詩の日めくり 二〇一五年四月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一五年四月一日 「少年はハーモニカの音が好きだと言った。」

 これは、『ゲイ・ポエムズ』に収録した『陽の埋葬』の一つに書いた少年の言葉だった。ぼくがまだ20代だったころの話だ。なんで思い出したんだろう。その少年のことで書いていないことがあったからかもしれない。たしかにあった。瞬間のなかにこそ、永遠はあるのだ。でも、まあ、ぼくが54才になったように、その少年も40才まえか、40才ころか、40才をこえたおっちゃんになってるんだろう。きっと、かわいいおっちゃんになってるんだろうけれど。そうだ。ぼくが好きになった子は、みんな、かわいいおっちゃんになってる、笑。下鴨にあったぼくのワンルーム・マンションで、自分の勃起したちんぽこいじりながら、にこにこしながら、ぼくと音楽の話をしてた。「おれ、ハーモニカの音が好きなんですよ。」そか。なんか、頭の先、しびれるよな。酒、飲んでたらな。いまなら、わかるさ。わかるよ。そのあとの展開は、臆病なぼくらしい展開で、ぼくの究極のテーマだと思う。臆病なぼくは手を出すこともできなくて、その子がわざともみしだいておっ立てたチンポコの形を、彼のズボンの上から眺めることしかできなくって、そうだ。そのあとのことを、『ゲイ・ポエムズ』の『陽の埋葬』の一つに書いたのだった。彼はわざと勃起したチンポコのふくらみを見せつけたのだった。

二〇一五年四月二日 「言葉」

 いくつもの言葉を飼っている。餌は言葉だ。文章のなかで飼っている。しかし、ときどき、文章を替えてやらないと死んでしまう。また、余白やリズムを文章のなかに適当に配置してやらなければ、元気がなくなる。それにしても、言葉の餌が言葉だというのは、おもしろい。人間の餌が人間であるのと同様に。

二〇一五年四月三日 「言葉」

 ぼくの作品の主題は、言葉とは何か、だと思っているのだけれど、いまだに言葉というものが、よくわからない。わからないのは、「言葉」の意味が多義にわたるためであるが、名詞の、動詞の、助詞の機能をのみ取り出すと、考えやすくなると思う。名詞あるいは助詞の機能は『順列 並べ替え詩。3×2×1』で、動詞あるいは名詞の機能は『受粉。』でわかったところがあって、たとえば、『順列 並べ替え詩。3×2×1』では、三重メタファーについて、『理系の詩学』において詳しく調べた。『受粉。』でも、多重メタファー的な現象が文体に起こっていることがわかった。あした、ひさびさに、言語実験的な作品をつくろうと思う。失敗作品であってもかまわない。数多くの実験から、これだと思うものが、1作できればいいのだから。数多くの失敗作か。それは嘘だな。ほとんど失敗作をつくったことがないのだから。傲慢かな。いや、事実だ。全行引用詩においても、いろいろわかったことが数多くあるのだが、詳細に語るときがそのうちくるだろうと思う。論考という形ではなく、ぼくのことだから、エッセーのような詩作品のようなもののなかで語ると思うのだけれど。『詩の日めくり』に書くかな。どうだろ。

二〇一五年四月四日 「Are you the leaf, the blossom or the bole?」

 数日まえからはじめた原著の読書は、ぼくのふさぎがちだった気分を、どうやらよい方向に持って行ってくれているようだ。食事をしたあとに、バッド・カンパニーのセカンド・アルバムをかけながら、本棚の端にもたれて、イエイツの LEDA AND SWAN とAMONG SCHOOL CHILDREN を読んで、ぼくが大好きな詩句を見つけた。 AMONG SCHOOL CHILDREN のⅧにある、 Are you the leaf, the blossom or the bole? とHow can we know the dancer from the dance? である。出淵 博さんの訳では、「お前は葉か? 花か? それとも幹か?」、「どうして踊り子を舞踏と区別できようか?」となっているのだけれど、なんとシンプルな言葉で、ぼくをどきどきさせる、スリリングな言葉かなと思った。きょうは、この詩から栄養を補給するために、何度も読み直そうと思う。そういえば、この詩のなかには、いつか、ぼくが引用した、ぼくが深く驚き、かつ、重くうなずかされた言葉もある。ふと思い出した。この詩は、エリオットがイエイツを再発見したときの詩だったことを。ちょっと感傷的になっているのかもしれない。翻訳を読んでいたら、涙ぐんでしまった。なんてやさしい言葉で深いことがらを表しているのだろう。きょうはこれだけを読んで過ごそう。ぼくが引用した2行。それぞれ、そのまえの行を引用しないとダメだった。ぼくの目が局所的だったことを反省。

O chestnut-tree, great-rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening grance,
How can we know the dancer from the dance?

