詩の日めくり 二〇一五年六月一日─三十一日
田中宏輔


二〇一五年六月一日 「こころに明かりが灯る」


 以前、付き合ってた子が遊びにきてくれて、二人でDVD見たり、音楽聴いたりしてた。世界いち、かわいい顔だと、きょうも言った。「きっと、一週間は、こころに明かりが灯った感じだよ。」と言うと、「ええ?」相変わらず、ぼくの表現は通じにくそうだった、笑。


二〇一五年六月二日 「いっしょに服を買いに行くのだ。」


 きょうは、これから頭を刈って、高木神経科医院に行って、それから、えいちゃんと河原町で待ち合わせ。いっしょに服を買いに行くのだ。きょうは、えいちゃんの誕生日。何着か買ってあげるねと約束したのだった。誕生日を祝ってあげられることっていうのは、ぼくには楽しいことなのだ。しかし、毎日、楽しいことばっかりで、長生きすると、ほんとに人生は楽しいものだと痛感する。若いときは苦しいことばっかりだったのにね。でも苦しかったから、いまが楽しいのかもね。すてきなひと、かわいいひとに囲まれている。付き合いが長くなると、いいところが新しく見つかったりするから、できるかぎり長く生きて、友だちのいいところをいっぱい目にしようと思っている。


二〇一五年六月三日 「複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?」


 きょうは、ジュンク堂で、レムの「泰平ヨンの未来学会議』(ハヤカワSF文庫)と、フィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』(創元SF文庫)を買った。ディックの未訳の長篇は、これでさいごだったと思う。いつ読むか、わからないけれど。あした早いし、クスリのんで寝よう。きのう寝てないから、きょうは、よく眠れますように。寝るまえに、ウルトラQの本か、怪獣の人形の写真集でも見ようっと。本の表紙の絵とか、怪獣の人形や、その写真集なんかで、こころが癒されるのって、なんだか単純。複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?


二〇一五年六月四日 「才能とは辛抱のことだ。」


 本棚を少しでもよい状態にしておきたかったので(いま、ぎゅうぎゅうに並べた本のうえに、本を横にして載せてたりしているので、本には悪い状態だと思う)モーパッサンの『ピエールとジャン』を捨てようと思って(1冊でも少なくしたいので)、でも、念のためにと思って、ふと、ページをめくると、「小説について」という、前書きか、それとも序文なのかわからないけれど、本篇のまえに置かれたものがあって、それを拾い読みしていると、ふむふむとうなずくところがしきりに出てきて、捨てられないことがわかった。フロベールがモーパッサンに言ったという、「才能とは辛抱のことだ。」という言葉が印象的だった。違ったかな。でも、まあ、こういった言葉だった。そして、宮尾節子さんのことが思い浮かんだのだった。正確に引用しておこう。『ピエールとジャン』の本篇のまえに置かれた「小説について」というエッセーのようなもののなかに、つぎのような言葉があるのだ。「その後、フロベールも、ときどき会っているうちに、私に好意を感じてくれるようになった。私は思い切って二、三の試作を彼の手もとにまでさし出した。親切に読んでくれて、こう返事をしてくれた。「きみがいまに才能を持つようになるかどうか、それは私にはわからない。きみが私のところへ持ってきたものはある程度の頭のあることを証明している。だが、若いきみに教えておくが、次の一事を忘れてはいけない。才能とは──ビュフォンの言葉にしたがえば──ながい辛抱にほかならない、ということを。精を出したまえ」」(杉 捷夫訳)。モーパッサンがフロベールに言われた言葉だけれど、フロベールはビュフォンの言葉を引いたみたいだ。ということは、ぼくがここにその言葉を引くと、ひ孫引きということになるのかな。違うかな?


