過去から歩いてきた血液 他一篇
道草次郎

「過去から歩いてきた血液」

十四の頃眠れず、深夜に目覚まし時計の強化プラスチックの蓋を無理やりこじ開け、中の秒針をもぎとった。その時不用意に人差し指の腹の部分を切ってしまい、少なからず失血があった。血は滴り、数字の5と6の間の溝にまで達した。些か狼狽えたものの、三枚重ねのティッシュを湯に濡らしいまだ鮮血状態の血液を拭った。指にも傷絆創膏を貼った。しかし、どうして拭き切れず溝には赤黒いシミが残ってしまった。今も残っている。黒い点として今、眼前にある。物置の工具箱をひっくり返し一番鋭利な錐を持ってこよう。黒い点目掛けて突き刺すのだ。慎重を期してこそぐ様に打刻する。すると、1ミリの何分の一かの微かに赤みがかった黒い細片がとれる。それをピンセットでつまんでチャックの付いた透明なビニール袋に入れる。厳重に封をして封筒にしまう。封筒の宛名はどこかの科学調査機関。依頼項目は成分分析。分子的構造をなるべく詳細に。そして、返信用筒がとどく。一連の化学式と無機質な専門用語の羅列。その化学式の情報をまた別の機関へファイル送信。その機関の名は「ネット3Dプリンターサービス」。やがて宅配便がとどく。入っているのは、例の化学式をそのまま立体的に造形したチタン製の模型。その模型を自室中央のテーブルの上におく。そして全裸となり、マサイ族のTwitter仲間から国際便で譲り受けた槍を手にし、延々と朝が来るまで祈祷のダンスに没入する。オーストラリア大陸ほどもある巨大な彗星が地球の大気層を今まさに燃やさんと齧りつきつつあるのを睥睨しながら。


「コタツのソラリス学」

ジャスコへ行かなきゃ…ジャスコへ行かなきゃ…。みんな何故かそう囁くのだ。コタツは長方形。一辺につき一人の計算だ。擬似父、擬似母、擬似兄、擬似自分がそれぞれ首まですっぽり窄まっている。こたつの中はまるで蛸壺。蛸脚の戦争みたいだ。「ねえ、とおさん、だって南西の空にはもう彗星が尾を引いてるよ。何でこんなアルマゲドンな日なのにジャスコへ買い出し行くことなんか気にするの?」「なあ、お前。これは夢なんだよ。いや厳密にいえばお前の創作なんだ。だから、お前はそういうことを気にするのだし、あの彗星がもたらす破滅や、家族みんなが樽に刺さった黒ひげ危機一髪みたいなこの有り得ない状況設定も、それだからこそ成立してるのさ。ほら、このとおりとおさんの顔だって虎になる」そう言うと擬似父の顔がコロイド状にぐにゃりとひしゃぐ。すると、いきなり虎に変貌してしまった。琥珀のような黄色の牙は年輪を刻んだそれにしか見えないではないか。擬似父は隣りの擬似母に何事かを呟くと、老眼鏡をかけ朝刊を読み始めた。ぼくは疑似母に聞いた。「ねえ、彗星がこわくないの?」擬似母はきっとそう問われるだろう事を想定していたかのように「そんなこと言ったってしょうがないでしょ。だってジャスコへ行かなきゃならないんだし」と小さなため息をついた。兄はイヤホンをしてひたすら携帯ゲームに没頭中だ。ああ、たしかにジャスコには行かなきゃ。南西の窓には南西の空があり、その向こうには南西の彗星がいよいよ迫って来ている。美しくもない黄昏の名、それはカタストロフ。ぼくは思う。ああどうしよう、どうしてもジャスコへ行かなきゃ、と。





自由詩 過去から歩いてきた血液 他一篇 Copyright 道草次郎 2021-01-23 09:42:23
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