世界と時間に対する一つのアプローチ
朧月夜
詩人というのは、言葉を食べなければ生きてはいけない存在なのかもしれません。でも、今の私には、世界という存在はそれを見ていても言葉を生み出すということをしてくれません。つまり、世界はそこに何かを宿しているもののようにではなく、世界そのものとしてしか見ることが出来ないのです。こういう事を書くとあるいは語弊があるのかもしれませんが、あえて書くとすれば、世界を目にするとき、そこに何らかの意味を事前に付与してしまうことで、世界がありのままの世界ではなくなってしまう、世界に傷がついてしまうような感覚、を私が持っている、と言えば良いでしょうか。例えば、一脚の椅子を見ていても、それが「何ということのないただの椅子だ」という風には、私の目には映りません。強いていえば、そこに何らかの三次元の多様体がある、という感じになります。それがたしかに「椅子」なのか、と聞かれると、私の気持ち的にはかなり心もとないものがあります。このように、私にとって「椅子」というのは何らかの三次元多様体なのですが、そこに時間という要素を含めていくことで、ようやく人間的な意味での「意味」というものを持ち始めます。なぜなら、そこにはその椅子に触れた人たちの感覚や感触が含まれてくるからです。このとき、椅子は三次元の多様体であることを越えて、四次元多様体になっていると言うことが出来るでしょう。やがて、その椅子が壊れてその形を失っても、時間軸を接点として、一つの「形」であることを保つことが出来るわけです。一脚の椅子は、このように「椅子それ自体」としても一つの機能を持っていますが、それに触れていく私たちにとってもそれぞれ別個な一つの機能を有しています。その椅子に座った人には座った人にとっての、見たり触れたりするだけで座らなかった人にとってはそれなりの、一つの機能、すなわちファンクションをその椅子は持っています。一脚の椅子を感覚しているとき、私たちはこのように「時間」という共有の性質をそこに含めることで、直接的には同一であることを示せない椅子に対して、微分可能な唯一の機能や様相を持たせることが可能になります。そこに座る人にとっては家具や道具としての素質、それを絵や写真を見るように眺める人にとっては静物としての素質を持った、一個の物体としてです。……ではこの時に、私にとっての「椅子」と、私ではない第三者にとっての「椅子」を同一のものたらしめている時間というものは、一体何なのでしょうか。私の推測では、これは裸の特異点であろうと考えています。私たちは時間というものを直接的に感覚はしませんし、また動かしたり伸び縮みさせたりすることも出来ません。しかし、私たちは厳然として時間というものの存在を感じています。感じ取っている、という表現のほうが正確でしょうか。ほとんど時間に支配されている、と言っても良いほど、私たちは時間というものにたいして鋭敏な感覚を持っている生き物なのです。とすれば、時間というものは空間に比べれは無限に小さく、無限に短いものが連なったものの集まりである、と考えてみても良いでしょう。小さすぎ、細かすぎて私たちには取り扱うことが出来ないわけです。これは、人間を始めとした生物のみならず、原子や分子といった無機物にとっても同様だと考えられます。仮にそうだとすれば、この裸の特異点を感じ取ることの出来る、物質界にある本質的な何らかのものこそが、私たちが普段心と読んでいるものの正体だと言って良いかもしれません。……そこから、世界というのは人や生物、原子や分子などの無機物が持つ心、すなわち裸の特異点を中心として、そこに大小限りない数の物質が集まることで、それぞれに精神的な何かを形作っていくもの、という考え方をすることが出来るのです。もちろん、これは世界というものを理解するための一つのアプローチにすぎません。原子や分子は心のようなもの、は持っていないかもしれませんし、私たちが自分たちの心だと感じ取っているものも、実際は錯覚や思いこみにすぎないかもしれないのです。ですが、世界にはこのように無数の原点(裸の特異点)があり、世界のあらゆる場所がその広がりでもあり中心でもある、と考えるとき、私自身に関して言えば、世界がこのようにまぶしすぎる物のように見えることも、納得がいきます。人間という、高等なのか下等なのか分からない生き物だけでなく、一匹の虫、一枚の花弁すら、心、あるいはそれに似たものを持っていて、それぞれがその世界の中心である、そう思えば、世界がこのようにまぶしさに満ちていることは道理であるように思えます。言い換えれば、世界というのは、そのあらゆる部分で何らかの心を持っていて、あらゆる部分で中心でもあり、そうでなくもある、そういうことなのではないでしょうか。