出淵 博さんの訳では

ああ、マロニエの樹よ。巨大な根を下し、花を咲かせるものよ。
お前は葉か? 花か? それとも幹か?
ああ、音楽に合せて揺れ動く肉体よ。ああ、きらめく眼差(まなざ)しよ。
どうして踊り子を舞踏と区別できようか?

高松雄一さんの訳では

おお、とちの木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお輝く眼(まな)ざしよ、
どうして踊り子と踊りを分つことができようか。

小堀隆司さんの訳では

ああ 栗の樹よ、深く根を張りつつ花を咲かせるおまえよ
おまえは葉なのか、花なのか、それとも幹なのか。
ああ 調べに揺らめく肉体よ、きらりと輝く眼差しよ、
いかにして私たちは舞踏する者とその舞いを見分けられようか。

マロニエの木と、栗の木と、橡の木とが同じものだということを、はじめて知った。chestnut-tree の訳の違いで。AMONG SCHOOL CHILDREN、ぼくには難しいところを異なる訳で勉強しようと思う。わかりやすいと思ってたのに、わかりにくいところがいくつもある。深いっていうのは、こういうものなのかもしれない。あるいは、ぼくの英語力が極端に貧しいからか。ふと思いついてはじめた 20TH-CENTURY POETRY & POETICS (OXFORD UNIVERSITY PRESS) の読みだけど、おもしろい。やみつきになってしまうかもしれない。800ページ以上あるから、一日に1ページか2ページくらいしか読めないだろうから、数年の習慣になるかもしれない。習慣になれば、いいのだけれど。死ぬまでに読み切れないほどの洋書を買っているから、死ぬまでの習慣にできれば、さらによい。

二〇一五年四月五日 「神さまのおしっこ」

雨の音がすごい。寝れへん。神さまのおしっこ、すご過ぎ!

二〇一五年四月六日 「未収録メモ」

「愛は点であり、真理は点であり、道は点である。」と6月の日記に書いたが、ダンテの『神曲』を読み直していると、「点とは神のことである」とあり、ドキッとしたのであるが、そういえば、「偶然とは神である」と芥川龍之介も書いていて、偶然をひっつかまえて、あるいは、偶然にひっつかまれて、詩をつくるぼくは、ふと、神さまの襟元を両手でつかんで振り回す自分の姿を、そして、神さまに胸元をつかまれて振り回される自分の姿を目に浮かべた。(2014年10月25日のメモ)

 アナホリッシュ國文學の『詩の日めくり』で「病気になるのも悪くない」というタイトルで一項目を書くこと。膝の痛みについて書く。「病人というものは、健康な人が見逃したものに気づくものだよ」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』21、岡部博之訳)これに似た言葉をトーマス・マンも『ファウスト博士』のなかに書いていた。以前に論考のなかに引用したことがある。「健康でないからこそ、健康なひとが気づけなかったことに気づくことができる」というような言葉だったと思う。ところで、もしも人間の肉体がずっと健康で、ずっと若くて、けがや病気をしてもすぐに治ってしまうのなら、人間は、自分の肉体をぜんぜん大切にしないだろうと思う。痛みがなければ、なおさらのことだろう。ひとが、ひとのことを気づかうのも、何がきっかけで相手が機嫌を損ねてしまうか、自分から離れてしまうか、わからないからかもしれない。もしもどんなにひどいことを言ったり、したりしても、ひとが機嫌を損ねたり、自分から離れたりすることがないのだとしたら、ひとは、他人に気づかうことをしなくなるだろう。(2014年5月20日のメモ)

 あなたは渇いている。あなたは頭の先からつま先まで渇ききっている。あなたの指が水に濡れたとしたら、その指の皮膚の表面から、ただちに水を吸収してしまうだろう。あなたは渇いている。あなたの指が本のページに触れると、本のページからたちまち水分がなくなってしまう。あなたの指が本のページのうえをすべると、その摩擦熱で、本のページが渇ききってしまう。あなたの身体はその摩擦熱を溜めこむ。やがて、あなたの身体は発火点に達して、燃え上がってしまうだろう。(2014年5月31日のメモ)

 言葉と言葉のセックス。言葉にも、親があり、子があり、友があり、恋人がある。親戚もあれば、赤の他人もある。さまざまな体位でセックスする言葉たち。近親相姦もあれば、同性愛もある。きつい体位というものを、ぼくはしじゅう考える。奇形的な体位をしじゅう考える。(2014年5月19日のメモ)

きみの身体から完全に出て行くまえに、言っておくよ。
きみは、よくがんばった。
それほど愛にめぐまれた家庭に育ったわけでもないのに
人生の終わりのほうでは
人を愛することができるようになっていたね。
愛されて育てられていたら
もっとわかいときから感情のバランスもとれてただろうし
違った人生だっただろうけれど
終わりよければ、すべてよしなんだよ。
さいごが、すべてさ。
ああ、たくさんの魂が混じりはじめた。
きみから離れるよ。
さようなら、ぼくよ。
(2010年1月24日のメモ)

