詩の日めくり 二〇一六年一月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一六年一月一日 「20世紀アメリカ短篇選」


『20世紀アメリカ短篇選』は、むかし上下巻読んだんだった。でも、ひとつも憶えていない。きのう、スピンラッドの短篇集だと思っていた『星々からの歌』をちら読みしたけど、これまたひとつも憶えていなかったのだった。憶えているものが少ない。これは得な性分なのか。

 いい詩を書こうと思ったら、いい人生を送らないと書けない。あるいは、ぜんぜんいい人生じゃない人生を送らないと書けないような気がする。ぼくは両方、送ってきたから、書ける、笑。いい詩しか書けないのは、そういう理由。

『20世紀アメリカ短篇選』上巻の最後から2つめの「スウェーデン人だらけの土地」という作品を読み終わった。ウッドハウスを読んでるような感じがした。作者のアースキン・コールドウェルについて、あとで検索しよう。『20世紀アメリカ短篇選』上巻、あと1つ。上巻は、このアースキンの作品と、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」の2つの作品がお気に入りだ。この2作品だけでも、この短篇集を再読してよかったと思う。とりわけ、「ローマ熱」など、若いときには、ピンと来なかったものである。これを読み終わったら、ハインリヒ・ベルの短篇集をおいて、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻を読もう。アースキン・コールドウェル、めっちゃたくさん翻訳あるし、古書でも、そう難しくなく手が届きそうな値段だし。でも、しばらくは我慢しよう。というか、下巻を読んでる途中で忘れるかな。持ってない本が欲しくなるのは、こころ根がいやしいからだと思う。自戒しよう。まだ眠れず。下巻、いきなりナボコフで、まったくおもしろくない短篇だった。書き方のいやみったらしさは、好みなのだけど。ハインリヒ・ベルの短篇集にして寝よう。


二〇一六年一月二日 「宮尾節子さんの夢」


 宮尾節子さんの夢を見た。すてきなご飯家さんで朗読会をされてたんだけど、宮尾さんの朗読のまえに、小さな男の子がバスから降りてきて、なんか物語をしゃべってくれるんだけど、意味はわからず、でも、なんかしゃべりつづけて、聞き耳を立てているうちに目が覚めてしまった。おいしそうな料理が出た。


二〇一六年一月三日 「読書とは何か?」


 さっき塾から帰ってきたところ。きょうは、朝の9時から夜の10時まで働いた。休憩時間に、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のうち、2番目のものと3番目のものを読んだ。1作目のナボコフと違って、「ある記憶」も「ユダヤ鳥」もよかった。悪意に満ちたグロテスクな笑いを感じた。帰りに、スーパー「マツモト」で、餃子を20個買ってきて食べたのだが、油まみれで、もたれる。きょうは、もうこれくらいで、クスリのんで寝ようかな。寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のつづきを。きょう読んだ「ユダヤ鳥」は、ぜひパロディーをつくってみたいと思ったのであった。

 バカバカし過ぎて、読むのを途中でやめた、ボリス・ヴィアンの『彼女たちには判らない』をもって、湯舟につかろう。さいしょから棄てるつもりで、表紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に投げ入れた。ゴア・ヴィダルの『マイラ』のような感じのものだ。躁病状態の文学だ。

「きみの名前は?」(ボリス・ヴィアン『彼女たちには判らない』第十二章、長島良三訳、99ページ)

 96ページにもこのセリフはある。死ぬまで、「きみの名前は?」という言葉を収集するつもりである。ボリス・ヴィアンのこの作品はやっぱりカスだった。詩人や作家は最良の作品だけを知ればよい。まあ、ひとによって、最良の作品が異なるし、最良の作品を読むためには、最良でない作品にも目を通さなければならないが。そういえば、ロバート・F・ヤングなどは、全作品を読んだが、『たんぽぽ娘』以外すべてカスという駄作のみを書きつづけた恐るべき作家だった。

 小学校の3年くらいかな、友だちのふつうの笑い顔が輝いてた。中学校の1年のときに、友だちが照れ笑いしたときの顔が忘れられない。どんなにすごいと思った詩や小説にも見ることができない笑顔だ。ぼくがまだ、それほどすごい詩や小説と出合っていないだけかもしれない。読書はそれを探す作業かもね。


