善行についての疑問
道草次郎

ああつらいと叫ぶ。そうすると、どうした!と駆けつける。一回や二回なら駆けつける。それがずうっとつづくとする。その場合、駆けつけないこともある。叫んだ人間はその事で相手をなじるかも知れない。そしてなじられた人間は、やがて相手を憎むようになる。いつか殺してしまうかもしれない程にだ。この場合、どちらも相手に期待し自分にも期待している訳だが、自分への期待に強く苛まれるのはどちらかというと駆けつけた人間の方だ。

つまり、善行は小さいほどいい。それを言いたかった。なぜならそれは負債だから。そういうことは近所の気のいいおじさんなら大抵知っている。

ぼくはニーチェを全然知らないのだが、ニーチェはこの先の境地の事を何か書いているのだろうか。単純な疑問である。ツァラトゥストラを読むというのは、どの位置にいるという事なのだろう。

そして、こうした関心の萌芽を突き詰めて考えていくことは、どういう事だろう。たくさんの古典には人間が生きている。それは、たいへん美しい事だが、美しい事以上の何なのだろう。

書物はどれもこれも焼失の可能性を秘めるが故にうつくしい。うつくしいものは、うつくしい限りにおいて自らに遍満する空の痣だ。しかし、それ以上を望まないのも美だ。美の節度はたいへんなもの。

書物を読むこと、横糸。生存、縦糸。どのようなタペストリーが?

我々が人間をやめる日は、いつ到来するのか。


散文(批評随筆小説等) 善行についての疑問 Copyright 道草次郎 2021-01-30 10:04:36
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