詩の日めくり 二〇一六年三月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一六年三月一日 「ブロッコリー」


いま、阪急西院駅の前のビルに自転車をとめたら
めっちゃタイプの男の子が近づいてきて
わ~
さいきん、ぼく、めっちゃ、もてるわ~
ってなこと考えてると
その子が言いました。
「このビルのどこかに行かはるんですか?」
「そだよ。本屋にぃ」
「じゃあ、すぐに戻ってこられますね」
「すぐだよん」
その子はシャツのエリがとてもきつそうだった。
20歳すぎかなあ。
ぼくの目をじっと見ながら、しゃべってた。
ガチムチの彼は
お巡りさんの制服のよく似合う子だった。
惚れられたかもね。

お昼に、ピザ、思いっきり食べた。
ブロッコリーといくらといっしょに。いつ死んでもよい。
いくらと違って、おくらと、笑。

きょうは、夕方に、2年ぶりに会ったかわいい男の子とチューをしたので、
もういつ死んでもよい。

 寝るまえの読書は、『極短小説』か、『フランス短篇傑作選』か、どちらかにしよう。


二〇一六年三月二日 「幸福」


いま日知庵から帰った。よっぱ~。きょうは、学校が終わって、
大谷良太くんちでお昼寝させてもらって、夕方から飲みでした。ぐは~。ねむ~。

one of us であること。one of them であること。
これ以上に、ぼくたちが、彼ら彼女たちが忘れてはならないことはないと、
詩人のぼくは断言する。

『極短小説』をあと少しで読み終わる。ぼくは『詩の日めくり』で、1行や2行の詩を書いているのだが、ぼくのものよりゆるいと思われる作品がほとんどだった。ぼくは、ぼくの道を歩む。過ちではないと思う。過ちではなかったと思うと思う。ぼくは幸福だなと思う。ぼく自身のことを信じることができて。


二〇一六年三月三日 「極短小説」


 あまりの苦痛に、痛みどめと、睡眠薬のあまっているもの(以前に処方されてあまってたもの)を飲んでたら、幻覚と幻聴を起こした。さいしょ、夢のような幸せな場所、映画館で映画を見るようにして、自分のタイプの子と話をしてたら、そいつがいきなり首だけの化け物になり、ぼくを宮殿に連れて行き、ぼくに、ぼくの文学的歴史の系図を見せた。ぼくはロビンソン・クルーソーのように孤立して生きるらしい。生きているあいだはまったくの無名で、ぼくの作品が評価されるのは死んでからだという。でも、まあいいよと言った。死んでからでも評価されないよりずっといいし、というと目が覚めた。ぼくは泣いて目が覚めたのだが、痛みはまだきつい。塾があるまで時間があるので、もう一度、クスリを追加して飲んでみる。幻覚が異常に生々しかった。ぼくは、違う世界とコンタクトしていたのだと思う。生きているあいだは孤立するというのは、ぼくらしくていい。

 浅倉久志訳の『極短小説』レベル低くて、捨ててもよい本だが、挿絵がかわいいので本棚に残すことにした。話はレベルが、ほんとに低い。お風呂場では、『Sudden Fiction』を読んでいるのだが雲泥の差である。これから塾に行くまで、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読む。

きょうも、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読みながら寝よう。


二〇一六年三月四日 「モーム」


 きょう、医院の待ち時間にジュンク堂に行って、モームの『サミング・アップ』と、『モームの短篇選(上)』と『モームの短篇選(下)』を買った。2900円くらい。岩波文庫の『フランス短篇傑作選』のさいごを読んでるときに、医者に呼ばれた。『フランス短篇傑作選』さすが傑作選だわ。とてもよい。数日前に買って読んだ『極短小説』あまりにしょうもないので捨てるわ。やっぱり、本棚には傑作しか置いておく必要性がないもの。そいえば、岩波文庫から、ゲーテのファウストの新訳が出てるのだけれど、困るわ。森鴎外以外のすべてのファウスト訳をそろえている身にとっては。『モーム語録』を半分くらい読んだ。おおよその思考のパターンはつかんだ。