二〇一五年四月七日 「ケイちゃん」

 目が覚めた。泣いてしまいそうなくらい、いい夢を見た。田舎で家族と暮らしてるんだけど、なぜかタイプの若い子がぼくの部屋に泊まっていて、隣の部屋にママンがいて、ぼくたちはテーブルをはさんで、あしをからませて、おちょけていたんだけど、つぎの瞬間は、就寝シーンで、彼がぼくのうえから、ぼくの身体のうえにおっかぶさるようにしてたのだった。そしたら、つぎの朝のシーンで、田舎の行事の餅つきをしていたのだった。彼も手伝ってた。これって、へんな夢だよね。いま恋人いないけど、できるってことかな。それとも、夢のなかでなら幸せってことなのかな。ちなみに、その彼って、ぼくが21才のときに付き合った、2つ年上の23才のケイちゃんにそっくりだった。ぼくもきっと、夢の中では、若かったんだろうね。ママンも若かったから。田舎の家ってのも、なんだかだった。なにを暗示してるんだろう。いいことあるかなあ。

二〇一五年四月八日 「表紙の絵」

 3つの本棚の4つの棚の本を並べ替えていた。本の表紙の絵にみとれること、しきり。ぼくはやっぱり画家になりたかったのかな、と、ふと思った。でも、詩も好きだし、小説も好きだし、音楽も好きだけどな、とも思った。本棚を整理するときに、アンソロジーだけの棚をつくったのだけれど、再読したい気持ちバリバリになるんだね。収録されているすべての作品がいいわけじゃないけど、いいものがやっぱり入ってることが多くて、背表紙みただけで、ドキドキする。もしかすると、ぼくは本と結婚しちゃったのかもね。

二〇一五年四月九日 「猫にルビ」

 仕事帰りの通勤電車のなかでは、『ナイト・フライヤー』のつづきを読んでいた。レトリックで学ぶべきところはあったのだけれど、日本語の文章にはなじみのないものだった。ぼくの文学経験で、これまでに2度、出合っただけのものだった。「ミリアムはねこと遊びながら、自分の考えにふけった。猫も想像力も、今夜はおとなしくしていた。」(クライヴ・パーカー『魔物のみち』酒井昭伸訳)酒井昭伸さんの訳は好きな部類なんだけど、「猫」にルビ振るのは勘弁してほしいなと思った。

二〇一五年四月十日 「衣紋掛け」

 服に衣紋掛けがあるんだったら、こころにも衣紋掛けがあってもいいのになって、ふと思った。

二〇一五年四月十一日 「何度も同じ本を買う」

 きれいな状態だという説明なので、アマゾンで、フィリス・ゴッドリーブの『オー・マスター・キャリバン!』を買った。これで買うの3度目だ。きのう、きれいなカヴァーをみたからだと思うけど、ぼくは古書マニアでもないのに、カヴァーのためだけに、同じ本を何度も買ってしまう病気なのだと思う。癒しがたい病気だな。むかし付き合ってる子に、同じ本を5回買ったときに、もうこれ以上、同じ本を買ったら別れると言われた。そう言ってくれたのは、やさしさからだったと思う。後日、到着した本のカヴァーがきれいじゃなかったら、思い切り放り投げて破り捨ててやろうと思う。病気か、狂気かな。狂気の病気か。いま読んでる『ペルセウス座流星群』に出てくる少年は貧しくて、好きな本を買うこともできずにいるのだった。同じ本を、何冊も買って、カヴァーのよりよい状態のものを並べて眺めているのが趣味のぼくなんて、なんて罪深いのだろう。といっても、治る病気ではなさそうだ。まあ、カヴァーの状態のよりよいものを、ということなら、もう買い求めるSF文庫本はないのだけれど。

二〇一五年四月十二日 「another voice of green」

 another voice of green という言葉を思いついた。ネットで検索しても出てこなかったので、記憶していた詩句の一部であったり、曲名からのものではなかったようだ。イーノのアルバムに『アナザー・グリーン・オブ・ザ・ワールド』ってのがあったようには思うが。緑の別の声か。green には the をつけて、「緑なるもの」って感じにしたほうがよいかもしれない。another voice of the green。the がないほうがいいかな。音的にはないほうがよい。いや、あったほうがよいかな。そのうち、作品に使おう

二〇一五年四月十三日 「(もと)友だち」

 帰りに、大学と、大学院時代にいっしょだった(もと)友だちとばったり。「あんまり変わらへんな」と言うので「おんなじ人間なんやから、そら、ぜんぜん違うひとには、ならへんで」と返した。あたりまえのことを言って、なにがおもしろいのか、ずっと笑っておった。まあ、笑いは健康にいいし、いいか。