二〇一六年一月四日 「本の表紙の絵」


 本棚の前面に飾る本の表紙を入れ替えた。やっぱり、マシスンの『縮みゆく人間』、ヴォークトの『非Aの世界』『非Aの傀儡』、ハーバートの『砂丘の大聖堂』第1巻、第2巻、第3巻は、すばらしい。アンソロジーの『空は船でいっぱい』、テヴィスの『ふるさと遠く』、ベイリーの『シティ5からの脱出』とかは仕舞えない。さいきんのハヤカワSF文庫本や創元SF文庫本の表紙には共感できないのだが、ハヤカワのスウェターリッチの『明日と明日』とかは、ちょっといいなと思ったし、創元のSF映画の原作のアンソロジーの『地球の静止する日』みたいな、ほのぼの系もいいなとは思った。数少ないけれども。スピンラッドの『鉄の夢』とか、プリーストの『ドリーム・マシン』とか、シマックの『法王計画』とか、ウィンダムの『呪われた村』とか、アンダースンの『百万年の船』第1巻、第2巻、第3巻とか、もう絵画の領域だよね。内容以上に、本を、表紙を愛してしまっている。まるで、すぐれた詩や小説を愛する愛ほどに強く。気に入った表紙の本が数多くあるということ。こんなに小さなことで十分に幸せなのだから、ぼくの人生はほんとに安上がりだ。単行本の表紙も飾っているのだけれど、ブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』と『町でいちばんの美女』、ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』がお気に入り。アンソロジーの『太陽破壊者』と、クロウリーの『ナイチンゲールは夜に歌う』と『エンジン・サマー』も飾っている。単行本の表紙って、意外に、よいのが少ないのだ。表紙で買うって、圧倒的に、文庫本のほうが多いな。LP時代のジャケ買いみたいなとこもある。


二〇一六年一月五日 「言葉を発明したのは、だれなんだろう?」


 モーパッサンの『ピエールとジャン』を暮れに捨てたが、序文のようにしてつけられた小文のエッセー「小説について」は必要な文献なので、アマゾンで買い直した。これで買うの3回目。いい加減、捨てるのやめなければ。文献を手元に置くだけのための600円の出費。バカである。捨てなければよかった。今週はずっと幾何の問題を解いていた。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。翻訳がいいという理由もあるだろうけれど、アンソロジストでもある翻訳者の選択眼の鋭さも反映しているのだなと思う。すばらしいアンソロジーだ。じっくり味わっている。

 千家元麿の詩を読んでいると、当時の彼の家族のこととか、彼の住居の近所のひとたちのこととか、また当時の風俗のようなものまで見えてきて、元麿の人生を映画のようにして見ることができるのだが、いまの詩人で、そんなことができるのは、ひとりもいない。『詩の日めくり』を書いてる、ぼくくらいだろう。もちろん、ぼくの『詩の日めくり』は、ぼくの人生の断片の断片しか載せていないのだけれども、それらの情報で、ぼくの現実の状況を再構成させることは難しくはないはずだ。生活のさまざまな場面の一部を切り取っている。きれいごとには書いていない。事実だけである。六月に、『詩の日めくり』を、第一巻から第三巻まで、書肆ブンから出す予定だが、『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけていくつもりだ。死んでから、ひとりくらい、もの好きなひとがいて、ぼくという人間を、ぼくの人生を、映画を見るようにして見てくれたら、うれしいな。

 齢をとり、美貌は衰え、関節はガタガタ、筋肉はなくなり、お腹は突き出て、顔だけ痩せて、一生、非常勤講師というアルバイト人生で、苦痛と屈辱にまみれたものではあるが、わりと、のほほんとしている。本が読めるからだ。音楽が聞けるからだ。DVDが見れるからだ。

 言葉を発明したのは、だれなんだろう。きっと天才だったに違いない。原始人たちのなかにも天才はいたのだ。


二〇一六年一月六日 「吉田くん」


 冬は、学校があるときには、朝にお風呂に入るのはやめて、寝るまえに入ることにしている。きょうも、千家元麿の詩を読みながら、湯舟につかろう。ほんと、まるでウルトラQのDVDを見てるみたいに、当時のひとびとの暮らしとかがわかる。詩には、そういう小説のような機能もあるのだな。元麿のはね。

 きょうも吉田くんは木から落っこちなかった。だから、ぼくもまだ生きていられる。それとも、もう吉田くんはとっくに落っこちているのかしら? いやいや、それとも、あの窓の外に見える吉田くんって、だれかが窓ガラスに貼りつけた吉田くんなのかしら?

 吉田くんといっしょに、吉田くんちに吉田くんを見に行ったけど、吉田くんは、一人もいなかったぜ、ベイビー!

 寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。ジーン・スタフォード(詩人のロバート・ローウェルの最初の妻)の『動物園』を、もう3日も読んでいるのだが、なかなか進まない。読む時間も寝る直前の数十分だからだけど、じっくり味わいたい文体でもある。翻訳家の大津栄一郎さんのおかげです。きょうと、あしたの二日間は、読書に専念できる。きょうじゅうに、『20世紀アメリカ短篇選』下巻を読み切りたい。しかし、冒頭のナボコフを除いて、傑作ぞろいである。学校の帰りに、サリンジャーの短篇を読み終わった。おもしろかった。ぼくは単純なのかな。単純なものがおもしろい。音楽と同じで。


二〇一六年一月七日 「竹中久七」


 ずっと寝てた。腕の筋肉がひどいことになっていて、コップをもっても、しっかり支えられず、コーヒー飲むのも苦痛。病院で診てもらうのも怖いしなあ。ただの五十肩だと思いたい。