二〇一五年六月五日 「ナボコフ」


 きのう、ナボコフを読んでみたいという知り合いに、『ロリータ』と『青白い炎』をプレゼントした。『ロリータ』は大久保康雄訳の新潮文庫本、『青白い炎』は古いほうの文庫版。たしか、ちくま文庫だったかな。どっちのほうをより好いてくれるか、わからないけれど、どちちも傑作だった。ちょっとまえに買った『文学講義』は最悪だったけれど。ぼくの本棚には、『ロリータ』はまだ2冊ある。カヴァー違い、翻訳者違いのものだ。もちろん、岩波文庫から出た『青白い炎』もある。


二〇一五年六月六日 「セロリ」


 身体のためにと思ってセロリを買ってきて食べているのだけれど、気持ち悪くなるくらいに、まずい。


二〇一五年六月七日 「FBフレンド」


 FBフレンドの笑顔がかわいすぐる。きょうは、その男の子の笑顔を思い浮かべながら寝る~。二度目の、おやすみ、グッジョブ! I go sleep with your smile tonight. って、その男の子の画像にコメントした。三度目の、おやすみ、グッジョブ! その子の返信。LOL! why not sleep with me? そんなこと言われても~、笑。日本じゃないもの。彼がいるのが。日本だったら会いに行ってる(たぶん)。それぐらいかわいい。because I can't sleep. って、書いておいた。ぶふふ。


二〇一五年六月八日 「殺戮のチェスゲーム」


 ブックオフのポイントが貯まっていたので、使おうと思って、三条京阪のブックオフと四条河原町のオーパ!のブックオフに行った。三条京阪では欲しいものがなかったが、オーパ!のほうでは、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻が、たいへんよい状態でそろっていたので、買った。『殺戮のチェスゲーム』を上・中・下巻のセットで買うのは、これで4回目だ。本棚にあるほうは、ふたたびお風呂場で読む用にしようと思う。きょう買ったもの以上によい状態のものは、ないと思うので、『殺戮のチェスゲーム』を買うのは、これで終わりにしたいと思う。高い値段で買ったもののほうが、安い値段で買ったものより状態が悪くて(ヤケとシミがあった)腹が立って、『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻、背中をバキバキ折って、捨てた。どれも分厚い本なので、簡単に背割れした。本棚を整理しようと思って、ひとつの本棚の奥を見てびっくりした。もう手元にはないと思っていた私家版の詩集が2冊出てきた。電子データにしていないものも含まれているので、後々、電子データにするつもり。初期の詩だ。それと、捨てたと思っていたぼくや恋人が写っている写真がケースごと発見されたのであった。これは僥倖だった。


二〇一五年六月九日 「聞き違い」


 仕事の合い間に読書をしていて、聞き違いをしてしまった。そこで「聞き違い」自体を、つぎのようにしてみた。

聞き違い
効き違い
機器違い
危機違い
き、気違い
kiki chigai

 日常、耳にするのは「聞き違い」くらいかな。小説や、マンガなんかには、「き、気違い」もあるかな。


二〇一五年六月十日 「きみの名前は?」


『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻、あと10ページほど。シルヴァーバーグは、ほんとうに物語がうまいなと思う。きょうじゅうに下巻をどれだけ読めるかだけど、楽しみ。シルヴァーバーグが終わったら、フィリップ・ホセ・ファーマーの作品で唯一というか、唯二、読んでいない、『淫獣』シリーズを読む。『淫獣の妖宴』と『淫獣の幻影』だけど、男のペニスにかぶりついて血を吸う女吸血鬼が出てくるらしい。10年以上もむかし、これらを手に入れるために、各々数千円ずつ使ったと記憶しているのだが、いまはもう、これらの古書値は下がってると思う。調べてみようかな。505円と1000円だった。このあいだ復刊した、『泰平ヨンの未来学会議』も、以前は2万円から3万円したのだけれど、いまどうなってるか、ググってみよう。9550円だった。レムのなかでもっともつまらない『浴槽で発見された手記』がまだ5000円だった。これは1円でいいような本だったのだけれど、ネットで調べると、評価が悪くないのだ。ラテンアメリカ文学を読んだあとでは、駄作としか思えないものなんだけどね。さっき、お風呂場で、キングの『呪われた町』の上巻を読んでたら、貴重なエピグラフ「きみの名前は?」があって、俄然、興味が高まったのだけれど、プロローグを読んだら、ゲイ・ネタかしらと思うセリフのやりとりもあって、『〈教皇〉ヴァレンタイン』の下巻より先に読むことにした。走り読みしよう。


