詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一四年十三月一日 「宝塚」 


18、9のとき
ひとりで見に行ってた
目のグリーンの子供と母親
外国人だった
子供は12、3歳かな
きれいな髪の男の子だった
母親は栗色の髪の毛の、34、5歳かな
宝塚大劇場に、ひとりで行ってたとき
ときどき行ってたんだよ
斜め前の席に坐ってた子供が
自分に近い方に
宝塚の街のことは、隅から隅まで知っていた
いろんなところ、ぶらぶらしてた
あれから何10年経ったろう
もしいま宝塚の街を歩いてみたら
ぼくの傍らをすれちがっていく
笑い声に出会うだろう
それはたぶん
きっと
あの宝塚の街を通りすぎていく
風だったのだろう


二〇一四年十三月二日 「さつき」


22、3のときのことだった
ぼくの住んでいた長屋の斜め向かいの家の
女の子
11歳
(男の子3人と、女の子1人なので、あずかっていた。寝泊りしていた。)
この子と、向かいのスナックのママの娘
12歳
この2人を連れて
あるさつきの季節に
夕方
東山の霊山観音のぐるり
前いっぱいにライトアップされていた
さつきが咲き乱れていた
この光景は、1生忘れないでおこうと、こころに誓った


二〇一四年十三月三日 「靴」 


27のとき
忍び逢い
という名前のスナックを経営していた
そのとき
京都女子大学の女学生と知り合った
その女子学生は
店に聖書を売りにきたのだった
気のいい女の子で、2人で食事をしたり、喫茶店で話をしたり
デートした
この子が、自分の近所の17の女の子を
ある日、連れてきた
その娘も、めちゃくちゃかわいい女の子だった
名前はたしか優ちゃんだった
芦屋に住んでいるのだが、きょうは京都に遊びに来たの、っていう
3人で南禅寺に行った
南禅寺の山門をくぐりぬけて
50メートルほど行くと
お滝に上がる山道がある
山門の入り口に第2疎水のコンクリートの土台があって
(グリーンのレンガ貼り)
ハイヒールの中に入っていた小石をとるのに
片手を、その土台において
立ったまま
ぱっぱっと
その小石を落とした
片方の靴のかかとから
ぼくが見つめているのに気づくと
とても恥ずかしそうな顔をして見せた
そうだ
あの娘の表情も
けっして忘れはしないと
ぼくは、こころに誓ったのだ
優ちゃん
真っ赤な麦藁帽子と
白い薔薇模様のワンピース
だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった
真っ赤な麦藁帽子と
白い薔薇模様のワンピース
これは覚えているのに
あの娘の恥ずかしげな顔とともに
だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった


二〇一四年十三月四日 「風景は成熟することを拒否する」


皮膚にまといついた言葉を引き剥がそう
詩人に要請されることは、ほかには何もない
皮膚にまといついた言葉を引き剥がすこと以外に
こころみに、ぼくの皮膚についた言葉を引き剥がそう
10歳のときの記憶の1つが、雲を映す影となって地面を這っている
こころもち、雨が降った日の水溜りに似ていないとも言えない
風景は成熟することを拒否する

詩人は自分をその場所に置いて
自分自身を眺めた
まるで物でも眺めるように


二〇一四年十三月五日 「時間と空間」


ぼくたちが時間や空間を所有しているのではなく
時間や空間がぼくたちを所有しているのである
ぼくたちが出来事を所有しているのではなく
出来事がぼくたちを所有しているように。

ぼくたちが過去を思い出すとき
ぼくたちが過去を引き寄せるのではない。
過去がぼくたちを引き寄せるのである。
過去がぼくたちを思い出すために。


二〇一四年十三月六日 「偉大さと、卑小さ」


詩人がなぜ過去の偉大な詩人や作家に
詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのか
いぶかしむ人がいるが
そんなことは当たり前で
卑小な人間の魂に学べることは、卑小な人間について学べることだけだからである
偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているのである

詩人は学び尽くさなければならないのだ
生きているあいだに

いや、違うかな。
かつて、親しかった歌人の林 和清ちゃんが
ぼくにこんなことを言った。
「どんなひとからも学べるのが、才能やと思うで。」
「おれは、むしろ、ふつうのひとがすることから、いっぱい学んでるで。」
って。
そうかもしれない。
でも、自分がぜんぜん共感できない詩人や作家の作品から学ぶことなんかできるんやろか。
ほんとうに才能のあるひとにならできるのかもしれないな。
卑小なこと、つまらないことからでも学べるのが才能なのかもしれないな。
だとすると、世のなかには、卑小なことも、つまらないこともないっていうことなのかな。
そういえば、日常のささいなことが
とげのように突き刺さって痛いってことが、しょっちゅうあるものね。
「偉大さと、卑小さ」か。
浅く考えてたな。