 本を読む速度が極度に落ちている。読みながら、夢想にふけるようになったからかもしれない。途中で本を置くこともしばしばなのだ。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、まだ読み終わらず、である。味わい深いので、じっくり味わいながら読んでいるとも言えるのだが、それにしても読むのが遅くなった。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻。フラナリー・オコーナーの全短篇集・上下巻が欲しくなった。いかん、いかん。持ってるものをまず読まなくては。でも、Amazon で買った。単行本のほうが安かったので、フラナリー・オコナーの全短篇集を単行本で上下巻、買った。送料を入れて、3500円ちょっと。本の買い物としては、お手頃の値段だった。ああ、しかし、本棚に置く場所がないので、どうにかしなきゃならない。

 竹上さんから入浴剤やシュミテクトや歯ブラシをたくさんいただいて、いま入浴剤入りのお風呂につかってた。生き返るって感じがした。歯を磨いて、横になろう。お湯につかりながら、千家元麿の詩を読んでたのだけれど、さいしょのページの写真を見てて、竹中久七というひとの顔がめっちゃタイプだった。いまネットで検索したら、マルキストだったのかな。そういう関係の本を出してらっしゃったり。でも、写真はなかった。お顔がとてもかわいらしくて、ぼくは大山のジュンちゃんを思い出した。のび太を太らせた感じ。文系オタク的な感じで、かわいい。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、あと1作。フィリップ・ロスの『たいへん幸福な詩』 これを読んだら、『20世紀イギリス短篇選』上巻を読もう。


二〇一六年一月八日 「神さまがこけた。」


 お風呂場で足をひっかけたのだけれど、神さまがこけた。それが、ぼくを新しくする。


二〇一六年一月九日 「ヤツのは小さかった。」


 けさ、思いっきりエロチックな夢を見て、そんな願望あったかなって変な気持ちになった。あまりにイカツすぎるし、ぜったいにムリだって思ってた乱暴者だった。誘われて無視した経験があって、その経験がゆがんだ夢を見させたのだと思うけど、じっさいは知らんけど、夢のなかでは、ヤツのは小さかった。


二〇一六年一月十日 「カナシマ博士の月の庭園」


 きのう、エロチックな夢を見たのは、お風呂に入って読んだアンソロジーの詩集についてた写真で、「竹中久七」さんのお顔を見たせいかもしれない。現代のオタクそのものの顔である。かわいらしい。ぼくもずいぶんとオタクだけれど。ミエヴィルの『都市と都市』236ページ。半分近くになった。読んでいくにつれ、おもしろい感じだ。『ケラーケン』上下巻では、しゅうし目がとまる時間もないほどに場面が転換して、驚かされっぱなしだったから、こうしたゆっくりした展開に、いい意味で裏切られたような気がする。塾に行くまで読む。

 やった。塾から帰ってきたら、ヤフオクに入札してた本が落札できてた。ひさびさのヤフオクだった。あの『猿の惑星』や『戦場に架ける橋』のピエール・プール『カナシマ博士の月の庭園』である。800円だった。日本人が主人公のSFである。カナシマ博士が切腹するらしい。長い間ほしかった本だった。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第13章、日暮雅通訳、253ページ)

 ミエヴィル『ジェイクをさがして』タイトル作がつまらない。なぜこんなにつまらない作品を冒頭にしたのだろう。読む気力がいっきょに失せた。プールの『カナシマ博士の月の庭園』が到着した。ほとんどさらっぴんの状態で狂喜した。クリアファイルのカヴァーをつくろう。でも、読むのは、ずっと先かな。ミエヴィルの短篇集『ジェイクをさがして』を読んでいるのだが、これは散文詩集ではないかと思っている。散文詩集として出せばよかったのにと思う。SFというより、純文学の幻想文学系のにおいが濃厚である。読みにくいのだが、散文詩としてなら、それほど読みにくいものとは言えないだろう。

 思潮社から出る予定の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の出版が数か月、遅れている。ぼくの記号だけでつくった詩が、アマゾンのコンピューターが、どうしても、それをエラーとして認識するらしい。家庭用のパソコンでOKなのに、なぜかはわからない。それゆえ、記号だけの作品は削除して詩集を編集してもらっている。


二〇一六年一月十一日 「恋する男は」


 Brown Eyed Soul のヨン・ジュンがとてもかわいい。声もいい。むかし付き合った男の子に似てる子がいて、その子との思い出を重ねて、PVを見てしまう。ぼくたちは齢をとるので、あのときのぼくたちはどこにもいないのだけれど、そだ、ぼくの思い出と作品のなかにしかいない。

 かっぱえびせんでも買ってこよう。きょうは、クリアファイルで立てられるようにした、ピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』をどの本棚に飾ろうかと、数十分、思案していたが、テーブルのうえに置くことにした。いまいちばんお気に入りのカヴァーである。白黒の絵で、シンプルで美しい。