二〇一五年四月十四日 「落穂ひろい」

落穂ひろいに行こう。ぼくが落ちてるところに。

二〇一五年四月十五日 「オー・マスター・キャリバン!」

『オー・マスター・キャリバン!』到着。持っているものと、あまり変わらないきれいさだったので、ギーって感じ。2冊の本の表紙を眺めながら、SF文庫の表紙のかわいらしさについて考え込んでいる。1000円以上も払って、同じくらいのきれいさか。なんだか、ギーって感じで発狂しそうな気がする。

二〇一五年四月十六日 「古代の遺物」

 ジョン・クロウリーの『古代の遺物』を読もうか。また読むの途中でやめなきゃいんだけど。ジョン・クロウリーの作品はよいのだけれど、改行はほとんどしないし、会話もほとんどないし、読むのがとても苦痛なのが難なんだよね。さいしょの短篇、「古代の遺物」も、2番目に収録されていた「彼女が死者に贈るもの」も読みやすかった。『リトル、ビッグ』みたいにギューギュー詰めじゃなかった。短篇だからかな。ちょっと球形したら、読書を再開しよう。3作目の「訪ねてきた理由」が、わからない。さいごの2ページが、記述的に不統一感が強くて、どう解釈していいのか、わからない。表現主体はヴァージニア・ウルフではないはずなのに、さいごの2ページがヴァージニア・ウルフの述懐のようなものになっているからである。2度読んでも理解できない。こう解釈すればいいのだろうか。ヴァージニア・ウルフが、自分のつくろうとしている作品の登場人物の家に訪ねに行く話を書いていて、途中で、自分をその作品の登場人物だと思って、その登場人物から見た自分自身を書いていて、自分がその登場人物の家から帰ったあと、そのつづきを書くのをやめて、自分がその文章を書いたあとに、ただ思いついたことを、書いているのだと。そうでも解釈しないと、ちんぷんかんぷんである。新人の作家がこんなものを書いてきたら、たぶん、ふつうの編集者は突き返すだろうと思うけれど。ぼくなら返す。この短篇のために、神谷美恵子さんの『ヴァジニア・ウルフ研究』(みすず書房)を本棚から取り出して、ウルフの伝記を調べた。神谷さん、音を省略する癖があって、夫の名前もレナド・ウルフ。4つ目の短篇「雪」は、よかった。『エンジン・サマー』で使われたSFガジェットが使われている。短篇のほうがさきに書かれたのかもしれない。記憶については、たしかアウグスティヌスの書いたものがさいしょのものだったと思うけれど、はなはだ興味深いものである。5つ目の短篇「メソロンギ一八二四年」は、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を髣髴させた。詩人のバイロンが表現主体である。傑作だと思う。この作品では、バイロンがゲイの設定だけれど、史実かどうかは、知らない。というか、どうでもよいが、とても自然な感じだ。ジョン・クロウリーの短篇集『古代の遺物』、あと1つで読み終わる。意外と読みやすいものだったので、そのところに、多少驚かされる。さいごの1篇は、ちょっと長い。シェイクスピアものなので、興味深い。まだ読んでいる途中なのだけれど、「シェイクスピアのヒロインたちの少女時代」に、シェイクスピア=ベーコン説が出てくるんだけど、数か月前に読んだ『シェイクスピアは誰だったか』(R・F・ウェイレン著)を思い出した。

二〇一五年四月十七日 「音楽のからだ」

「音楽のからだ」という言葉を、ふと思いついた。いちばんなりたかったのが、作家だったのか、音楽家だったのか、画家だったのか、ときどき、わからなくなる。もしかすると、詩人って、そのどれでもあるのかもしれないけれど。

二〇一五年四月十八日 「健在意識」

 あ、健在意識って書いてた。顕在意識だった。そこらじゅうに誤字をまき散らしてる感じだな。くわばら、くわばら。

二〇一五年四月十九日 「軽くチューして、またね。」

 まえに付き合った男の子が部屋に遊びにきてくれた。ちょこっとしか寄る時間がないけどって言って、ほんとに5分で帰って行った、笑。おいしそうな調理パンを2個くれて。「いま食事制限中なんだけど」「ふだん無茶食いするからやんか」「これありがとう」「お昼に食べたら」軽くチューして、またね。

二〇一五年四月二十日 「全財産」

 部屋のなかで、こけた。本棚に手をかけてしまって、ひとつの棚が外れて、本が落ちた。棚を直して、本を元の場所に戻した。キッチン寄りの本棚だからか、本がちょこっと湿気てたような気がする。まあ、本など、しょせん消耗品なのかもしれないのだけれど。それが、ぼくの全財産だ。業だな、きっと。

二〇一五年四月二十一日 「きょうのブックオフでのお買い物。CD1枚。レオン・ラッセル」

950円だった。
1000円以上だったら、200円引きだったのだけれど。
ア・ソング・フォー・ユー
ハミングバード
が入ってるやつね。
むかし
中学くらいのとき
鬼火
って、こわいカヴァーのものを買ったけど
よさが、わからなかった。
いまの齢で
ようやく
こころに沁みるようになったって感じ。
太秦のブックオフまで
自転車で。
帰りに
屋根に
ブルーのかわらの
屋根に雪が
そしたら
目の前に現れた
車の前にも雪がのっかってた。