二〇一四年十三月七日 「ぼくたちが認め合うことができるのは」 


ぼくたちが認め合うことができるのは
お互いの傷口だけだ
何か普通とは異なっているところ
しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの
そんなものにしか
ぼくたちの目は惹かれない
それくらい
ぼくたちは疲弊しているのだ


二〇一四年十三月八日 「言葉も、人も」


言葉も
人も
苛まれ
苦しめられて
より豊かになる
まるで折れた骨が太くなるように


二〇一四年十三月九日 「ポスト」 


彼女は
その手紙を書いたあと
投函するために外に出た
ポストのところまで
少し距離があったので
彼女は顔の化粧を整えた
(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、
あとで付け加えられたものである。削除してもよい。)
彼女は
その手紙に似ていなかった
彼女は
その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった
その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった
点や丸といったものにも
数字や記号にも
彼女がその手紙に書いたいかなるものにも
彼女は似ていなかった
しかし
似ていないことにかけては
ポストも負けてはいなかった
ポストは
彼女に似ていなかった
彼女に似ていないばかりではなく
彼女の妹にも似ていなかった
しかも
4日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし
いま彼女に追いつこうとして
スカートも履かずに玄関を走り出てきた
彼女の母親にもまったく似ていなかった
もしかしたら
スカートを履くのを忘れてなければ
少しは似ていたのかもしれないのだけれど
それはだれにもわからないことだった
彼女の母親は
けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである
植木鉢は
元来スカートを履かないものだからである
母親の剥き出しの下半身が
ポストのボディに色を添えた
彼女はポストから手を出すと
家に戻るために
外に出た


二〇一四年十三月十日 「ハンカチの笑劇」


オセロウは
イアーゴウがいなくても
デズデモウナを疑ったのではないか?
さまざまな冒険が
その体験が
オセロウをして想像豊かな
極めて想像豊かな人間にしたはずである
「ハンカチの笑劇」
想像はたやすく妄想に変わる

巣に戻った鳥が
水辺の景色を思い出す

愛によって形成されたものは
愛がなくなれば
なくなってしまうものだ
「なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。」
そう言うと
この詩人は自分の言葉の後ろに隠れた
隠れたつもりになった


二〇一四年十三日十一日 「死んだあと」


死んだあと
どうするか
動かさなくてはならない
ひとりひとり別の力で
ひとりひとり別の方法で
人間以外のもろもろのものも
動かさなくてはならない
ひとつひとつ別の力で
ひとつひとつ別の方法で
いっしょにではなく
ひとつひとつ別々に
とりわけ両親の死体が問題である
死んだあとも
動かさなくてはならない
そいつは
何度も死んで
すっかり重たくなった死体だが


二〇一四年十三月十二日 「音楽」


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは
だれだったろうか?
たしかに
音楽には
他の芸術が持たない
純粋性や透明性といったものがある
しかし
ただひとつ
ぼくが音楽について不満なのは
音楽は反省的ではないということだ
じっさい
どんなにすばらしい音楽でも
ぜんぜん反省的ではない
他の芸術には
ぼくたちに
ぼくたちの内面を見るように仕向けさせる作用がある
しかし
それにしても
音楽というものは
それがどんなにすぐれたものであっても
ちっとも反省させてはくれないものである


二〇一四年十三月十三日 「書き改めてなかった」


2、30年くらい前のことだけど
『サッフォーの詩と生涯』という本のなかで
引用されていたエリオットの詩の原文にコンマだったかピリオドが抜けていることと
あきらかにサッフォーの影響のあるバイロンの詩句について
なぜ書かれなかったのですかって
著者の沓掛良彦さんに、直接、手紙を出して訊ねたことがあって
1ヵ月後に、ご本人から丁寧な返事をいただけて
なんとか気を落ち着かせたことがある
再刷りするときに書き改めるということだったけど
きょう、ジュンク堂で見てきたのだけど、書き改めてなかった
執筆中にご病気で
メモでは、そのバイロンの詩句も書いてらっしゃったらしく
外国の研究者で
ぼくが指摘した箇所を指摘した方がいらっしゃって
沓掛さんも書くつもりだったらしいのだけれど
体調を崩されて
書くのを忘れられたとのことだった
「あなたは英文学の研究生ですか。」
と書かれてあったので
「いいえ、工学部出身です。」
と返事を出した
批判したかったら、直接、相手に手紙を出す時代が
ぼくにもあったんやね
いまは
しなくなった