 ポールのレッド・ローズ・スピードウェイのメドレーを聴いてるのだけれど、ポールの曲のつなぎ方はすごい。ビートルズ時代からすごかったけど。どうして、日本の詩人には、音楽をもとにして、詩を書く詩人がいないんだろうね。ぼくなんか、いつも音楽を聴いてて、それをもとにつくってるんだけれどね。

 このあいだ読んだ岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上下巻の話を思い出そうとしたが、作者名が思い出せない『ユダヤ鳥』と、作品名が思い出せないフラナリー・オコナーのものくらいしか思い出されなかった。強烈な忘却力である。いま読んでるミエヴィルの短篇集も、いつまで憶えているか覚束ない。

 恋する男は幸福よりも不幸を愛する。(ウンベルト・エーコ『前日島』第28章、藤村昌昭訳、384ページ)


二〇一六年一月十二日 「めぐりあう言葉、めぐりあう記号、めぐりあう意味」


 塾に行くまえに、お風呂に入って、カニンガムの『めぐりあう時間』を読んでいた。さいしょにウルフの自殺のシーンを入れてるのは、うまいと思った。文章のはしばしに、ウルフの『ダロウェイ夫人』や『灯台へ』に出てきた言葉づかいが顔を出す。まだ33ページしか読んでないが、作家たちが登場する。

 自分を拾い集めていく作業と、自分を捨てていく作業を同時進行的に行うことができる。若いときには、できなかった作業だ。自分が55年も生きるとは思っていなかったし、才能もつづくとは思っていなかったけれど、齢とって、才能とは枯れることのないものだと知った。幸せなことかどうかわからないけど、詩のなかでぼくが生きていることと、ぼくのなかで詩が生きていることが同義であることがわかったのだ。若いときには思いもしなかったことだ。ぼく自身が詩なのだった。ぼく自身が言葉であり、記号であり、意味であったのだ。

二〇一六年一月十三日 「詩について」

 どういった方法で詩を書くのかは、どういった詩を書くのかということと同じくらいに重要なことである。


二〇一六年一月十四日 「嘔吐」


いったん
口のなかに
微量の反吐が
こみあげてきて
これは戻すかなと思って
トイレに入って
便器にむかって
ゲロしようと思ったら
出ない。
大量の水を飲んでも
出ない。
出したほうがすっきりすると思うんだけど。
飲んでかなり時間が経ってるからかなあ。
じゃあ、微量の
喉元にまで
口のなかにまで込み上げたゲロはなんだったのか。
ああ
もしかして
牛のように反芻してしまったのかな。
ブヒッ
じゃなくて
モー
うううううん。
微妙な状態。
指をつっこめば吐けそうなんだけど
吐くべきか、吐かないべきか
それが問題だ
おお、嘔吐、嘔吐、嘔吐
どうしてお前は嘔吐なのか
嘔吐よ、お前はわずらわしい
嘔吐にして、嘔吐にあらず
汝の名前は?
はじめに嘔吐ありき
神は嘔吐あれといった、すると嘔吐があった
宇宙ははじめ嘔吐だった、嘔吐がかたまって陸地となり海となり空となった
嘔吐より来たりて嘔吐に帰る
みな嘔吐だからである
オード
ではなくて
嘔吐という形式を発明する
嘔吐と我
嘔吐との対話
嘔吐マチック
嘔吐トワレ
嘔吐派
嘔吐様式
嘔吐イズム
嘔吐事典
嘔吐は異ならず
鎖を解かれた嘔吐
嘔吐集
この嘔吐を見よ
夜のみだらな嘔吐
嘔吐になった男
嘔吐を覗く家
殺意の嘔吐
もし神が嘔吐ならば
あれ?
ゲオルゲの詩に、そんなのがあったような記憶が。
違う。
神が反吐を戻して
それが人間になったんやったかなあ。
それとも逆に
ひとが反吐を戻したら
それが神になったんやったかなあ。
岩波文庫で調べてみよう。
なかった。
でも、見たような記憶が
どなたか知ってたら、教えてちゃぶだい。
ぼくもこれから
いろいろ詩集見て調べてみよう。
持ってるのに、あったような気が。

追記

わたしは神を吐き出した。

これ、ぼくの「陽の埋葬」の詩句でした。
うううん。
忘れてた。


二〇一六年一月十五日 「今朝、通勤電車のなかで、痴漢されて」


ひゃ~、朝、短髪のかわいい子が目の前にいたのですが
満員状態で
ぎゅっと押されて彼の股間に、ぼくの太ももが触れて
ああ、かわいいなって思ってたら
その男の子
組んでた腕を下ろして
ぼくのあそこんところを
手の甲でなではじめたんで
ひゃ~
と思って
その子の手の動きを見てたら
京都駅について
その子、下りちゃったんです。
残念。
明日、同じ車両に乗ろうっと。

