料理で俳句⑯目玉焼き
SDGs

本日のお品書き~目玉焼き~


 得意料理?そうね目玉焼きかしら


 目玉焼き。それを初めて見たのは家の食卓でもなく、レストランでもなかった。見たのは食堂車。目の前の白い皿に、目玉が二つの目玉焼きがあった。

 その時、列車は停まっていた。外は明るく、車窓のすぐ外には上り下りのプラットホームをつなぐ跨橋の階段が見えていた。しかし食べた記憶がない。だから味もにおいの記憶もない。食堂車に入ったのも初めてのことだ。だとしたらこれは後でつくられた記憶なのだろうか。あるいはそうかもしれない。そういった記憶の操作(パッチワーク)はなにも特別なことではなく、私たちは気付かないままにごく自然にやっているにちがいない。しかし、たとえそうではあっても、思い出すままに書いてみよう。書いているうちになにか思い出すこともあるかもしれない。

 その時私は四歳か。昭和三十年代。駅はおそらく山陽本線徳山駅。下りの急行列車のはずだ。当時も今も普通列車に食堂車は連結されていないし、食堂車があるのは急行と特急だけ。その頃、昼間の特急列車は「かもめ」一本だけであり、それに乗ったとは考えにくい。それに、家族で徳山以東に行く機会があったのはそれから1、2年後だ。というのも、仕事を求めて下関に転居した父の郷里は徳山の大島半島の先端にある島だったし、母の台湾からの移住先はその島への途中にあった。つまりは当時の私たちの行動の東果は徳山というわけだった。

 なぜ食堂車にいたのか。おそらくそれは父の配慮であったにちがいない。その前日、母は急性虫垂炎で入院した。徳山市内のどこの病院だったのだろう。櫛ケ浜あたりかもしれない。そんなに大きな病院ではなかった気がする。病院の様子についての記憶はない。覚えているのは医者が手術用のベッドに素裸に横たわる母の陰部の毛を剃っている光景だ。コンクリートの床が濡れていた。椅子にすわってじっと見ていたのだろう私に気づいて、医者は出ていくように言った。あるいはそう言ったのは母だったか。

 そこで記憶が切れ、食堂車の目玉焼きのシーンにつながる。朝一番に下関を発って迎えに来た父は、私たち(兄と私)を連れて、下関に戻る。さみしそうにしている私たちを慰撫する気持ち、あるいは扱いに戸惑ったことから、食堂車のアイデアになったとおもわれる。

 母の入院は長く三ヵ月に及んだ。父の仕事は忙しく、またその頃の父親というものが熱心に子育てをするわけがなく、その間私たちは親しくしてくれていた知人に預けられ、お世話になったというがその間の記憶は全くない。母の入院と父の気づかい。それが食堂車になり、目玉焼きにつながるのだが、これもまた記憶のパッチワークかもしれない。


俳句 料理で俳句⑯目玉焼き Copyright SDGs 2021-04-16 10:17:00
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