きのう
雪が降っていたことを思い出した。
ほとんど部屋を出ない生活をしているから
天気のことを
すぐに忘れてしまう。
雪を見てると
水盤の上に浮かんだ
花が
花が水のうえで
ぷかぷかと浮いているイメージが思い浮かんだ。
自転車に乗りながら
そしたら
花が葉っぱになって
20年くらいむかしかな。
嵐の夜に船が沈没して
つぎの日の昼に
とてもきれいに晴れた
つぎの日に
おだやかな
きらきらと陽にかがやく
水面のうえに浮かんだ水死体が
からだを

の字にまげて
うつむいて
たくさん浮かんでいて
青いTシャツを着た青年の水死体とか
黄色いスカートを履いた女性の水死体が揺れていた。
さまざまな色の
きれいなシャツや
スカートが
水面にぷかぷかと
ああ
きれいやなあと思った。
ぼくも
あの水死体のように
海のうえに
ぷかぷかと浮かんでいたいな
って思った。
海に浮かんだ
水死体の頭が一つ、動いた。
ぼくは、死んだ目で
テレビ画面を見つめるぼくに目をやった。
テレビ画面のきらきらと輝く海が
ぼくの瞳に映っていた。
その瞳の中心に、ぼくを見つめるぼくがいた。
ぼくのなかに
ぼくの胸のなかに浮かんだ
いくつもの水死体。
花であり
葉っぱであり
幹や
根っこであり
水そのものでもある
ぼくの胸のなかで
ときどき暴れては大人しく眠る
いくつもの水死体たち。
自転車をこいで
途中で
フレスコで
お昼のおかずを買って帰った。
雪だったのね。
きのう。
そういえば
暗い夜にマンションを出たとき
雪が降って
つめたい雪が
顔や手に落ちてきたことを思い出した。
ぼくの胸のなかに降る
冷たい雪たち
ぼくの胸の暗い夜のなかに
降る
ハミングバード。
ア・ソング・フォー・ユー。

二〇一五年四月二十二日 「きみの永遠は」

枯れることのない笑顔が花にある。

二〇一五年四月二十三日 「ディキンスンとホイットマン」

「原子(atom)」という言葉が
ディキンスンとホイットマンの詩に使われていて
これは、おもしろいなと思った。
それというのも、当然、二人が原子論を知っていたからこそ
二人がその言葉を使ったのであろうから
ある言葉の概念が、二人のあいだで、おおよそどのように捉えられていたか
知ることができるし、共通して認識されていたところと
二人によって、異なる受けとめ方をされているところもあると思えたからである。
ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で
ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で
ホイットマンのほうがディキンソンより
十年ほどはやく生まれ、5,6年ほど遅く亡くなったのであるが
「原子(atom)」が出てくる箇所を比較してみる。
まず、ディキンスンから

Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!

すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
(作品六六四番、新倉俊一訳)

ホイットマンの詩では、『草の葉』のなかでも、もっとも長い
『ぼく自身の歌』の冒頭に出てくる。

I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.

ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。

ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。

ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶とだえぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。

あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)

ホイットマンのほうは、語意がそのまま使われていて
ディキンスンのほうは、より象徴性を含ませた表現になっている。
たまたま、「原子(atom)」が使われている詩を読み比べてみただけだけど
男性性と女性性の違いをはっきり感じ取れた。
これは、一つの単語で、そういうふうに思ったのだけれど
多くの言葉の受容と表現において、男性性と女性性の違いが見られるような気がする。
これは、この二人の詩人に限ったことなのかどうかは、ぼくにはわからないけれど
また、一つの単語で比較しただけだけど
たまたま自分で出した例に、自分で感心するのも変に思われるかもしれないけれど
感心してしまった、笑。
いろいろなことが見えてくるなあ。
いや、いろいろなことが、こう見させているのか……。

二〇一五年四月二十四日 「『Still Falls The Rain。』に引用する詩句の候補その他 1」

あまりに長いあいだ犠牲に耐えていると
心が石になることもある。
ああ、いつになれば気がすむのだ?
それを決めるのは天の仕事、私らの
仕事はつぎつぎと名前を呟(つぶや)くこと。
(イェイツ『一九一六年復活祭』高松雄一訳)

波が浜辺のさざれ石めがけて打ちよせる
(シェイクスピア『波が浜辺に打ちよせるように』平井正穂訳)

胸の奥ふかく、いつも離れぬその波の音をきく。
(イエーツ『インスフリー湖島』尾島庄太郎訳)

あのみぎわの波の音がきこえてくる。
(イェイツ『インスフリー湖島』尾島庄太郎訳)