あんまりうれしいから
きょうは
うきうきで
仕事帰りに河原町に出たら
元恋人と偶然再会して
その子のことを言って

そのあと
前恋人の顔を見に行って
今朝の痴漢してくれた男の子のことを再現して
前恋人の股間にぎゅって
触れたら、「何すんねん、やめてや!」
と言われて
いままで
飲んだくれてました、笑。
その子の勇気のあること考えたら
自分がなんて小心者やったんかなって思えて
情けない感じ。
組んでた腕がほどけて
右手の甲が
ぼくの股間に近づいていくとき
なんか映画でも見てるような感じやった。
むかし
学生の子に
通勤電車のなかで
触られたときも
ぼくには勇気がなくて
手を握り返してあげることもできひんかった。
きょうも、勇気がなくって。
なんて小心者なのやろうか、ぼくは。
相手の子の勇気を考えると
手を握り返すくらいしなきゃならないのにね。
反省です。


二〇一六年一月十六日 「二〇一四年八月二十一日に出会った青年のこと」


メモを破棄するため、ここに忠実に再現しておく。

①マンションのすぐ前まで来てくれた。車をとめる場所がないよと言うと、「適当にとめてくる」と言う。
②部屋に入ると、テーブルの下に置いていた、ぼくの『詩の日めくり』の連載・2回目のゲラを見て、「まだ書いてるの?」と訊いてきた。「セックス以外しないつもりだったけど、ちょっと見てくれるかな?」と言って、アイフォンというのだろうか、スマホというのだろうか、ぼくはガラケーで、新しい電子機器のわからないのだが、そこに保存している彼が自分で書いた詩をぼくに見せた。
③だれにも見せたことがないという。
④たくさん見せてもらった。記憶しているものは「きみがいるおかげで、ぼくは回転しつづけられるのさ」みたいなコマの詩くらいだけど、よくあるフレーズというのか、そういうリフレインがあって、おそらくJポップの歌詞みたいなものなのだろうと思った。ぼくの目には、あまりよいものとは思えなかったのだけれど、セックスというか、あとでフェラチオをさせてもらうために、慎重に言葉を選んで返事をした。
⑤メールのやり取りで、キスの最長時間やセックスの最長時間の話をしていて、それが7時間であったり、11時間であったりしたものだから、「ヘタなの?」と書いてこられてきたけれど、どうにかこうにか、ヘタじゃないということを説明した。
⑥えんえんと1時間近くも彼の書いた詩を読ませられて、これはもう詩を読ませられるだけで終わるかもしれないと思って、「そろそろやらへん?」と言うと、「そうやな」という返事。「いくつになったん?」と訊くと、37才になったという。はじめて映画館で会ったのはもう10年くらい前のことだった。「濡れティッシュない?」と言うので、「ないよ」と返事すると、「チンポふきたいんやけど」と言うので、タオルをキッチンで濡らして渡した。「お湯で濡らしてくれたんや」と言うので、「まあね」と答えた。暗くしてくれないと恥ずかしいと言うので電気を消すと、ズボンとパンツを脱いで、チンポコを濡れタオルでふいている気配がした。シャツは着たまま布団の上に横たわった。ぼくは彼のチンポコをしゃぶりはじめた。
⑦30分くらいフェラチオしてたと思うのだけれど、相性が合わなかったのだろう、「もう、ええわ」と言われて、顔を上げると、「すまん。帰るわ」と言って立ち上がって、パンツとズボンをはいた。部屋の扉のところまで見送った。
⑧ちょっとしてから、ゲイのSNSのサイトを見たら、彼はまだ同じ文面で掲示板に書き込みをしてた。「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い・短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」


二〇一六年一月十七日 「言葉」


 言葉には卵生のものと胎生のものとがある。卵生のものは、おりゃーと頭を机のかどにぶつけて頭を割ると出てくるもので、胎生のものはメスをもって頭を切り開くと出てくるものである。


二〇一六年一月十八日 「夢」


 夜の9時から寝床で半睡してたら、夢を見まくり。ずっといろいろなシチュエーションだった。いろいろな部屋に住んでた。死んだ叔父も出てきたり。ずっと恋人がいっしょだったのだけれど、顔がはっきりわからなかった。ちゃんと顔を見せろよと言って、顔を上げさせたら、ぼくの若いときの顔でびっくりした。暗い部屋で、「見ない方がいいよ」と言って抵抗するから、かなり乱暴な感じで、もみくちゃになって格闘したんだけど、ぜんぜん予想してなかった。髪が長くて、いまのぼくではなくて、高校生くらいのときのぼくだった。無意識領域のぼくは、ぼくになにを教えようとしたのか。けっきょく自分しか愛せない人間であるということか。それとも高校時代に、ぼくの自我を決定的に形成したものがあるとでもいうのか。もうすこし、横になって、目をつむって半睡してみようと思った。しかし、無意識領域のぼくが戻ってくることはなかった。意地悪な感じで含み笑をして「見ない方がいいよ」と言った夢のなかのぼくは、意識領域のぼくと違って、ぼく自身にやさしさを示さないのがわかったけれど、いったん意識領域のぼくが目覚めたら、二度と無意識領域には戻らないんだね。その日のうちには。ふたたび眠りにつくことがなければ。