二〇一六年三月五日 「寄せては返す彼。」


寄せては返す彼。Ⅰ

寄せては返し
返しては寄せる彼。
彼の身体は巌に砕け
血飛沫をあげる。
月が彼の上に手をのばして
彼の身体をゆさぶる
星が彼の身体に手をさしのべて
彼の身体をゆさぶる
彼の身体は
百億の月の光にあふれこぼれ
千億の星の光に満ちあふれる。
彼は砕け
彼は散る
寄せては返し
返しては寄せる彼。
百万の彼が
昼も
夜も
やすみなく
たえまなく
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼が
岸辺を
コロコロと転げまわる
百万の彼は
背広を砂まみれにして
白いシャツを
砂まみれにして
岸辺を
コロコロと
コロコロと
転げまわる
巌に
砕ける
百万の彼
彼の
無数の
手の指が
顔の皮膚が
血まみれの巌の上にへばりついている
巌にへばりついた
血まみれの指
巌にへばりついた
血まみれの顔
こぼれ落ちる歯や爪たち
コロコロと転げまわる
百万の彼
寄せては返し
返しては寄せる彼の身体
彼の身体がひくと残る
無数の手の跡
彼の手が引っ掻く砂の形
壊れては修復される
無数の傷跡


寄せては返す彼。Ⅱ

寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女のマンションの駐輪場で
彼は寄せては返し
返しては寄せる
駐輪場の小さい明かりの下で
百万の彼の身体が
コロコロと転がる
自転車やバイクのあいだの狭いところを
コロコロと転げまわる百万の彼の身体
彼女を待つ一途な気持ちが
百万の彼の身体を
駐輪場の上にコロコロと転がせる
百万の彼の身体は
ざらついたコンクリートの上で
擦り傷だらけ
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの駐輪場


寄せては返す彼。Ⅲ

お目当ての彼女が帰ってきた
寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女をマンションの入り口で
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
お目当ての彼女を囲んで
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
彼の身体が
彼女の身体に砕け
彼女の身体が
彼の身体に砕け
血まみれになる
彼女と彼
寄せては返し
返しては寄せる彼
百万の彼の身体が
倒れかける彼女の身体を支え
あっちに傾き
こっちに傾いた
彼女の身体を支える
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの入り口


二〇一六年三月六日 「一日に、2時間か、3時間くらいしか働いていないよ。」


 きのう、日知庵で、65歳のレディーたちお二人と、竹上さんと、はるくんと飲んだのだけれど、齢をいくことほど人間をおおらかにしていくものはないのかもしれない。55歳のぼくは、まだとがっている。

 平日に、1日に、2時間か3時間しか働いていないという人生を55歳までずっとやってて、って、きのう、日知庵で、はるくんと、竹上さんに、そう言うと、びっくりしてたんだけど、ぼくのほうもびっくりしたよ。非常勤講師で、塾の講師なんだから、そんなに労働時間あるわけないやんかと思うのだけど。

 目が覚めているあいだの、人生のほとんどの時間を、読書と思索に使うというのが、ぼくの人生設計の基本なのだから、そんなに働いてはいられないのだ。

 あさ9時に、かっぱ寿司まえに集合します。近くのラブホテルのサービス時間にセックスするために。とにかく長いセックス。やたらと長い時間のセックス。ふとももとか、女性だから、あざだらけになるんです。1週間前にセックスしたばかりなのに、またセックスするんです。彼って、ケダモノでしょう?

 お風呂に入って、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。少なくとも、これで3度目。というか、3冊目。

あしたは、えいちゃんと、隈本総合飲食店で食事をする。なに食べようかな。

 きゃは~。ハヤカワから、コードウェイナー・スミスの全短篇集が出る。ぜんぶで、3巻だって。既訳されたものは、ぜんぶ持ってるけど、買うよん。それから、マイクル・コーニイの『プロントメク!』が河出から出てる。これは名作だった。ボブ・ショウは出さないのかしら?

