと言いにくい場所になど行きたくは無かったのである。そういうことであった。
ぼくの詩作の動機の70%はこうだ。誰かが何かハッとするような事を書いていたり、ぼくには到底理解できない事をスラスラと論じていたりするのを見聞きする。嫉妬し、劣等感を感じる。その劣等感の持っていき場に困り、それをイジイジと詩にするのだ。70%だ。
誰かがこんなことを言っていた。詩を書くことに負い目や恥ずかしさを感じる人がとても多くて驚いたと、その人は言っていた。詩は生きることそのものだって。生きること、そこには書くことが当たり前に含まれていると。ぼくは思った。その通りだ。そしてこう思った。ぼくはどうすりゃいいんだろうって。こんな気持ち分かる人っているんだろうか。ぼくはいつだって、詩を書くことに当たり前を感じたことがない。生きること、細部に至るそのすべてに、書くことが含まれているなど、ぼくはこれまで感じたためしがない。だから思うんだ 。ああ、どうすればいいんだろうって。こういう気持ち、分かってくれる人ってあるんだろうか。