二〇一四年十三月十四日 「ママ」


ぼくが子どもだったころね
よく言われたことがある
あんまり長い時間
ママを見てはいけませんって
ママを見る権利をパパがいるときにはほとんど独り占めしてたから
ぼくが自由にママを見れたのは
パパがいないときに限ってた
お兄ちゃんといっしょになって
ママを見てた
パパがいないときに
ママの鼻をつまんで
ぐにぐに
ぐにぐにひねって
ママのあげる美しい悲鳴を聞いてた
ママの声は
ぼくの耳にとても気持ちよくって
ぼくとお兄ちゃんはママの鼻をぐにぐに
ぐにぐにひねって
ママはぶひぶひ
ぶひぶひ
きれいな声で歌ってくれた
あるとき
ぼくとお兄ちゃんがママの鼻がちぎれるぐらいに
思い切りひねっていたときに
突然
パパが帰ってきたからびっくりしたことがあったのだけれど
ママは
真っ赤になった鼻を押さえて
トイレにかけこんで
鼻がふつうの色に戻るまで出てこなかった
パパには
ママがおなかが痛いって言ってたよ
って
ぼくが言っておいた
パパがはやくママに飽きてくれたらいいのになって
ぼくはいつも思ってた
ぼくが子どもだったときのことね
いま
ぼくは大人になって
ママだけじゃなくて
パパのことも見てる
お兄ちゃんが死んで
ママもパパも
いまじゃ
ぼくだけのものだから
お湯がたまったみたいだ
お風呂から上がったら
ママとパパの鼻をひねって
ママとパパの苦しむ顔を見ようっと
うっちっち
ニコッ


二〇一四年十三月十五日 「うんこ臭い」


クリーニング店に行くの忘れてて
明日はいてくスラックスがない
クリーニング店がもっと近くだったら
よいのに

これから洗濯
うううん
もう預けてて1週間以上になるな
取りに行くのが
うんこ臭い
取りに行くのうんこ臭い
うん国際
うん国際地下シネマ
って
えいちゃん
背中にかいた薔薇の字が
自我
自我んだ
違った
自我った
スクリーン
ひざ






二〇一四年十三月十六日 「本」


本は
本の海の中で育つ
卵から帰った本は
他の本を食べて
だんだん成長する
本は本を食べて
肥え太る
本は
本の父と
本の母の間で生まれた
本は
本の浜辺で生まれてすぐに
本の海を目指す
本能からなんだと思う
自分がどこからきて
どこへ行くべきなのか
知っている
つぎつぎと本の子どもたちが
砂浜から這い出てくる


二〇一四年十三月十七日 「人生は映画のようにすばらしい。」


dioの印刷の途中で
昼ごはんを食べに行ったのだけれど
京大の近くの「東京ラーメン」という
ふつうのラーメンで400円という値段のところで
おいしくて有名らしいのだけれど
そこでご飯を食べて
また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど
帰りに
キャンパスに入ったところで
大谷くんが
綾小路くんに
DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した
綾小路くんが「これ、なんですか?」と訊くと
「山本さんが
 それくれたんだけどね。」
「ええ?
 大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」
「おれ
 いっつも断ってるねん。」
「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」
「違うねん。
 これ
 このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」
「ぼんて
 ナンですか?」
「「ぼん」て
 若い男のことを
 そう言うんや。
 だれでも
 あのひとは「ぼん」て言うんや。」
「そうなんですか。
 でも
 大谷さんが行けばいいじゃないですか。」
「おれ
 彼女
 いてるし
 行けへんやろ。」
「ええ!
 ぼくが行くんですか?」
綾小路くんの手のなかのチケットを取り上げて
ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから
綾小路くんの手に戻して
「行ったらええんとちゃう?
 綾小路くん 
 行ったら
 綾小路くんの文学や哲学が深くなるで。
 裸で勝負してる人間を見るんや
 きっと
 綾小路くんが大きくなるで
 あそこも
 こころもな。」
「そうですか?」
「そうや。」
「じゃあ、
 もらっておきます。
 でも行かなくてもいいんですよね?」
「そら好きなようにしたら
 ええけどな。
 行ったら
 綾小路くんが
 深くなるで。」
と言ってから
ぼくは
大谷くんに
「ねえ
 ねえ
 大谷くん
 その山本さんて
 何者?」
って訊くと
「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる
 元ヤクザの人なんです」
「へえ
 その人
 いいひとなんやなあ。」
とぼくが言ったら
「いまは
 いいひとですよ。」
「その飲み屋って
 どこにあるの?」
「ぼくの住んでるマンションの前。」
「どんな店?」
「食べ物
 なんでも300円なんですよ。」
「へえ
 おいしいの?」
「おいしいですよ。」
「そやけど
 そのひととの関わりなんて
 なんか
 青春モノの映画みたいやなあ。
 いや
 人生が映画のようにすばらしいのか?
 うん
 人生は映画のようにすばらしい。
 あるいは
 映画は人生のようにすばらしい
 か。
 まあ
 どっちでもええけど
 どっちかのタイトルでミクシィの日記にでも書いとこうっと。」
ってなことを言いながら
印刷の場所にもどって
作業の続きをしていた

印刷は終わってたのか
そうだ
紙を折る作業に入ったのだ
借りていた教室で
総勢7人で
紙折り作業をして
最後にホッチキス止めが終わったのが5時40分くらいで
そこから
みんなで
「リンゴ」という店に行って打ち上げをしたのだった
土曜日のことだった
うん
うんうん
「人生は映画のようにすばらしい。」