 きょうは、昼間にマクドナルドで、ベーコンバーガー食べて、あとで、コンビニで豆腐とサラダを買って食べたけど、いまちょこっとおなかがすいている。ちょっと遠いけど、ライフに行こうかな。


二〇一六年三月七日 「愛とは軽さのことだ」


 愛とは軽さのことだと思うことがある。どれだけ気楽に接することができるかっていう軽さのことだけどね。愛とは早さのことだと考えることがある。どれだけ素早く、ぼくがきみの立場になって考えられるかっていう早さだよ。ああ、愛は、そうだよ。軽さと早さのことなんだよ。それ以外のなにものでもない。

 これから河原町に。まずブックショッピングして、それから、えいちゃんと隈本総合飲食店に。

 えいちゃんと、隈本総合飲食店と、きみやさんに行ってきた。ジュンク堂では、ティプトリーの新刊を買った。ティプトリーは、『輝くもの、天より堕ち』以来だから、数年ぶりかな。短篇集だった。楽しみ。

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 Amazon で、自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、最新刊の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』(思潮社オンデマンド・2016年2月刊)が、そこそこ売れているので、うれしい。表紙に撮らせていただいた「まるちゃん」の画像効果だと思う。すてきだものね~。

 これからも友だちがつぎつぎに表紙になってくれる予定だ。まず、つぎに思潮社オンデマンドから出す予定の『図書館の掟。』では、強烈なインパクトのある画像を「はるくん」からいただいている。ぼくが極右翼と間違われるかもしれない危ない画像だが、とても美しい。

こんなのだ。→@atsusuketanaka https://pic.twitter.com/nO02kUzu6d


二〇一六年三月八日 「ユダヤ警官同盟」


 長時間にわたって幻覚を見ていた。それは現実の記憶を改変するほどのものだった。もうちょっとで、たいへん失礼なことをひとにすることになっていたかもしれない。文学作品を読んでいると、非現実のできごとを現実に取り込んでしまうことがある。気がついてよかった。よく知っている方の親戚で、厭なことを言われて憤慨したのだが、目が覚めて、そのような人物が存在しないことに気がついたのだった。しかし、シチュエーションは生々しかった。

 塾に行くまえにブックオフで、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上下巻を買った。未読の本が増えていく。本棚がまだ埋まる。死にたい。というか、寝るわ。クスリのんで。おやすみ、グッジョブ! あ、まえに付き合ってた子からうれしいメールが。チュって、さいごに。そうか、キスしたいのか。


二〇一六年三月九日 「目の見えないひと」


 きょうは、朝に3つの幻覚を見たので、あしたの朝は、どかな。楽しみ。学校の授業がないと、幻覚じみた夢を見まくり。やっぱり緊張感がないと、幻覚を見やすいのだろう。きょう見た3つ目の幻覚は現実を反映しまくりなので、無意識領域のぼくの自我からのメッセージは意識領域のぼくの自我に伝わった。

 これからきみやさんに。きみやさんのお客さんで、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』を買ってくださった方に詩集をもっていく。その方は目が不自由なので、Amazon でポチできないから、ぼくが代わりにポチして買ったのだった。ぼくのポートレートをつけて差し上げようと思っている。


二〇一六年三月十日 「引力の法則」


 きょう、日知庵に行くまえに、四条大宮で、このあいだチューした男の子と会ったのだけれど、声をかけられなかった。向こうは、携帯に夢中で気がついてなかったみたいだった。まあ、いいか。クスリのんだ。学校の授業がないから、めっちゃノンビリ。

 引力の法則について考えてみた。ぼくたちが引き合う力なんて、地球がぼくたちを引っ張る力に比べたら、限りなくゼロに近いんだよ。だから、ぼくたちが引き合っていないように見えるときがあっても、それはあたりまえのことで、じつは引き合ってて、引き合ってることに気がついてないだけなんだよ。


二〇一六年三月十一日 「木になってしょうがない。」


 いま、ティプトリーの『あまたの星、宝冠のごとく』と、岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』と『モーム語録』を変わりばんこに読んでいる。意外と話はまじわらない。『Sudden Fiction』は読み終わった。本棚に再読用のものがあるので、お風呂場で読んだものは捨てる。

 きょうのあさは、引っ越しをしている夢を見た。上りにくい2階の部屋で、使いにくい部屋だった。無意識層のぼくの自我は、意識層のぼくの自我になにを伝えたかったのか。伝えるつもりはなかったかもしれないけれど。