二〇一六年一月十九日 「吉田くん」


吉田くんを蒸発皿のうえにのせ、アルコールランプに火をつけて熱して、蒸発させる。


二〇一六年一月二十日 「胎児の物語」


めっちゃ、すごいアイデちゃう?
そうですか?
書き方によるんとちゃいます?
ううん。
西院の「印」のアキラくんに
そう言われてしまったよ。
いま
ヨッパだから
あしたね~。
胎児が
二十数世紀も母親の胎内で
生きて
感じて
考えて
って物語。
生きている人間のだれよりも多くの知識を持ち
つぎつぎと
異なる母胎を行き渡って
二十数世紀も生きながらえている
胎児の物語。
詳しい話は
あしたね。
これ
長篇になるかも。
ひゃ~


二〇一六年一月二十一日 「ラスト・キッド」


 学校の帰りに、大谷良太くんちでコーヒー飲みながら、1月20日に出たばかりの彼の小説『ラスト・キッド』をいただいて読んだ。2つの小説が入っていて、1つ目は、ぼくの知ってるひとたちがたくさん出てて興味深かったし、2つ目は、観念的な個所がおもしろかった。大谷良太は小説家でもあったのだ。

 きょうは、日知庵で、はるくんと飲んでた。「あつすけさんの骨は、おれが拾ってあげますよ」という言葉にきゅんときて、グッときて、ハッとした。つぎの土曜日に、また飲もうねと約束して、バイバイ。そのあと、きみやさんで、ユーミンの「守ってあげたい」を思い出して、フトシくんの思い出で泣いた。フトシくんが、ぼくのために歌ってくれた「守ってあげたい」が、はじめて聴いたユーミンの曲だった。もしも、もしも、もしも。ぼくたちは百億の嘘と、千億のもしもでできている。もしも、フトシくんと、いまでも付き合っていたら? うううん。どだろ。幸せかな?


二〇一六年一月二十二日 「soul II soul」


 ふだんの行為のなかに奇蹟的なうつくしい瞬間が頻発しているのだけれど、ふつうの意識ではそれを見ることができない。音楽や詩や絵画といった芸術というものが、なにげないふだんの行為のなかのそういった美の瞬間をとらえる目をつくる。耳をつくる。感覚をつくる。芸術の最重要な機能のひとつだ。

 ぼくはほとんどいつも目をまっさらにして、生きているから、しょっちゅう目を大きく見開いて、ものごとを見ることになる。ふだんの行為のなかに美の瞬間を見ることがしょっちゅうなのだ。これは喜びだけれど、同時に苦痛でもある。その瞬間のすべてを表現できればいいのだけれど、言葉によって表現できるのは、ごくわずかなものだけなのだ。まあ、だから、書きつづけていけるとも思うのだけれど。

 ジーン・ウルフの短篇集、序文だけ読んで、新しい『詩の日めくり』をつくろうと思う。いまツイートしているぼくと、いくつかのパラレルワールドにいる何人ものぼくが書きつづっている日記ということにしてるんだけど、自分の書いたものをしじゅう忘れるので、何人かのぼくのあいだに切断があるのかもしれない。でも、それは表現者としては、得なことかもしれない。なにが謎って、自分のことがいちばん謎で、探究しつづけることができるからだ。自分自身が謎でありつづけること。それが世界を興味深いものにしつづける要因だ。

 BGMを soul II soul にしたので、コーヒー飲みながら、キッチンで踊っている。soul II soul って、健康にいいような気がする。きょうじゅうに、2月に文学極道に投稿する『詩の日めくり』を完成させよう。なんちゅう気まぐれやろうか。やる気ぜんぜんなかったのに、笑。

 つくり終えた。チキンラーメン食べて、お風呂に入ろう。お風呂場では、ダン・シモンズの『エデンの炎』上巻を読んでいる。たぶん、名作ではないのだろうけれど、読ませつづける力はあって、読んでいる。

 シモンズの『エデンの炎』上巻がことのほかおもしろくなってきたので、お風呂からあがったけど、つづきを読むことにした。

『エデンの炎』棄てる本として、お風呂場で読んでたのだけれど、またブックオフで見つけたら買おう。ぼくの大好きなマーク・トウェインが出てくるのだ。そいえば、ファーマーの長篇にもトウェインが出てきてたな。主人公のひとりとして。リバーワールド・シリーズだ。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第一部・5、日暮雅通訳、81ページ)