  〇

ばらばらにしか天国は存在しない
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

そういえば、地獄だってそう。
だって、人間、ひとりひとりが、天国であり、地獄なんだもの。

  〇

須磨の源氏、
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

規則を破ったこの人たちにみられる
愛のわざこそ最も価値がある
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

すべては光である
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

「交わりは光りを生む(イン・コイトウ・インルミナチオ)」
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
(『創世記』第一章・第三節)

すべて在るものは光りなり
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。
(『出エジプト記』第三章・第十四節)

  〇

かくて光は雨となって降る、かくして注(そそ)ぐ、その中に雨をもった太陽、
(エズラ・パウンド『詩篇』第四篇、岩崎良三訳)

光りの光りにこそ真の徳がある
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

ばらばらのものがいまいちど寄せあつめられた。
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)

幸運は続かないことをすべてのものが語っている
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十六篇、新倉俊一訳)

雨もまた「道」の一部
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

風もまた「道」の一部
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

離れられるものは「道」ではない
(エズラ・パウンド『詩篇』第七十四篇、新倉俊一訳)

  〇

It was the night of the Ghost
(Jack Kerouac, On the Road, PART ONE-14. p.104)

このあとアッシュベリーの Dream の詩句を引用すること。
あるいは、聖書の霊が出てくるところを引用すること。

  〇

なぜカメなんて呼ぶの、カメじゃないのに?
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』第九章、高橋康也・迪訳)

二〇一五年四月二十五日 「『Still Falls The Rain。』に引用する詩句の候補その他 2」

この寒さでは、雪も白さに、ふるえていることだろう。
なんども語ってきたが
子どものころに、ぼくが、いちばんなりたかったのは、画家だった。
ぼくは、白い絵の具を、いちばんよく使っていた。
いつも、白い絵の具をたくさん、ほかの色を少し混ぜたものを
パレットにこしらえて描いていたのだけれど
中学の美術教師は、わかってくれていたが
高校の美術教師には、さんざん嫌味を言われて辟易とした。
絵をつづけていたら、いまよりもっとひどいことを言われるような気がする、笑。
小学校の6年生のときに、市の主催する絵画コンクールで賞を獲ったことが
いちばんの理由じゃないと思うけれど
というのは、小学校にあがる前から
家じゅうのいたるところにマジックでいろんな模様を描いたりしていて
あの父親は、芸術だけには、奇妙な趣味があったので
ぼくのそんな行為を叱ることはなかったのだけれど
父親の絵や写真や映画の趣味の影響もあるのかもしれない。
しかし、市のコンクールで描いたぼくの絵は
いまのぼくの視点と、そう変わらないものだと思う。
動物園で写生したのだけれど
ぼくは、動物園の飼育係のひとが
豹の檻を洗っているところを見つめ
そのあと豹が入れられて
檻のなかの床のくぼみに
まんなかのコンクリートの水溜りのはしっこに写った豹の顔を右端に
塗れて光った水溜まりを中央にして描いたのだった。
この寒さでは、雪も白さにふるえていることだろう。
あの檻のなかの水溜りも、水溜りに写った豹の顔もふるえていることだろう。

  〇

みんなが見ているまえで
ケーキを切り分けるみたいに
ぼくはピリピリしていた。

  〇

病院の入り口の手すりに椅子が鎖でつながれている。
ステンレスの手すりに、ちょっと上質の背もたれのついた藤色の椅子。
霧状の犬が、目の前を走り抜けた。
藤色の椅子に、ぼくは腰を下ろした。
ぼくの視線も、病院の手すりにつながれたままだ。

  〇

みんな憶えているかな
(佐藤わこ『ゴスペル』)

振動している
(佐藤わこ『ゴスペル』)

  〇

人間は誰も知らない、その瞬間が来て
水がいま湧き出したと思ふと、すぐその瞬間が過ぎてしまふ
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

いったいこの試練はなんだろう
(佐藤わこ『ゴスペル』)

智慧あるものぞにがきいのちを生くる
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

水の湧き出す音がした、水が出る、水が出る
(イエーツ『鷹の井戸』松村みね子訳)

  〇

Was it a vision, or a waking dream?
(John Keats. Ode to a Nightingale)

私は幻を見ていたのか、それとも白日夢を?
(ジョン・キーツ『夜鳴鶯の賦』平井正穂訳)

  〇

どこにも逃げ場はない
(佐藤わこ『ゴスペル』)

逃れる道はないのだ。
(イエーツ『自我と魂との対話』2、御輿員三訳)

  〇

すべてのものは、慣れると色せてしまう。
(ジョン・キーツ『いつも空想を さまよい歩かせよ』出口泰生訳)

  〇

韓国ドラマで、『魔王』というのがあって
とてもおもしろかったので、10枚組みのDVDを
ブックオフで、16000円くらいだったかな
買ったのだけれど
そのなかのセリフに
evil(悪意)を逆さに読むと、live(生きる)になるっていうのがあった。
もちろん、これは
evil(悪意)⇔ live(生きる)
って、ことなんだろうけど
感心しちゃった。