 サンドイッチを6切れ食べて、おなかいっぱい。ティプトリーの短篇集のつづきを読みながら寝よう。

木になってしょうがない。


二〇一六年三月十二日 「ぼくね、友だちに素数がいてね。」


素数ってね
自分のほかに正の約数が一つしかなくってね
それを、ぼくの友だちの素数は
とても気にしててね
イヤなんだって
でもさあ
おじさんを、おばさんで割ると
雪つぶて
サイン・コサイン・タンジェント
ぼくの父が死んだのが
平成19年の4月19日だから
逝くよ
逝く
になるって、前に言ったやんか

それが
朝の5時13分だったのね
あと2分だけ違ってたら
ゴー・逝こう
5時15分でゴロがよかったんだけど
そういえば
ぼく
家族の誕生日
ひとりも知らない。
前恋人の誕生日だったら覚えてるのに
バチあたりやなあ。
まるで太鼓やわ。
太鼓といえば
子どものとき
よく
自分のおなかをパチパチたたいてた
たたきながら
歌を歌ってたなあ
ハト・ポッポーとか
近所でもバカで有名で
うんこ
がまんして
がまんしきれなくって
家のまん前で
ブリブリブリッて
それが
小学校6年のときのことだから
まあ
父親が怒ってね
でも
ガマンできなかったんだもーん
ブリブリブリッて
思いっきり
引きずり回されたこと
覚えてる

ちゃんと
きれいにしてからね
うんこまみれのまま
ひきずらへんわなあ
ぼくが親やったら
怒ってるかなあ
それより
傷ついてる子どものこと
気遣うやろなあ
わからんけど
教室で
おしっこたれたのが
いくつのときのことか
忘れた
たぶん
高学年、笑。
おととし
自分の部屋の
トイレの
前で
うんこ
たれたの
恋人に言ったら
あきれられて
まあ
それも原因かもね。
ぜんぶ
そのせいちゃうやろうけど。
もしも逆の立場やったら?
まあ、ぼくが相手の立場やったら
笑うぐらいかなあ。
あきれはせんやろうなあ。
どこが違うんやろう?
わからん


二〇一六年三月十三日 「詩の材料」


 チャールズ・ブコウスキーの「詩人の人生なんてのは糞溜めみたいなものなんだよ」(『詩人の人生なんてろくでもない』青野 聰訳)というのと、W・B・イエイツの「完璧であるからこそ傲慢なこれらのイメージは/純粋な精神のなかでそだった。だがその始まりは/何であったか? 屑の山、街路の塵あくた、/古いやかん、こわれたブリキの罐、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱の番をしている/あの口喧しいばいた。おれの梯子はしごがなくなったからは/あらゆる梯子が始まる場所に寝そべるほかはない。/穢らわしい心の屑屋の店さきに寝そべるほかはない。」(『サーカスの動物は逃げた』出淵 博訳)とのあいだには、文学作品の材料そのものとその材料の処理の仕方において、共通しているところと、共通していないところがある。材料は同じだ。人生のなかで見聞きしたこと、感じたことなどが材料だ。もちろん、単純に二分はできないが、こういう分け方はできるだろう。つまり、イエイツはそれを詩語に変換していたと。ブコウスキーは、糞溜めのようなものをそのまま糞溜めとして書いたのだった。イエイツも、晩年はかなり詩語から離れることができたのではあったが。そしてその二つのあいだにあって、どちらともいえないようなものも数多くある。というか、じっさいのところ、ぼくなどもそうだが、見聞きしたことそのままに書くことと、ただ頭の中で考えただけのものを書くこととのあいだで、いろいろと組み合わせて書いてきたのだ。