二〇一四年十三月十八日 「三日後に死ぬとしたら」



死んだ父親に起こされたから
3日後に死ぬとしたら
どうする?
って
きのう、リンゴで
雪野くんと
荒木くんに訊いたんだけど

この荒木くんは
言語実験工房の荒木くんと違うほうの
小説を書くお医者さんで

その2人は
それぞれ
「ぼく考えたことないです。
 わかりません。」
「ぼくはとりあえず田舎に帰るかなあ。」
やった
ぼくはいつ死んでもいいように
そのときそのとき書けるベストの作品を書いてるつもりだから
「本読んでると思うわ。」
と言った
じっさい
読んでないのが
まだ400冊くらい部屋にあるので
そのなかから
ピックアップして
読んでいくと思う
でも2人とも考えたことがないっていうのは
ぼくには不思議やったなあ


二〇一四年十三月十九日 「すべての人間はソクラテスである」


セックスを愛だと思ってる人は少ないかもしれないけれど
愛をセックスだと思っている人はもっと少ないと思う
セックス=愛
愛=セックス
数式のように書いたら
同じように思えるかもしれないけれど
数式としてもっと厳密に見ると
この2つの式が異なる内容を表わしていることがわかる
1+1=2
だけど
2=1+1
だけじゃないやん
3マイナス1だって2だし
7マイナス5だって2だし
マイナス4プラス6だって2だしねえ
いや
絶対的に
2=1+1だけだったりして



でも
たとえば
考えてみてよ
ソクラテスは人間だけど
人間はソクラテスじゃないものね
うん
いやいや
これも
案外
すべての人間はソクラテスかもしんないぞ
ソクラテスがすべての人間であるように
てか

まあ
ソクラテスって名前の犬とか
ソクラテスって名前のパソコンとかなんてのは
なしにしてね
ふぎゃ


二〇一四年十三月二十日 「Street Life。」


むかし書いた詩があって
それは
ワープロ時代に書いたもので
1時期
自暴自棄になってたときがあって
ワープロに書いたぼくの詩を
『みんな、きみのことが好きだった。』と『Forest。』に
収録したもの以外みんな捨てたんだけど
原稿用紙にして2枚くらいの短い詩で
『Street Life。』というタイトルで書いたものがあって
それは
どちらにも収録するのを忘れてて
でも
とても気に入ってたんだけれど
手元に
それが収録された同人誌がなくて
というのは
ぼくは
自分の書いた詩が載ってる本を
よくひとにあげちゃうからなんだけど
そういうわけで
内容は覚えているんだけど
正確には思い出せなくて

それを思い出す
という作業を
散文スタイルで書いてみようと思っているわけ
「ぼく」と「中国人の青年」の話なんだけど
ソープランドの支配人をしていた26歳の青年と
ぼくとが出会って
彼の初体験(もちろん男)の話と
バイセクシャルである彼のセックスライフにからませて
ぼくが何度も自殺するという内容で
自殺するのだけれど
死ねなくて
水に顔をつけても呼吸しちゃうし
手首を切っても
すぐにもとにもどっちゃうし
飛び降りて
ぐちゃぐちゃになっても
すぐにもとにもどっちゃうし
という感じで現実の彼の話と
シュールな場面が交互につづくんだけど
フレーズが正確に思い出せないのが
ほんとに残念で

今回
書こうと思うのは
「なぜ
 その青年のことを書こうと思ったのか。」
「その青年の話をそのまま書き写しただけなのに
 なぜ
 その青年の存在が、ぼくにとって
 いまだにリアルなのか。」
「ぼくがなぜ何度も死んで生き返るのか。」
「これらふたつのことで何が表現したかったのか。」
といったことを自己分析しながら書こうと思っているのだけれど
うまくいくかどうか


二〇一四年十三月二十一日 「ちょっといい感じ」


さっき聴いた曲がちょっといい感じ
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
ヒロくんの言葉を思い出していた
ぼくのおなかをさわりながら
「この腐りかけの肉がええねん。」
「腐りかけの肉って、どういう意味やねん?」
「新鮮な肉の反対や。」
好きなこと言ってるなあって思った
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
「背中とか、頭とか
 さわられるのが好きやねん。」
「みんな、そうなんちゃう?」
おなかの肉をつまんだり
さすったりしながら
「こうして、さわってるのが好きかな。」
「ぼくはさわられるのが好きやし
 あっちゃんは、さわってるのが好きなんやから
 ちょうどええな。」
うん? 
そ?
そかな?
「そんなに、このおなかが好き?」
「好きかも。」
「顔もかわいいしな。」
「めっちゃ、生意気!」
もたげてた頭を起こして目を見る
笑ってた。
ぼくも笑った
この生意気さ
ヒロくんと、どっこいどっこいやなあ、って思った
すぐに夢中になっちゃいけないと
こころに向かって言う
まだまだ
ぼくは傷つくことができるのだから
その分厚い胸に頭をもたげて
話をしていた
ぼくと同じように
彼の胸もドキドキしてた
さいしょ
近づくのもこわかったのも
ぼくよりずっと年下なのも
双子座なのも
ヒロくんといっしょ
O型やけど
好きになったら
どうしようって感じ
うまくいきそうになったら
うまくいかなかったときのことが思い起こされる
ぼくの目を見ないようにしゃべってた
ぼくが横を向いたら
ぼくの顔を見てた
たくさんしゃべったのに
まだしゃべりたりないって感じで
でも
決定的なことは
何も言わなかった
何度も顔を見つめ合いながら
離れていった
微妙で不思議な時間だった
はっきり言わない
ううううん
人間の魅力って
ほんと
さまざま