  〇

Direct treatment of the“thing,”whether subjective or objective.
(Ezra Pound. VORTICIZM)

主観・客観をとわず、「物」をじかに扱うこと。
(エズラ・パウンド『ヴォーティシズム』新倉俊一訳)

It is better to present one Image in a lifetime than to produce voluminous works.
(Ezra Pound. A RETROSPECT・A FEW DON'T)

だらだらとながい作品を書くよりも、生涯にいちどひとつのイメージを表現する方がいい。
(エズラ・パウンド『イマジズム』イマジストのいくつかの注意、新倉俊一訳)

  〇

Oh. Excuse me. Bye bye.
(John Ashbery, Girls on the Run. IX, p.19)

さようなら。空想は 人を欺くエルフのように
あまりに巧みには 欺くことができぬのだ。
(ジョン・キーツ『夜鳴鶯に寄せる歌』8、出口泰生訳)

  〇

このあいだ
源氏物語の英訳を読んでいて
あまりにバカな読みをしてしまった自分がいた。
A light repast was brought.

「過去に照らされた光が、ふたたびもたらされたのだ。」
と読んだのだ、笑。
「軽い食事が出た。」
なのにね。
すごい英語力だわ、ぼく。
ああ、ぼくには限界がある。
ぼくの能力には限界がある。
この英語力のなさ。
しかし、この限界が
ぼくを駆動させる。
この限界が
限界があるということが
ぼくを目覚めさせる、躓きの石なのだった。

二〇一五年四月二十六日 「意味」

ときどき、本棚の本を並べかえることがある。
さいきん、SFに飽きてきたので
いちばん目につくところから、どけたのだけれど
そうして本の場所をかえているときに
ふと、思った。
「部屋の意味が変わる」
と。
そこから、いくつかの
小作品を思いついた。

  〇

日知庵に行った。
「いつもの意味ちょうだい。」
「ごめん。
 いつもの意味、きょう、ないねん。」
「じゃあ、ほかの意味でもいいけど
 いつもの意味に近い意味のものにしてね。」
「あいよ。
 じゃ
 ちょっと、いつもの意味と違う意味のものを。」
ぼくの意味は、渡されたおしぼりの意味で、手の意味をふいた。
「きょうの意味を書いておいたから
 そのなかから好きな意味を選んでよ。」
ぼくの意味は、品書きの意味の黒板の意味を見た。
「うううん。
 右の意味から2番目の意味のものがいいかな。」
「あいよ。
 右の意味から2番目の意味ね。」
「それより、はやく、意味ちょうだい。」
「あいよ。
 お待ちぃ。」
ぼくの意味は
ちょっと、いつもの意味と違う意味のものに、目の意味を落とした。

  〇

この意味と
その意味と
あの意味を与えてやってください。
まだ、その年齢の意味では
並べて遊ぶだけで
この意味や
その意味や
あの意味をこわしたりすることはないと思います。
ある程度、意味は変形はするかもしれませんが
その年齢以上の意味ではないので
この意味や
その意味や
あの意味を破壊するまでには至らないと思います。
ぼくもその年齢の意味のころは
よく
この意味や
その意味や
あの意味を並べかえて遊んだものでした。

  〇

鳩の意味が
公園の意味のなかの意味に
いく羽かの意味において
地面の意味のうえの意味で
動いていた。
しじゅう
鳩の意味の一部の意味は
鳩の意味の鳴き声の意味に変化した。
ぼくの意味のまえの意味を
ひとつの意味の影の意味がすばやく走った。
いち羽の意味の鳩の意味を
その大きな意味のかぎづめの意味で、ひっつかむと
いち羽の意味の鷹の意味が飛び去っていった。

  〇

水槽の意味のなかを
魚の意味が泳いでいる。
子どもの意味の
小さな意味の手の意味が
水槽の意味の
ガラスの意味に触れている。
意味がはねて
水の意味がふりかかって
きゃあ、きゃあ
さわいでる。

  〇

ぼくは、きょう、本棚の意味について考えて
部屋の意味について考えて、うえに掲げたものを考えついた。
書き終えてから気がついた。
呼吸ひとつするあいだ
いや
瞬間、瞬間に
物理化学的に
ぼく自身が変化しているのだから
なにもしないでも
部屋の意味も変わっているはずだということに。
そうだった。
何ものも変化することをやめない
というのが不変(かつ普遍)の法則だったはずだと。
ううううん。
もうクスリのんで寝なくちゃ。