二〇一五年六月十一日 「詩論」


 けさの出眠時幻覚は、オブセッションのように何度も見てるもの。偽の記憶だ。30代で記憶障害を起こしたときの記憶である。大学院を出たあと、高校に入り直して生活していたというものだ。当時は記憶が錯綜して、現実が現実でない感じだった。自分が魔術的な世界で生活している感じだったのだ。精神的現実が幻想的だった。ダブルヴィジョンは見るし、ドッペルゲンガーとは遭遇するし、夜中に空中浮遊しながら散歩していると思い込んでいたし、頭のうしろの光景もすべて目にしていたと思い込んでいた、狂った時期の記憶だ。とても生々しくて、まさに悪夢だった。合理主義者なので、それらが無意識領域の自我(あるいは、自我を形成する言葉や言葉以外の事物によって受ける印象や事物から得られる感覚などによって形成されるロゴス=形成原理)が引き起こした脳内の現象であることは、30代後半からの考察によってわかったのだが、いまは、それの分析を通して作品をつくっている。『詩の日めくり』も、そういった類の作品だろう。無意識のロゴスを最大限に利用しようと思っている。「先駆形」ほど過激ではないが(先駆形をつくっているときの精神状態はやばかったと思う。万能感がバリバリで、さまざまなものが、言葉が自動的に結びついていくさまを眺めているのは、自分の正気を疑うほどに、すさまじい感覚を引き起こすものだったのだ)それでも、『詩の日めくり』をつくっているときのこころのどこかは、ここ、いま、という場所と時間を離れた、どこか、いつかに属する、時制の束縛を知らないものになっていたのだった。「詩とはなにか」という問いかけに対するもっとも端的な答えは、「詩とはなにか」という問いかけを無効にしてしまうものであるだろう。なにものであってもよいのだ。詩とはこれこれのものだと言う者がいる。たしかに、そうだとも言えるし、そうでもないものだとも言えるのだ。100の答えに対して、少なくとも、もう100の答えが追加されるのだ。1つの詩の定義がなされるたびに、2つの詩の定義が増えるのだ。


二〇一五年六月十二日 「弟」


 いちばん下のキチガイの弟から電話があった。ぼくが自殺すると思っているらしい。「きみも詩を書きなさいよ、才能があるんだから」「あっちゃんみたいな才能はないよ。」「ぼくとは違う才能があると思うよ。むかし書いてたの、すばらしかったし。あの父親が否定したから書かなくなったんだろうけど。あの父親も、頭がおかしかったんだし、きみと同じでね。でも、きみを否定したのは間違ってたと思うよ。ぼくのことを否定していたことも間違っていたし。芸術をするのは、いつからでも遅くはないよ。才能がある者は書く義務がある。書きなさい。」と言った。弟は詩も書いていたし絵も描いていたのだ。父親に強く否定されて発狂したのだけれど、ぼくは否定されても、すぐに家を出たので、父親の言葉に呪縛されることはなかった。死ぬまで父親と同居していた弟は、ほんとうに可哀想だ。自己否定せざるを得ず発狂までしたのだ。理解力のない親を持って否定された芸術家はたくさんいると思う。子どもの才能を否定する親など見捨てればいいのだ。ぼくが見捨てたように。弟には、好きな詩とか絵を、ふたたびはじめてほしいと思う。頭のねじがどこかおかしい弟なので、すばらしいものを書くと思う。