 豚になれるものなら豚になりたい。そうして、ハムになって、皿の上に切り分けられて飾りもののように美しく並べられたい。


二〇一六年一月二十三日 「選ばれなかった言葉の行き場所」


 昼に学校で机のうえを見たら、メモ用紙が教材のあいだに挟まれてあって、取り上げると、何日もまえに書いた言葉があって、それを読んで思い出した。選ばれなかった言葉というものがある。いったんメモ用紙などに書かれたものでも、出来上がった本文に書き込まれなかった言葉もあるだろう。また、メモ用紙に書き留められることもなく、思いついた瞬間に除外された言葉もあるだろう。それらの言葉は、いったいどこに行くのだろう。ぼくによって選ばれなかったひとたちが、他のひとに選ばれて結びつくことがあるように、本文に選ばれなかった言葉が、別の詩句や文章のなかで使われることもあるだろう。しかし、けっして二度と頭に思い浮かべられることもなく、使われることもなかった言葉たちもあるだろう。それらは、いったいどこに行ったのだろう。どこにいて、なにをしているのだろう。ぼくが選ばなかった言葉たち同士で集まったり、話し合ったりしているのだろうか。ぼくの悪口なんか言ってたりして。ぼくが使わなかったことに腹を立てたり、ぼくに使われることがなくってよかったーとか思っているのだろうか。そういった言葉が、ぼくが馬鹿な詩句や文章を書いたりしているのを、あざ笑ったりしているのだろうか。ぼくの頭の映像で、とても賢そうな西洋人のおじさんが、たそがれときの窓辺に立っている。目をつむって。ぼくは、ぼくが使った言葉たちのほうを向いているのだが、表情のわからない、ぼくが使わなかった言葉たちのほうにも目を向けたいと思って、目を向けても、窓辺に立っているその西洋人のおじさんの映像はそれ以上変化しない。もちろん、ぼくのせいだ。ぼくの使わなかった言葉が目をつむり、腕をくんで、窓辺で黄昏ている。その映像が強烈で、ぼくがどんな言葉を使わなかったのか、まったく思い出すことができない。その西洋人のおじさんは、ハーフに間違われることがある、ぼくそっくりの顔をしているのだけれど。


二〇一六年一月二十四日 「流転が流転する?」


 2016年1月2日メモ。太った男性を好む男性がいること。いわゆるデブ専。ぼくは、大学に入って、3年でゲイバーに行くまで、ゲイっていうのか、当時は、ホモって言ってたと思うけど、顔の整った、きれいな男性ばかりだと思っていて、ぼくが魅かれるようなタイプのひとって、ふつうにどこにでもいるような感じのひとばっかりだったから、きっと、ぼくは特殊なんだなって思ってたのだけれど、ゲイバーに行って、いちばんびっくりしたのは、みんなふつうの感じのひとばかりだったってこと。でも、ぼくの美意識はまだ、文学的な影響が強くて、デブというか、太っているのは、うつくしくなくて、高校時代に社会科のデブの先生に膝を触られたときに、ものすごい嫌悪感があって、デブっていうだけで、うつくしくないと思っていたのだけれど、ゲイバーに行き出してすぐに付き合ったひとがデブで、石立鉄夫に似たひとで、とてもいいひとだったので、そのひとと付き合って別れたあとは、すっかりデブ専になってしまって、そういえば、高校時代にぼくの膝を触った社会の先生も、かわいらしいおデブさんだったなあと思い返したりしてしまうのであった。いまのぼくはもうデブ専でもなくなって、来る者拒まず状態である。といっても、みんな太ってるか、笑。ダイエットもつづかず、また太り出し、洋梨のような体型に戻ったぼくが、収容所体験のあるツェランの詩を、翻訳で読む。飢えも知らず、のほほんと育って、勝手気ままに暮らしている、太った醜いブタのぼくが、とてもうつくしいお顔の写真がついたツェランの詩集を読む。なにか悪い気がしないでもない。

「万物が流転する。」━━そしてこの考えも。すると、万物はふたたび停止するのではなかろうか?(パウル・ツェラン『逆光』飯吉光夫訳)

『ラスト・キッド』収録作・2篇目のなかにある、大谷良太くんの考えのほうが、ぼくにはすっきりするかな。「万物が流転する。」という言葉自体が流転するというものだけれど、ツェランのように、「停止する」というのは、ちょっと、いただけないかな、ぼくには。でも、まあ、ひっかかるというのは、よいことだ。考えることのきっかけにはなるので。ツェランの詩集は、もう借りることはないだろうな。ぜんぜん刺激的じゃないもの。


二〇一六年一月二十五日 「ある特別なH」


「ある特別な一日」から「一一一」を引いたら、「ある特別なH」になる。


二〇一六年一月二十六日 「ぼくは嘘を愛する。」


 ぼくは嘘を愛する。それが小さな嘘であっても、大きな嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。それがぼくにとってもどうでもいい嘘でも、ぼくを故意に傷つけるための嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。嘘だけが隠されている真実を暴くからだ。


二〇一六年一月二十七日 「詩人殺人事件」


ひとつの声がきみの唇になり
きみのすべてになるまで
チラチラと
チラチラと
きみの身体が点滅している
グラスについた汗
テレビの走査線のよう
よい詩を読むと
寿命が長くなるのか短くなるのか
どっちかだと思うけど
どっちでもないかもしれないけど
この間
バカみたいな顔をしてお茶をいれてた
玉露はいい
玉露はいいね

ジミーちゃんと言い合いながら

詩人殺人事件
って
どうよ!