二〇一四年十三月二十二日 「シェイクスピアについて」


 エンプソンの『曖昧の七つの型』(岩崎宗治訳)上巻の終わりのほう、372ページの後半から引用すると、

(…)シェイクスピアは、たえず身の危険と戸惑いを感じていたにちがいない。彼自身はこういう政治状況からくるものをうまくかわしていたらしいが、仲間のしくじりのために罰金を払わせられた。ベン・ジョンソンがカトリック信仰と反逆罪の廉で逮捕される少し前、シェイクスピアは宮廷でジョンソン作の『セジェイナス』の上演に俳優として参加していたのである。(…)

 好きな詩人や作家について、知らなかったことを知ることのできた喜びは大きい。シェイクスピアが、ペストの流行のせいでロンドンから離れなければならなかったことや、政治的に後ろ盾になっていた人物が反逆罪でつかまったりしたのは知ってたけれど、ベン・ジョンソンとのかかわりについては、それほど知らなかったので、まあ、弔辞を読んだ人だったかな、同時期の作家か先輩の作家だったと思うけれど、追悼の言葉くらいしか知らなかったので、なんだか、得した気分。あるいは、もしかしたら、過去に、ほかで読んでて忘れてることかもしれないけど、笑。忘れてて、思い出すことも喜びだしね。

 エンプソンの引用する詩句の多くがシェイクスピアであるのが、うれしい。ときおり混ざる他の作家や詩人の作品の引用も楽しい。上巻、あと少しで終わり。

きょうは、ずっと韓国映画と、韓国ドラマと、エンプソンの詩論集に。

 韓国映画とか韓国ドラマとかに、ここまではまるとは思ってなかったので、とても意外で面白い。キム・イングォンの最新作があって、そこでの画像がネットで手に入れられたので、さっそく保存しておいた。どの画像も、ぼくのこころを穏やかにする。イングォンくんって、じっさいには、繊細で、とても傷つきやすいひとであるような気はするけれど、こんどの映画の役柄は、無職のちょっとヤンチャなお兄さんって感じかな。子どもといっしょに映ってる写真なんて、ほんとに、ほっとさせられる。

 ひとの気持ちを穏やかにさせる、そんな詩って、めったにないけど、そやなあ。ジャムの詩くらいかな。しかも2つくらいしかあらへんし。エンプソンの詩論、最後の七番目の型、論理学でいうところの矛盾律を利用したもの。しかしこれって、いつも思うのだけれど、排他律と同1律の応用でもある。まあ、エンプソンは、それを「曖昧」という言葉にしているのだけれど。そういえば、対立する意味概念の同時生起って、ぼくが『舞姫。』で書いた「過去時制」と「未来時制」の同時生起に似ていて面白い。孫引きのフロイトの論文に、未開人の言語に、対立する意味概念の1語への圧縮例が出てくるのだけれど、これって、ピポ族の無時制言語に比較できるかなって思った。ただし、エンプソンは、未開という概念ではなく、対立する意味概念の1語への圧縮を「繊細さ」と捉えているようだけど、ぼくも、リゲル星人の言語を「時制のない言語」、「名詞と助詞のみでできている言語(動名詞句を含む)」にするつもりなので、この最後の七番目の章はじっくり読んでいる。英語が苦手なぼくには、ときどきはさまれる引用の原著部分が、ちょっととしんどいかな。そんなに構文は難しくないけど、ああ、詩は、こうやって訳すのねって、勉強にもなるのだけれど。

 イングォンくん、勝ちゃんに似てるんだよなあ。だから、画像をながめてると、せつないのかなあ。

 エンプソンの詩論集、読み終わった。読んでるときにはそれなりに楽しめたけど、内容は、そんなに得るものがなくて。まあ、いちおう、有名な本だから読んどく必要はあったけど、読んでた時間がもったいなかったかも。さて、つぎは、なにを読もうかな。