二〇一五年六月十三日 「愛はただの夢にすぎない。」


「愛はただの夢にすぎない。」(スティーヴン・キング『呪われた町』下巻・第三章・第十四章・30、永井 淳訳、276ページ)ただの夢だから、何度も訪れるのだろう。オブセッションのように。若いときには。齢をとると、愛の諸相について考察するようになるので、ひとつの型にこだわることがなくなった。肉欲のことについて考えていたのだ。54才にもなると、肉欲に振り回されることがなくなるのだ。これはひとつの僥倖であり、自然が人間に与えた大いなる恩恵のひとつである。人生のほとんどすべての時間を、学問や芸術に注ぎ込むことができるのだ。キングの『呪われた町』下巻を読み終わった。二度と読み直さないだろうから上・下巻とも破り捨てた。プログレをやめて、イーグルスを聴いてたら、FBフレンドの恋人同士の仲のいい画像が思い出されて、そこから自分の過去の付き合いとかが思い出されて、ちょっとジーンとして、まだ作品にしてない思い出とかいっぱいあって、これからそれを作品にしていけると思うと、なんか幸せな気分にあふれてきた。齢をとって、自分自身が若さとか美しさから遠くなったために、客観的に見れる若さとか美しさのはかなさがよくわかるような気がする。たとえ若くて美しくても、なんの努力もしていないのに、持ち上げられてちやほやされるというのは、とても愚かしいことだった。そして、それが愚かしいことだったということがわかることが、とても大事なことのように思える。たくさんの文学が、その愚かさについての考察なのではないだろうか。ぼくの作品も例外ではなく、その愚かさについての考察であるような気がする。愚かで愛おしい記憶だ。お酒、買いに行こうっと。あのおっちゃんとは、二度と会ってないけど、ぼくのこと、気に入っちゃったのだろうか。話しかければよかったかなあ~。なんてことが、わりとある。電車のなかとか、街を歩いてたりしてたら。世のなかには、奇跡がごまんと落ちてるのだった。ただね、拾い損ねてるだけなのね。


二〇一五年六月十四日 「夢は叶う」


 日知庵で、会社のえらいさんとしゃべっていて、そのひとが「プラスなことしゃべっててもマイナスなことしゃべると、口に±で「吐く」になる。プラスなことだけをしゃべってると口に+で「叶う」になるんやで」と言って、ふだん、酒癖悪いのに、いいこと言うじゃんって思った。でも、横からすかさず、「それ金八先生ですか?」って、二人で来てた女性客のうち、そのえらいさんの隣に坐ってた方の子に突っ込まれてた。そかもね~。たしかに、ぽい。そのえらいさん、聞こえないふりしてたけど、笑。やっぱ、「金八先生」かも。ぼくははじめて聞いて、感心してしまったのだけれど。


二〇一五年六月十五日 「雨なのに、小鳥が泣いている。」


雨なのに、小鳥が泣いている。目が覚めてしまった。


二〇一五年六月十六日 「『淫獣』シリーズ2冊」


『淫獣の妖宴』を含む『淫獣』シリーズだけが、ファーマーのもので唯一、読んでなかったもの。だって、男のチンポコから血を吸う女吸血鬼の話だっていうから、避けてたのね。あまりに痛々しそうでさ。でもないのかな? フィリップ・ホセ・ファーマーは、日本で出版されている翻訳本をコンプリートに収集した何十人かの詩人や作家のうちの一人。『淫獣』シリーズを読むのが、もっとはやければよかった、というような感想がもてる作品であればいいなって思っている。(中座)ファーマーの『淫獣の幻影』を100ページちょっと読んだ。車の出す排気ガスで、街に住む人間がどんどん街から脱出しているという設定のなかでの吸血鬼物語。いまだったら「排気ガスで街を脱出」みたいな設定が馬鹿げてるもののように思えるけれど、作品が書かれた1986年当時はそうではなかったのだろう。ということは、いま問題視されていることも、将来的には馬鹿げているように思えるものもあるのだろう。逆に、当時問題視すべきことで、問題視されなかったものもあるだろうし、同様に、いま問題視しなければならないことで問題視していないものもあるだろう。すごい作品とか、勉強になる作品とか、よいものばっかり読んでいると、よくないものに出合ったときの怒りは中途半端なものではなくなるので、ときには、あまりすごくない作品や、そんなに勉強にならないものも読む必要があるのかもしれない。そうでも思わなかったら、『淫獣の幻影』は破り捨ててるな。いや、最悪のものかもしれない。ファーマーのもののなかで。うううん。でも、最悪なものでも持っておきたいと思うのは、ファンだからかもしれない。というか、ファンだったら、最悪な設定のものこそ、よろこんで受け入れなければならないのかもしれない。(中座)『淫獣の幻影』あと20ページほど。セックス、セックス、セックスの描写が本文の半分くらいあるかもしれない。じっさいは5分の1ほどかもしれないけれど、感覚的に、半分くらい、セックス描写である。うううん。でも、いいかも。と思わせるのは、やっぱり、ぼくが、フィリップ・ホセ・ファーマーのファンだからかもしれない。あの壮大なリヴァー・ワールド・シリーズを読んだときから、ファーマーは、ぼくのアイドルになってしまったのであった。きょうじゅうに『淫獣の妖宴』に突入すると思う。ゲスいわ~。最低にお下劣。(中座)『淫獣の妖宴』の冒頭で、いきなり、吸血鬼や狼男は、じつは宇宙人だったというのである、笑。笑うしかない。しかも主人公の人間が突如、超能力をもち、ものすごく巨大なペニスをもつことになり、云々というのだ。ある意味、自由だけど、自由すぎるような気がする。(中座)『淫獣の妖宴』を走り読みした。精読する価値がなかったので。これから、このあいだ買ったフィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』を読む。これはじっくり読む価値があるだろうか。ディックもまたぼくの大好きな作家で、その作品をすべてコレクションしている詩人や作家のうちの一人だ。