 文学極道の詩投稿掲示板で、Migikataさんの「驚くべきこと」というタイトルの作品を読んで、こんなことを、ふと考えたのであった。

『芸術=フランケンシュタインの怪物』説を唱えたのが、ぼくがさいしょではないと思いますが、あるものをつなぎ合わせて、これまでに存在しなかったものを生成させるのが芸術のひとつの機能だと思っているのですが、もちろん、同時に、これが芸術のひとつの定義の仕方だとも思っているのですが、電流が流れて怪物が起き上がったような気がしました。固有名詞の使い方、さいごの2行の断定命題も効果的に配されていると思いました。J・G・バラードの『夢幻会社』をふと思い出しました。飛翔している男が身体じゅうからフラミンゴやさまざまな鳥たちを吐き出すのですが、そのまえに鳥たちを吸収する場面があったと思うのですが、ぼくが思い出すのは、男が肩からフラミンゴを奇怪な様子で分離するシーンです。すみません。好きな作家の作品を思い出して、つい書き込み過ぎました。おゆるしください。

という感想文を、さきに、Migikataさんの作品に書かせていただいていました。

 コードウェイナー・スミスの短篇全集・第1巻の『スキャナーに生きがいはない』を買うのを忘れてた。水曜日に河原町に行くので、水曜日に買おう。初訳の短篇が入っているらしい。第1巻に入っているのかどうかは知らないけれど。SFがセンス・オブ・ワンダーだということがわかる貴重な作家のひとり。


二〇一六年三月十四日 「チューしてる恋人たち」


 FBで、チューしてる恋人たちの画像を見てると、ぼくも幸せ。ぼくにもチューできる男の子がいるからかな。もしも自分にもチューできる男の子がいなかったら、幸せかどうかは、わかんないけど。いや、きっと、幸せなんだと思う。何と言ったって、美しいのだもの。(少なくとも、FBに写ってる彼らは)

トランクスを買いに出る。

 ジュンク堂では、コードウェイナー・スミスの『スキャナーに生きがいはない』(ハヤカワSF文庫)が売り切れていたので、ブックファーストで買った。そのあと、きみやさんに行って、三浦さんと、名前を憶えていない、でも、鴨川の夜景がきれいに見えるお店に行った。きょうも、ヨッパ。楽しかった~。

 これから、『スキャナーに生きがいはない』の解説を読んで寝る。なんだか、ウルトラQのDVDを見るような感じだなあ。


二〇一六年三月十五日 「言語も体験である。」


言語も体験である。
想像されたものではあるが
それもまた現実である。
現実である以上、存在するものである。
したがって
虚無もまた現実であり
存在するものであり
あるいは
存在する状態なのである。


二〇一六年三月十六日 「要素」


 何年かぶりで、ぎっくり腰になってしまった。痛みどめをのんで塾に行く。ひさしぶりに、エニグマを聴く。ヒロくんと出合ったときの曲。「Return To Innocence」

 荒木時彦くんから詩集『要素』を送っていただいた。秀逸なアイデアと、そのアイデアを支える確実な叙述力。使われているアイデアは、ぼくがはじめてお目にかかるものだ。ここにまで到達した詩を書く詩人は、これまで日本のなかには一人もいなかった。

 いま日知庵から帰った。腰がめっちゃ痛くって、涙が出そうなくらい痛い。でも、帰りに、セブイレで買った「ペヤング超大盛」食べようかどうか思案中、笑。

 コードウェイナー・スミスの短篇集、読みながら寝る。きのう冒頭の短篇の途中で寝た。ソビエト人科学者夫妻の物語だ。おおむかしに読んだ記憶がかすかにするのだが、まったく思い出せず。ペヤング、あしたに持ち越し。


二〇一六年三月十七日 「自転車で」


自転車で角を曲がるときに
こけてもうた、笑。
きっついこけ方して
右の手のひらのところ
すりむいて、血が出た。
目の前に、若いカップルがいて
めっちゃ、恥ずかしかった。
けど、あわてず
悠然として、立ち上がって、笑
自転車をおこして
さっそうと走り帰りました。


二〇一六年三月十八日 「太もも」


きのう話をした青年が言っていたことで
とても興味深いことがあった。
太ももが感じるというのだけれど
小学校の3年のときに
女性の先生が担任だったらしいのだけれど
その先生に放課後に教室に呼び出されて
横に坐るように言われて坐ったら
太ももを、なめられたというのだ。
しかし、一瞬で、帰されたのだという。
しかも、ただ一度だけ。
親には言わなかったらしい。
友だちには言ったらしいのだけれど
「そんなん、ふつうにあることやん」
と言われたらしい。
たしかに
ぼくも
高校生のとき
社会の先生に呼び出されて
太ももをなでられたことがあったけれど。
ううううん。
みんな、そんな体験してるのかなあ。