二〇一四年十三月二十三日 「きなこ」


きょう
日知庵で飲んでいると
作家の先生と、奥さまがいらっしゃって
それでいっしょに飲むことになって
いっしょに飲んでいたのだけれど
その先生の言葉で
いちばん印象的だったのは
「過去のことを書いていても
 それは単なる思い出ではなくってね。
 いまのことにつながるものなんですよ。」
というものだった。
ぼくがすかさず
「いまのことにつながることというよりも
 いま、そのものですね。
 作家に過去などないでしょう。
 詩人にも過去などありませんから。
 あるいは、すべてが過去。
 いまも過去。
 おそらくは未来も過去でしょう。
 作家や詩人にとっては
 いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」
と言うと
「さすが理論家のあっちゃんやね。」
というお言葉が。
しかし、ぼくは理論家ではなく
むしろ、いかなる理論をも懐疑的に考えている者と
自分のことを思っていたので
「いや、理論家じゃないですよ。
 先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」
と返事した。
いまはむかし。
むかしはいま。
って大岡さんの詩句にあったけど。
もとは古典にもあったような気がする。
なんやったか忘れたけど。
きなこ。
稀な子。
「あっちゃん、好きやわあ。」
先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど
「ありがとうございます。」
という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。
自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど
生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い
こころのなかで、しゅんとなった。
表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。
もちろん
人間的に「好き」ってだけで
ぜんぜん恋愛対象じゃないけれど。
お互いにね、笑。
先生、ノンケだし。
60歳過ぎてるし、笑。
ぼくは、年下のガチムチのやんちゃな感じの子が好きだし、笑。
きなこ。
稀な子。
勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。
しじゅう聞こえる。
「ぼく、疑り深いんやで。」
ぼくは疑り深くない。
むしろ信じやすいような気がする。
「ぼく、疑り深いんやで。」
勝ちゃんは何度もそう口にした。
なんで何度もそう言うんやろうと思うた。
1ヶ月以上も前のことやけど
日知庵で飲んでたら
来てくれて
それから2人はじゃんじゃん飲んで
酔っぱらって
大黒に行って
飲んで
笑って
さらに酔っぱらって

タクシーで帰ろうと思って
木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと
勝ちゃんが
「もう少しいっしょにいたいんや。
 歩こ。」
と言うので
ぼくもうれしくなって
もちろん
つぎの日
2人とも仕事があったのだけれど
真夜中の2時ごろ
勝ちゃんと
4条通りを東から西へ
木屋町通りから
大宮通りか中新道通りまで
ふたりで
手をつなぎながら歩いた記憶が
ぼくには宝物。
大宮の交差点で
手をつないでるぼくらに
不良っぽい2人組の青年から
「このへんに何々家ってないですか?」
とたずねられた。
不良の2人はいい笑顔やった。
何々がなにか、忘れちゃったけれど
勝ちゃんが
「わからへんわ。
 すまん。」
とか大きな声で言った記憶がある。
大きな声で、というところが
ぼくは大好きだ。
ぼくら、2人ともヨッパのおじさんやったけど
不良の2人に、さわやかに
「ありがとうございます。
 すいませんでした。」
って言われて、面白かった。
なんせ、ぼくら2人とも
ヨッパのおじさんで
大声で笑いながら手をつないで
また歩き出したんやもんな。
べつの日
はじめて2人でいっしょに飲みに行った日
西院の「情熱ホルモン!」やったけど
あんなに、ドキドキして
食べたり飲んだりしたのは
たぶん、生まれてはじめて。
お店いっぱいで
30分くらい
嵐電の路面電車の停留所のところで
タバコして店からの電話を待ってるあいだも
初デートや
と思うて
ぼくはドキドキしてた。
勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。
してくれてたと思う。
ほんとに楽しかった。
また行こうね。
きなこ。
稀な子。
ぼくたちは
間違い?
間違ってないよね。
このあいだ
エレベーターのなかで
ふたりっきりのとき
チューしたことも
めっちゃドキドキやったけど
ぼくは
勝ちゃん


二〇一四年十三月二十四日 「世界にはただ1冊の書物しかない。」


「世界にはただ1冊の書物しかない。」
と書いてたのは、マラルメだったと思うんだけど
これって
どの書物に目を通しても
「読み手はただ自分自身をそこに見出すことしかできない。」
ってとると
ぼくたちは無数の書物となった
無数の自分自身に出会うってことだろうか。
しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもあるわけで
したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないということになるのかな。
細部を見る目は貧しい。
ありふれた事物が希有なものとなる。
交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。
見慣れたものが見慣れぬものとなる。
それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。
もう愛を求める必要などなくなってしまった。
なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。
愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならないわけだけれども。