二〇一五年六月十七日 「誤字」


 フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』(佐藤龍雄訳)誤字 148ページ8、9行目「勝負をものにしたのだ。」これは「勝利をものにしたのだ。」だと思う。「勝負をものにする」などという日本語にお目にかかったことがない。


二〇一五年六月十八日 「りんご摘みのあとで」


 レムの『泰平ヨンの未来学会議』があまりにも退屈なので、ロバート・フロストの詩の翻訳をしようかな。


After Apple-Picking

Robert Frost

My long two-pointed ladder's sticking through a tree
Toward heaven still,
And there's a barrel that I didn't fill
Beside it, and there may be two or three
Apples I didn't pick upon some bough.
But I am done with apple-picking now.
Essence of winter sleep is on the night,
The scent of apples: I am drowsing off.
I cannot rub the strangeness from my sight
I got from looking through a pane of glass
I skimmed this morning from the drinking trough
And held against the world of hoary grass.
It melted, and I let it fall and break.
But I was well
Upon my way to sleep before it fell,
And I could tell
What form my dreaming was about to take.
Magnified apples appear and disappear,
Stem end and blossom end,
And every fleck of russet showing clear.
My instep arch not only keeps the ache,
It keeps the pressure of a ladder-round.
I feel the ladder sway as the boughs bend.
And I keep hearing from the cellar bin
The rumbling sound
Of load on load of apples coming in.
For I have had too much
Of apple-picking: I am overtired
Of the great harvest I myself desired.
There were ten thousand thousand fruit to touch,
Cherish in hand, lift down, and not let fall.
For all
That struck the earth,
No matter if not bruised or spiked with stubble,
Went surely to the cider-apple heap
As of no worth.
One can see what will trouble
This sleep of mine, whatever sleep it is.
Were he not gone,
The woodchuck could say whether it's like his
Long sleep, as I describe its coming on,
Or just some human sleep.


りんご摘みのあと

ロバート・フロスト

両端の二本の突き出た長い縦木を地面に突き刺したぼくの梯子が木に立てかけてある。
それはまだ天に向けて傾けてある。
そして、そこには一つの樽がある。ぼくがいっぱいにしなかったものだ。
そのそばには、ぼくがいくつかの大ぶりの枝から摘み取り残した
二つか三つのりんごがあるかもしれない。
でも、いまはもう、ぼくのりんご摘みは終わったんだ。
冬の眠りの本質は夜にある。
りんごの香りがする、ぼくはうとうととしている。
ぼくは、ぼくが見た光景の奇妙さを、ぼくの瞳から拭い去ることができない。
それは一枚の窓ガラスを通して見たものから得たものだけど
今朝、飲料用の水桶から水をすくい取って
そうして、涸れかけた草の世界を守ってやろうとしたんだ。
手にした草はへたっとしてたから、そいつを落として、踏みつけて、ばらばらにしてやった。
でも、ぼくは満足だったんだ。
そいつが地面に落っこちるまえまではずっと順調だったんだ。
ぼくにはわかってるんだ。
まさに見ようとしていた夢を、いったい、なにがつくりだすのかって。
巨大なりんごが現われたり消えたりするんだ、
幹の先っちょや花の先っちょでね、
それでいて、赤りんごのどの白い斑点もはっきりくっきりしてるんだ。
ぼくの足の甲のへこんだところは痛みだけでなく、
梯子のあちこちの圧力も感じつづけるんだ。
大きい枝が曲がると、梯子が揺れるのを、ぼくは感じる。
それでいて、ぼくの耳には聞こえずにはいられないんだ、地下室のふたつきの大箱から
ゴロゴロいう音が
ぼくが摘み取って収蔵したりんごの積み荷という積み荷のもののね。
というのも、ぼくが、たくさん摘み取り過ぎちゃったからなんだけどね。
疲れすぎちゃったよ。ぼく自身が望んだ通りのものすごい収穫だったんだけどね。
ぼくの手が摘み取った果実は、1000万個もあったかな。
やさしくていねいに手で摘み取って、降ろすんだ、落とすんじゃない。
というのも、そうしない限り
りんごは地球に激突しちゃうからなんだ。
まあ、たとえ、傷ついちゃったり、刈り株に突き刺さっちゃったりしても
サイダー用のりんごの山のところに運んじゃうだけだけどね。
ほんと、なんの価値もないものだよ。
なにがぼくの眠りを邪魔するものになるか、わかるよね。
そのぼくの眠りがどんなものであってもね。
あいつは行っちゃったのかな、
ウッドチャックのことだけど、そいつはわかってるってさ、その眠りが
自分の長い眠りのようなものかどうかってこと、ぼくがここにきて描写しているようにさ、
それとも、ちょうどちょっとした人間の眠りのようなものなのかな。