二〇一六年三月十九日 「図書館の掟。」


 きょうは、つぎに思潮社オンデマンドから出す詩集『図書館の掟。』の編集をしていたのだけど、体調めっちゃ悪し。これからお風呂に入って、身体をほぐす。


二〇一六年三月二十日 「きのうのぼくと、きょうのぼくは別人なのかな。」


 10分ほどまえに、日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったカップヌードルをいま食べた。きのうのぼくと、きょうのぼくが別人のようだと、日知庵でえいちゃんが言ってたけれど、そうなのかもしれない。『図書館の掟。』に入れる詩篇はすべて死と死者にまつわる作品だけだもの。自分でも、めげるわ。でも帰りがけに日知庵でお会いしたお嬢さんが、めっちゃ陽気なひとで、ひとを元気にさせる力があるみたいで、めっちゃ暗かったぼくでさえ元気をいただいた。ありがたい。というか、そういうひとのもつエネルギーを、ぼくも持ちたい。というか、仕事柄、持たなければならない。

 いま自分のツイッターを振り返って見たのだけれど、ぼくの身体の半分以上は、セブンイレブンでできているようだ。

 コードウェイナー・スミスの短篇集『スキャナーに生きがいはない』を、きのう、読んでて眠った。きょうもそのつづき読みながら寝る。

 日本現代詩人会のHPで詩投稿欄を4月初旬にオープンするらしいが、選者が野村喜和夫、高貝弘也、峯澤典子なので、どうかなと思う。詩誌の選者と同じような選者をもってきて、どうすんのよ、と思う。


二〇一六年三月二十一日 「死亡した宇宙飛行士」


 きょうは、夜に竹上さんと飲みに出る。J・G・バラードのコレクションをすべてプレゼントする。『死亡した宇宙飛行士』や『22世紀のコロンブス』といった入手困難な作品も多くて、よろこんでもらえると思う。


二〇一六年三月二十二日 「形のないキャベツ」


2009年4月13日メモ

形のないキャベツ

部屋に戻ると
鼻の奥にあるスイッチを押した。
プシューッ
身体がシュルシュルと縮んだ。


2009年4月13日メモ

形は形であることを
ちっとも恥ずかしいことだとは思っていなかったのだけれども
ときどき
形であることをやめたいなと思うことはあった。
形をやめて
なにになるのかは、まったくわからなかったのだけれども。


2009年4月14日メモ

詩人の役目は
意味をなさなくさせるほどまでに言葉を酷使することではない。


2009年4月15日メモ

おそらく無意識はさまざまなことを同時にすることができるのであろう、
身体でリズムを取りながら、口が歌を歌い、手が熱したフライパンのなかに
殻を割った卵の中身を落とすように。

しかし、意識はさまざまなことを同時にすることができない。
すくなくとも、どのことも同じぐらい集中して意識することはできない。


二〇一六年三月二十三日 「poke」


 とてもすてきな方から poke が毎日のようにある。彼はストレートだと思うのだけれど。どう思えばいいのかな? なんか高校生のときのような気持ちを持ってしまう。すてきな方じゃなければ、なにも感じないし、考えないのだろうけれど、笑。 すてきなんだよね。妄想してしまう。頭おかしくなる。そのひとの画像は見まくりだから、お顔ははっきりしてる。きょうは、そのひとのこと考えて寝ようかな。夢に出てきてくださりますように!

 そいえば、高校のとき、柔道部の先輩が腕をもんでくれとおっしゃったとき、その先輩を好きだったから、めっちゃ恥ずかしかったのを憶えている。たぶん顔を真っ赤にして、もんでたと思う。人生なんて100年足らずのものだけれど、すてきな一瞬がいっぱいあったし、いまもあるのだろう。すごいことだ。