あしたから、通勤電車や勤め先で書いたメモを書き込まなきゃ。
きのう、きょう、ひとつも書き込めなかった。
たまってるぅ。

二〇一五年四月二十七日 「緑の吉田くん」

べつに、こびとでも
巨人でもない
ふつうサイズの吉田くん。
ただ緑なだけで。
することなすこと緑なだけで
そんなところで
緑にすることはないじゃないかってところまで緑なの。
でも
吉田くんが
教室に入ると
たちまち緑になる。
赤かった池田さんも
紫色だった佐藤くんも
黄色だったぼくまで
たちまち緑になって
池田さんの手の先に緑色の小鳥がとまる。
佐藤くんの手の椀に緑色の小魚が泳ぎ出す。
ぼくの胸のなかに緑の獣が走り出す。
教室中が緑になって
天上がなくなって
壁がなくなって
みんな緑になって
笑い出した。
きらきら光る
太陽光線を浴びて
みんな緑になって
笑ってる。
嘘なんて、ついてないよ、笑。
ただ、みんなで、笑ってるだけさ。
let's love together
love & peace
love conquers all
seasons of love
it's green
it's green

二〇一五年四月二十八日 「アクタイオーン」

悪態ON
じゃなかった。
アクタイオーン
ケンタウロスのケイローンに狩猟の手ほどきを受けた
アクタイオーン
カドモスの孫
アクタイオーンが
尊い女神のアルテミス、
ディアーナのもろ肌を見たため
呪われて鹿となり
自ら連れ出していた五十頭の猟犬たちに咬み殺された
アクタイオーン
きみは教えてくれたんだね。
女神のもろ肌を見たせいで鹿にされて
自分の犬に皮膚をずたずたに引き裂かれて死んだ
アクタイオーン
茂みから、ふいに飛び出してきた鹿を見ることは
自分を見ること。
鹿を見ることは、自分を見ること。

そもそも、見るとは、自身を省みること。
自らを引き裂き、統合すること。
事物・事象との遭遇は、その契機となるもの。
プロティノス的な見地に立つと、当然、そうやった。

ぼくは、アクタイオーンであって
アルテミスであって
猟犬でもある。

ぼくの目は、ある何ものかに惹きつけられる。
ぼくの目をとめる事物や事象。
ぼくのなかにその事物や事象がはじめからあったことに気づくぼく。
ぼくは自分のなかにある、
それまでそんなものがあったなんて思ったこともないものを
じっと見る。
長い時間、見つづける。
いろいろな時間から、場所から、出来事から
それを見る。
それを見つづける。
やがて、それが、ぼくを引き裂く。
ぼくの目は、引き裂かれた自分の皮膚を見つめる。
流れ出たおびただしい血を吸い込む地面も、また、ぼくなのだった。

がくんとなった小舟から見上げた岩頭の藤の花の美しさ。

茂みから、ふいに飛び出てきた鹿。

むかし、付き合ってた子と
奈良公園に行ったら
夕方だったけど
鹿がいた。
暗闇に近い薄暗がりから
ぎゅっと頭を突き出す。
鹿って、大きいんだね。
「こわ~。
 鹿って、こんなに大きかった?」
「ほんまや。
 大きいなあ。」
「鹿せんべい、持ってへんから
 怒っとんのかな?」
「そうかも。
 はよ、帰ろう。」
ぼくたち、ふたりは、 我が物顔で道路にまで出てきて威嚇する鹿たちから逃げた。
まっ、車だったから、車に戻って帰っただけだけどね~、笑。

自己分析は、古い自我の破壊を招くので
ときどき、ぼくは、自分を見失いそうになる。
体調まで崩してしまうことがある。
30代には、記憶まで混乱してしまったことがある。
正気でいつづけるのは、ほんとに難しいことだと思った。

ぼくは、巻物になりたいのかもしれない。
くるくる回されて、ほどかれたり
またくるくる巻かれて、ぎゅっと紐で締められたい。
そんなことを、ふと思った。

それともミイラになりたいのかしら? 笑
ほどいたり、巻いたりする手が自分であるというのが
ぼくの場合、痛い感じなのだけれど。
シュル、シュル、シュルッ!
キュッ、キュッ。
ドボンッ→

二〇一五年四月二十九日 「自分だけの言葉」

ぼくは子どものころ
自分だけの言葉をしゃべっていたようです。
親が外国の音楽が好きでしたので
家でかかる音楽は、シャンソンや、ラテンのポップスばかりでしたから
その音楽で育ったせいか
意味もわからない単語を
いえ、単語ではないですね
言葉? でもないですね。
よくつぶやいていたものです。
はずかしいですね。
いまでも、しじゅう
鼻歌を歌いながら歩いています。
ときどき歌ってもいるみたいです。
あぶないジジイですね、笑。

二〇一五年四月三十日 「祖母」

そこで、祖母は、火箸を灰のなかに突き入れて
ぼくの目を見つめたのだった。
クシクシと乾いた音をたてながら
動かされた炭は
火の粉を散らして輝いていた。

二〇一五年四月三十一日 「ノイズ」

だれかがノイズになっているよ。
こくりと、マシーンがうなずいた。




自由詩 詩の日めくり 二〇一五年四月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-01-31 23:17:23縦
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