二〇一五年六月十九日 「前世の記憶」


 人間はほとんどみな、原始時代からの前世の記憶を連綿と持ちつづけているものなのに、なかには、まれにまったく持たないで生まれてくる者もいるのだ。ぼくがそれで、ぼくには前世の記憶がいっさいないのだ。人間以前の記憶さえ持つ者もいるというのに。だから、ぼくは、こんなにも世渡りが下手なのだ。


二〇一五年六月二十日 「すてきな思い出が待ち構えている」


 かなりのヨッパである。きみやさんに行く途中、阪急でかわいい男の子を見つけたと思ったら、知ってる子だった~、笑。もう、この齢になったら、街ん中は、かつて好きだった子がいっぱいで、いつ、どこに行っても、すてきな思い出が待ち構えていて、ああ、齢をとるって、こんないいことだったんだって思う。


二〇一五年六月二十一日 「まぎらわしい。」


 マンションの部屋にいると、ときどき、車が迫ってくる音と、雨がきつく降ってくる音が似ていて、まぎらわしい。何度か、あわててベランダの窓を開けたことがあった。洗濯物を取り込もうとして。


二〇一五年六月二十二日 「デジャブ感ありだけど。」


 ジュンク堂で、ゲーテの『ファウスト』の第二部といっしょに、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』と、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を買った。『シルトの岸辺』はちら読みしたら、文体がとてもよかったので。『七人の使者・神を見た犬』は、表紙がとても好みのものだったので。帰りに、ところてん2つと、卵豆腐2つ買った。ところてんは黒蜜。酢で食べる方が健康なんだろうけれど、だんぜん黒蜜が好き。卵豆腐は、ひとつはエビ。ひとつはカニ。おやつーな晩ご飯である。あ、そだ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』50ページあたりからおもしろくなった。デジャブ感ありだけど。


二〇一五年六月二十三日 「どっちだろ? どっちでもないのかな?」


 シマウマって、さいしょは白馬だったのか、それとも黒馬だったのか、それともあるいは、もとからシマウマだったのか、わからないけど、そういえば、パンダも……


二〇一五年六月二十四日 「泰平ヨンの未来学会議」


 スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』あと20ページほどで読み終わる。グレッグ・イーガンも扱ってたクスリづけの世界。ブライアン・オールディスの未訳の作品にもあったと思うけど、ぼくも短い作品でクスリづけの世界を書いたことがある。オールディスのは幻覚を見る爆弾だった。そいえば、それも、ぼくは書いたことがあった。おそらく、たくさんの詩人や作家が書いているのだろう。レムのは、かなり諧謔的だ。オールディスのはシニカルなものだろう。イーガンのもだ。ぼくのもギャグ的なものとシニカルなものとがあった。塾にいくまでにレムを読みきろう。つぎは、ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』を読むか、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を読もう。両方、同時に読んでもいい。通勤と授業の空き時間には『シルトの岸辺』を、寝るまえには、『七人の使者・神を見た犬』を読んでもいい。楽しみだ。(中座)ありゃ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』読み終わったけど、夢落ちやった。なんだかな~。塾に行くまで、ルーズリーフ作業をしよう。時間があまったら、読書をする。