妄想全開で寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年三月二十四日 「幻覚」


 朝、幻覚を3つ見た。さいごのが、強烈で、部屋の壁に手をあててたら、右から手が出て、ぼくの手にその手が溶け入ってきて、えっと思っていると、裸のぼく、20代の若いときのぼくがでてきて、ぼくに、「ぼくを分解して」というのだ「どういうこと?」と訊くと、「いまの詩は高次すぎて」「ぼくは音でやりたいんです。」という。言っているうちに、ぼくの若いときって、かわいいと思ってチューしようとしたら、彼の身体が顔を中心に青あざだらけになって、チューできる寸前で、ぼくも目がさめた。

 それからまたすぐに、3つほど幻覚を見てて、ヘロヘロになっていたら、弟が部屋に入ってきて、「あっちゃん、どうしたん、なんかしんどそうやん」と言いながら坐ると、外国人女性の姿に変化していてナイフを手に持っていたので、すかさず「目が覚めればいいんや」という言葉を呪文のように口にしたら、目が覚めた。


二〇一六年三月二十五日 「図書館の掟。」


 詩集『図書館の掟。』の編集をしていた。300数十ページになる予定。電子データにしていない作品が2作。ひとつは、「ヨナの手首。」もうひとつは、「もうすぐ百の猿になる。」という散文の哲学的断章。入力済みの作品もルビ処理をしていないので、相当にめんどくさい。しかし、つくらねばならない。少なくとも、きょうは、「ヨナの手首。」と「もうすぐ百の猿になる。」をワードに打ち込もう。

『ヨナの手首。』のワード打ち込み完了。あと、きょうじゅうに、『もうすぐ百の猿になる。』を入れたい。それと、私家版の詩集の『陽の埋葬』のさいごにいれた、『百葉箱のなかの祈禱書。』も、『図書館の掟。』のなかに入れたいと思う。これ以上入れると350ページを超えるので、ここくらいまでかな。

『引用について』という論考も入れる。それぞれの作品が照応しているので、入れなくてはならなくなった。『もうすぐ百の猿になる。』文章を直しながら入力しているのだが、長い。きょうじゅうに打ち込みたいが無理かもしれない。にしても、完全に理系の人間の文章だ。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み、A4サイズで、7枚のうち、2枚完了。なぜこんなに遅いかと言うと、散文詩だからである。しかも文章いじっているから、こんなにノロい。しかし、なぜ、この作品があることに気がつかなかったのだろう。あまりにむかしに書いたものだから書いたことも忘れてた。

『もうすぐ百の猿になる。』いまで、4ページ目の半分まで、打ち込み。ちょうど半分。ぼくの詩の原点ではないだろうかと文章中に書いていたが、そういう感じがする。見つけてよかった。晩ご飯を食べてこよう。きょうは目が覚めてから、ずっと文学してる。えらい。誰のためでもなく自分のためだけれど。

 あと1ページ半。『もうすぐ百の猿になる。』も傑作だった。そのうち、文学極道に投稿しよう。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み終了した。あと『百葉箱のなかの祈禱書』の打ち込みが残っているけど、少なくとも30分間は横になろう。腰が痛い。『図書館の掟。』の収録作品数が27篇で、3の3乗である。たいへんうれしい。330ページをちょい超えである。333ページになればいいなあ。

『百葉箱のなかの祈禱書』の打ち込みが終わって、詩集の総ページ数を見たら331ページやった。惜しい。あと2ページ。ぼくが30代のころの作品が半分、残る半分が40代、50代の作品ということになる。きょう一日、ワードに打ち込んでいたのは、30代の作品だった。『陽の埋葬』の雰囲気が濃厚。

 というか、長篇の『陽の埋葬』をいくつも収録しているから、当然、そうなるか。あしたの朝に元気があったら、目次をつくろう。そろそろクスリをのんで寝る。


二〇一六年三月二十六日 「詩集の編集」


目次つくったら、収録作品29作品だった。

 入力するのが面倒なのでほっておいた『陽の埋葬』があったので、これから入力する。

 本文の入力に一時間か。総ルビなので、これからルビ入れを。しかも、歴史的仮名遣い。神経質になる。

 ルビ打ちにも一時間かかったか。総ルビ4ページ分で、これだけど、総ルビ50ページくらいの作品があって、まだルビ打ちをやってない。怖い。できれば、学校の授業のない春休み中にやっておきたい。いままで、どうして読書ばかりしていたのか。逃げてたんだな。やっぱり詩集の編集って、しんどいもの。