二〇一四年十三月二十五日 「ダイスをころがせ」


ローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ」を聞いたのは
中学1年生の時のことだった
かな
かなかな
同級生の女の子がストーンズが好きで
その子の家に遊びに行ったとき
ダイスをころがせ、がかかってた
ぼくと同じ苗字の女の子だった
名前は、かなちゃんって呼んでたかな
忘れた
たぶん、かなちゃん
で、ストーンズの歌は、ぼくには、へたな歌に聞こえた
だって、家では、ビートルズやカーペンターズや
ザ・ピーナッツとか
つなき&みどりだとか
ロス・アラモスだとか
マロだとか
ミッシェル・ポルナレフだとか
シルビー・バルタンだとか
そんなんばっか
かかってたんだもん
親の趣味のせいにするのは、子供の癖です
パンナコッタ、どんなこった
チチ
マルコはもう迷わないだろう
あらゆる皮膚についた言葉を引き剥がそう
ダイスをころがせは、いまでは、ぼくのマイ・フェバリット・ソングだす
大学のときは、リンダ・ロンシュタットが(ドかな)歌ってた
デスパレイドも歌ってたなあ
ピッ
パンナコッタ、どんなこった
どんなん起こった?
チチ
もうマルコは迷うことはないだろう。
迷ってた?
パンナコッタ、どんなこった
どんなん起こった?
チチ
もうマルコは迷うことはないだろう
迷ってた
3脚台
ガスバーナー
窓ガラス
水滴
水滴に映った教室の風景
窓ガラス

マルコはもう迷うことはないだろう
迷ってたのは、自分のつくった地図の上だ
自分のまわりに木切れで引っかいた傷のような地図の上だ
3脚台
トリポッド
かわいい表紙なので、ついつい買っちまったよ
で、こんなこと考えた
ある日、博士が
(うううん、M博士ってすると、星さんだね)
軽金属でできた3本の棒の端っこを同時に指でつまんだら
それがひょいと持ち上がって
3角錐の形になったんだって
で、博士が指でさわると、その瞬間に歩き出したんだって
さわると、っていうか、さわろうとして手を近づけただけっていうんだけど
で、その3角錐のべき線の形になった3本の棒についていろいろ調べると
その3本の棒の太さと長さの比率がいっしょなら
どんな材質の棒でも、3本あれば、そんな3角錐ができるんだって
て、いうか、もうそれは過去の話です。笑
いまでは、荷物運びに、その3本の棒が大活躍してますし
その3本の棒の上にトレイをのっけると
テーブルの上で
ひょこひょこ動くんです
お肉を上にのっけると
さわろうとするだけで
テーブルの上のホットプレートの上に
お肉を運んで
ジュ
頭を下げて
ジュ
かわいい
ジュ
ペットの代わりに、3本の棒をひょこひょこさせるのが大流行
町中、3本の棒が、たくさんの人のうしろからひょこひょこついてっちゃう
で、ジュ
で、ジュ
パンナコッタ、どんなこった
チチ
マルコはもう迷わないだろう
迷ってた?
迷ってたかも
パンナコッタ、どんなこった


二〇一四年十三月二十六日 「耳遺体」


ダン・シモンズの
『夜更けのエントロピー』をまだ読んでなかったことを思い出した
『愛死』を読んでたから、いいかなって思って、ほっぽらかしてたんだけど
やっぱ読もうかな
ハヤカワ文庫の『幻想と怪奇 3巻』
読み終わってみて、ちと、あれかなって思った
創元のゾンビのアンソロジーの面白さにくらべたら
ちと、かな

通勤のときと
部屋で読むのとは別々にしてるんだけど
マイケル・スワンウィックの『大潮の道』のような作品が読みたい
『ヒーザーン』読めばいいかな
これから、耳のクリーニング
ブラッドベリの『死人使い』というのを読んだ
いろいろなところに引き合いに出される作品なので
内容は知ってたけれど
やっぱりちとエグイ
耳遺体
耳痛い
耳遺体
ブルー・ベルベットや
ぼくの『陽の埋葬』が思い出される
花遺体
じゃない
鼻遺体は、うつくしくないね
鼻より耳の方が
部分として美しいということなのかな
以前に詩に書いたことがあったけど

理由は書いてないか。
小刻みに震える
耳遺体
ハチドリのように
ピキピキ
ピキピキ
メイク・ユー・シック!
愛は僕らをひきよせる
と書いたのは
ジョン・ダン
と言っても
高松雄一さんの訳で
わずらわしいバカでも
わかる詩句だけど
愛する対象が人間たちを動かす
って
言ったのは
ヴァレリーね
って
佐藤昭夫さんの訳だけど
ぼくの知性は天邪鬼で
いつでも
その反対物を想起させる
あらゆる非存在が
存在を想起させるように
通勤電車のなかで思いついた
昨年の2月8日と書いてある
詩は思い出す
かつて自分がひとに必要とされていたことを
詩は思い出す
たくさんのひとたちのこころを慰めてきたことを
詩は思い出す
そのたくさんのひとたちが
やがて小説や音楽や映画に慰めを見出したことを
しかし
それでも
詩は思い出す
ごくわずかなひとだけど
詩に慰めを求めるひとたちがいることを
って
うううん
バカみたいなメモだすなあ
2004年4月15日のメモ
ぼくもしっかり働きに行かなければ!