二〇一五年六月二十五日 「やっぱり神さまかな。」


 ずっと可愛いと思ってたFBフレンドが、いま、ぼくに会いたくて日本に行きたいとメールをくれたんだけど、ほんとだったら、うれしい。ほんとかな? 今晩、夢で、きみに会えたらうれしいと伝えた。(ずっと拙い英語でだけど) 笑顔のかわいい子。ぼくの年齢はちゃんと教えたけど、かまわないらしい。だれに感謝したらいいのだろう。やっぱり神さまかな。


二〇一五年六月二十六日 「異なる楽器」


 同じ言葉でも異なるひとの口を通じて聞かされると、違った意味に聞こえることがある。人間というものは、一つ一つ違った楽器のようなものなのだろうか。


二〇一五年六月二十七日 「同性婚」


 友だちのジェフリー・アングルスが彼氏と同性婚した。日本でもはやく同性婚が認められればいいのに。


二〇一五年六月二十八日 「なんで、おばさん好きなの?」


「1杯で帰ろうと思ったとき出会う酒のみ」
ぼくが詩を書いてるって言ったら、いきなりかよ。
「これは、ずれてるよ。」
「ずれてるけど
 ぼくのなかではいっしょ。」
キクチくんとは、あったの2回目だった。
「サイフが不幸。」
これには、ふたりとも笑った。


二〇一五年六月二十九日 「糺の森。」


ぼくが帰るとき
いつも停留所ひとつ抜かして
送ってくれたね。
バスがくるまで
ずっとベンチに腰かけて
ぼくたち、ふたりでいたね。
ぼくの手のなかの
きみの手のぬくもりを
いまでも
ぼくは思い出すことができる。
いつか
近所の神社で
月が雲に隠れるよりはやく
ぼくたち、月から隠れたよね。
形は変わっても
あの日の月は
空に残ったままなのに
あの日のぼくらは
いまはもう
隠れることもなく
現われることもなく
どこにもいない。


二〇一五年六月三十日 「木漏れ日のなか。」


きょうのように晴れた日には
昼休みになると
家に帰って、ご飯を食べる。
食べたら、自転車に乗って
賀茂川沿いの草土手道を通って
学校に戻る。

こうして自転車をこいでいると
木漏れ日に揺すられて
さすられて
なんとも言えない
いい気持になる。

明るくって
あたたかくって
なにか、いいものがいっぱい
ぼくのなかに降りそそいでくる
って
そんな感じがする。

まだ高校生のぼくには
しあわせって、どんなことか
よくわからないけど
たぶん、こんな感じじゃないかな。

行く手の道が
スカスカの木漏れ日に
明るく輝いてる。


二〇一五年六月三十一日 「お母さん譲ります。」


「あのう、すみません。表の貼り紙を見て、来たのですが。」
呼び鈴が壊れていたのか、押しても音がしなかったので、扉を開けて声をかけてみた。
「また、うちの息子の悪戯ですわ。」
不意に後ろから話しかけられた。
女が立っていた。
「悪戯ですか。」
表で見た貼り紙が、くしゃくしゃにされて、女の手のなかで握りつぶされていた。
「どうぞ、上がってください。」
言われるまま、家のなかに入って行った。
「息子さんはいらっしゃるのですか。」
「奥の部屋におりますわ。」
女は、私の履き物を下駄箱に仕舞った。
「会わせていただけますか。」
「よろしいですわよ。」

案内された部屋に行くと、一匹の巨大なヒキガエルがいた。
──ピチョッ、
ヒキガエルの舌先が、私の唇にあたった。
舌先が、私の喉の奥に滑り込んだ。
──おえっ、
──パクッ。
私が吐き出した魂を、ヒキガエルが呑み込んだ。

外は、すっかり日が暮れていた。
「もう何年も雨が降らないですね。」
「雨はみんな、わたくしが食べてしまいましたのよ。」
女はそう言って、新しい貼り紙を私に手渡した。


自由詩 詩の日めくり 二〇一五年六月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-02-13 23:08:36
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