二〇一六年三月二十七日 「花見」


 これから、きみやさん主催のお花見に。夜は竹上さんと日知庵で飲むので、お昼過ぎにいったん帰るかもしれない。きょうは、竹上さんに、ミシェル・トュルニエの全コレクションと、ヴァージニア・ウルフ関連の本をすべてプレゼントする。ああ、それでも、ぼくの本棚はまだまだギューギューだ。床積みの本が! 笑。


二〇一六年三月二十八日 「ニムロデ狩り」


 日知庵に行くまえに、オーパ!のブックオフで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』と、創元のアンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を108円で買った。

『The Marks of Cain°』の3分の2のルビ打ちをやった。めっちゃしんどかったけど、あと3分の1やったら、あしたじゅうにできるかなと思う。どだろ。まあ、とにかくがんばった。えらい。そだ。牛丼の吉野家で野菜カレー食べた。


二〇一六年三月二十九日 「夜は」


太陽だけでは影ができない。

夜は地球と太陽との合作である。


二〇一六年三月三十日 「ビタミン・ハウス」


大学院生のときに
四条大橋の東側に
ビタミン・ハウスって
ショウ・パブでバイトしてたことがあって
ちょっとのあいだ、女装してました、笑。
ええと、お客は、半分が坊主と金融屋さんでした、笑。
バブルのころで、すごかった。
お坊さんで
いまから考えると
ぽっちゃりとして
かわいいひとがいて
ぎゅっと手を握られて
うぶだったぼくは
顔がほてりました。
当時は、太ったひとがいけなかったので
それだけだったのですが
いまから考えると
そのお坊さんも20代のなかばで
ぽっちゃりとしたかわいい感じのひとだった。
京大のアメフトやってるひととすこし付き合って
すぐに別れました。
がさつに見えて
けっこう繊細で
ぼくの言葉によく傷ついていたみたいで
別れるとき
思いっきり文句言われました、笑。
さいきん、これまでに書かなかったことを
よく書いてるような気がします。
もうじき、50歳になりますから
(2年後ね)
もう怖いものが、そんなになくなってきたのかもしれません。
とはいっても、これはブログに貼り付けられないと思うけど、笑。

でも、いいのかな。
そんなバイトしたの学生時代だし。
時効だよね、笑。
当時のぼくの顔は
詩集の「Forest。」の本体のカヴァーをはずすと見れるようになっています。
化粧したら、どんな顔になるか、だいたい想像つくと思いまする。
しかし、まあ、48歳で、まだまだ、いっぱいカミング・アウトできるって
けっこう、ぼくの人生、めちゃくちゃなのかもね。
それとも、ほかのひともめちゃくちゃだけど
だまってるだけなのかなあ。
わかんないけど。
ふにゃ。
だから、ぼくが付き合った京大の学生だったエイジくんが
ぼくの部屋にはじめてきたとき
無断でパッとクローゼットをあけて
「女物の服はないな。」
と言ったのは、彼の正しい直感がさせた行為だったわけだ。
「なに言ってるの? バカじゃない。」
「女装してるかもしれへん思うてな。」
「そんな趣味ないよ。」
そんな会話の応酬がありました。


二〇一六年三月三十一日 「非喩」


いつもなら朝ご飯を食べるのだが、食べない。検診の日なのだ。

 組詩にしていた長篇の『陽の埋葬』を5つの『陽の埋葬』にバラしたら、詩集『図書館の掟。』の総ページ数が337ページになった。

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『あまたの星、宝冠のごとく』 誤字・脱字 223ページ2行目「事実もものかは、」 意味がわからないだけではなく、どういう誤字・脱字を起こしているのかもわからない。

 塾からの帰り道、「非喩」という言葉を思いついたのだが、もしかしたら前にも思いついたかもしれない。直解主義者のぼくだから。比喩に凝ってるもの読むと、ああ、このひと、頭わるいと思うことがよくある。なんで、そのまま書かないのだろうと思うことがよくある。事実そのままがいちばんおもしろい。


自由詩 詩の日めくり 二〇一六年三月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-04-24 01:21:54縦
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