詩の鉱脈を発見した詩人がいた
その鉱脈を発見した詩人は
ほんものの詩を書くことができるのだ
ところがその詩の鉱脈を発見した詩人が殺されてしまった
半世紀ほど前の話だ
容疑者は谷川俊太郎
真犯人は吉増剛造
刑事は大岡信
探偵は荒川洋治
弁護士は中村稔
村の娘に白石かずこ
こんな配役で
ミステリー小説なんて
うぷぷ

彼らの詩行を引用してセリフを組み立てるのよ



二〇一六年一月二十八日 「キクチくん」


キクチくん。
めっちゃ
かわいかった。
おとつい
ずっと見てたんだよ
って言ったら
はずかしそうに
「見ないでください」
だって
そのときの
表情が
これまた
かわいかった。
大好き。
たぶん
惚れたね~
ぼく。
キクチくん
もう
二度と会いたくないぐらい好き!


二〇一六年一月二十九日 「目は喜び」


Ten。
こうして見ますと、美しいですね。
TEN。
これも、美しいですね。
どうして、目は
こんなもので、よろこぶことができるのでしょう。
不思議です。


二〇一六年一月三十日 「たこジャズ」


 人生の瞬間瞬間が輝いて、生き生きとしていることを、これまでのぼくは、その瞬間瞬間をつかまえて、その瞬間瞬間を拡大鏡で覗き込んで、その瞬間瞬間をつまびらかにさせていたのだが、いまは、その生き生きと輝いている瞬間が生き生きと輝いている理由が、その生き生きとした瞬間の前後に、それみずからは生き生きとしてはいなくても、それ以外の瞬間を生き生きと輝いた瞬間にさせる瞬間が存在しているからである、ということに気がついたのであった。

 むかし、ぼくが30代のときに、千本中立売(せんぼんなかだちゅうり)に、「たこジャズ」っていう名前のたこ焼き屋さんがあって、よく夜中の1時とか2時まで、そこでお酒とたこ焼きをいただきながら、友だちと騒いでたんだけど、アメリカ帰りのファンキーなママさんがやってて、めっちゃ楽しかった。

 ひとり、ひとり、違ったよろこびや、違った悲しみや、違った苦しみがあって、その自分のとは違ったよろこびが、悲しみや、苦しみが、詩を通して、自分のよろこびや、悲しみや、苦しみに振り向かせてくれるものなのかなと、さっきキッチンでタバコを吸いながら思っていました。


二〇一六年一月三十一日 「きょうは、キッス最長記録塗り替えたかも、笑。」


むかし、付き合いかけた子なんだけど
前彼と付き合う前やから6年ほど前かな
きょう会って
「ああ、ぜんぜん変わってないやん。」
「そんなことないわ、ふけたで。」
「そうかなあ。」
「しわもふえたし。」
「デブってるから、わからへんやん。」
目を合わせないで笑う。
「やせた?」
「やせたよ。」
出会ったころは、ぼくもデブだったのだけれど
この6年で、体重が15キロほど減ったのだった。
しかし、さいきん、また顔が太ってきたのだった、笑。
あ、おなかも。
おなかをなでられて、苦笑いする。
「まだ、付き合う子さがしてんの?」
「うん。」
「いるやろ?」
「どこに?」
「どこにでもいるやん。」
「それが、いないんやね。」
「マッサージ師になれるんちゃう?」
ずっと手のひらをもんであげていたのであった、笑。
表情がとてもかわいらしかったのでキッスした。
そしたら目をつむって黙って受け入れたので
抱きしめたら抱きしめ返されたので
そこからずっとチューを、笑。
6時間くらい。
ほとんど、チューばかり。
かんじんなところは、パンツの上から
ちょこっとだけ、笑。
チューの時間
前の記録を超えたかも。
とてもゆっくりしゃべる子なので
ぼくもゆっくり考えながら
いろいろなことを思い出しながらしゃべった。
電話番号の交換をしたけど
ぼくは、ほとんどいつもここで終わってしまう。
キッスは真剣なものだったし
握り返してくれた手の力はつよかったし
抱き返してくれた力もつよかったのだけれど
やはり、しあわせがこわいひとみたい。
ぼくってひとは。




自由詩 詩の日めくり 二〇一六年一月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-04-10 11:04:26
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