二〇一四年十三月二十七日 「破壊の喜び」


ダン・シモンズの『死は快楽』のなかにある
「プライドや憎しみや、愛の苦しみ、破壊の喜び」(小梨 直訳)
という言葉を読んで
ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』の41ページと42ページにある
「虚栄心のためだった」という言葉に誤りがあったことに気づいた
いや誤りと言うよりは
あれは故意の嘘であったのだ
ぼくのほうから別れを告げたのは
じつは虚栄心のためというよりも
意地の悪い軽率なぼくのこころのなせる仕業だった
冷酷で未熟なぼくの精神のなせる仕業だったのだ
ぼくが別れを告げればどういう表情をするのか
どういう反応を示すのか
子供が昆虫や小動物を痛めつけて
強烈な反応を期待するかのように
幼稚な好奇心を発揮したということなのだ
「破壊の喜び」
ダン・シモンズの言葉は
ときおりこころに突き刺さる
真実の一端に触れるからである
「虚栄心のためだった」というのは虚偽である
ぼく自身に偽る言葉だった
「破壊する喜び」
なんと未熟で幼稚なこころの持ち主だったのだろう
ダン・シモンズのこの言葉を読んだのが
数日前のことだった
あの文章を書いていたときには
「虚栄心のためだった」という言葉で
当時の自分のこころを分析したつもりになっていた
「破壊の喜び」という言葉を読んでしまったいま
あの文章の「虚栄心のためだった」という箇所には
はなはだしい偽りがあると思わざるを得ない
いやこれもまた後付けの印象なのか
「虚栄心のため」というのも偽りではなかったかもしれない
「破壊の喜び」という言葉があまりに強烈に突き刺さったために
その強烈な印象に圧倒されて
より適切な表現を目の当たりにして
自分の言葉に真実らしさを感じられなくなったのかもしれない
とすると
すぐれた作家のすぐれた表現に出合ったということなのであって
自分の文章表現が劣っていたという事実に
驚かされてしまったということなのかもしれない
「破壊の喜び」
未熟で幼稚な
いや
未熟で幼稚な精神の持ち主だけが
「破壊の喜び」を感じるのだろうか
どの恋の瞬間にも
「破壊の喜び」が挟み込まれる可能性があるのではないだろうか
ぼく以外の人間にも
恋のさなかに「破壊の喜び」を見出してしまって
とんでもない結果を招いた者がいるのではないだろうか
1生の間に
恋は1度だけ
ぼくはそう思っている
その1度の恋に
取り返しのつかない傷をつけてしまうというのは
そんなにめずらしいことではないのかもしれない
「破壊の喜び」
未熟で幼稚な精神の

いま言える自分がここにいる
当時の自分をより真実に近い場所から見つめることができたと思う
このことは
どんなに救いようのないこころも
救われる可能性があるということをあらわしているのかもしれない
あつかましいかな


二〇一四年十三月二十八日 「ぼくの脳髄は直線の金魚である」


眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く
夜になっても、太陽がなくなるわけではない
流れる水が川の形を変える
浮かび漂う雲が空の形を与える
わたし自身が、わたしの1部のなかで生まれる
それでも、まだ1度も光に照らされたことのない闇がある
ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない
ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇
ぼくの知らないぼくがいる
ぼくではないものが、紛れ込んでいるからであろうか?
語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする
言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する
輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める
蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる
花の種類によって、集められた蜜の味が異なる
たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく
はてさて
へべれ
けべれ
てべれ
ふびれ
きべれ
うぴけ
ぴぺべ
れぴぴ
れずぴ
ぴぴず
ぴぴぴ
ぴぴぴぴぴ
ぼくの脳髄は直線の金魚である
直線の金魚がぼくの自我である
自我と脳髄は違うと直線の金魚がパクパク
神経質な鼻がクンクン
神経質な人特有の山河
酸が出ている
鼻がクンクン
華麗臭じゃないの
加齢臭ね
セイオン
自我の形を想像する
する
すれ
せよ
自我の形は直線である
ぼくのキーボードがこそこそと逃げ出そうとする
ぼくの指がこそこそとぼくから離れようとする
あるいは
トア・エ・
モア
ふふん
オレンジの空に青い風車だったね
ピンク・フロイドだったね
わが自我の狂風が
わが廃墟に吹きわたる
遠いところなど、どこにもない
空間的配置にさわる
肩のこりは
1等賞
ゴールデンタイムの
テレビ番組で
キャスターがぼくを指差す
ああ、指をぼくに向けたらいけないのに
ママがそういってただろ!
ぼくに指を向けちゃいけないって
死んだパパやママが泳いでる
カティン!
血まみれの森だ


二〇一四年十三月二十九日 「蟻ほどの大きさのひと つぶしたし」


そういえば、きょうは薬の効き目が朝も持続していて
ふらふらしていたらしい
ひとに指摘された
自分ではまっすぐ歩いてるつもりなんだけど
歳かな
たしかに肉体的には
年寄りじゃ
ふがふが
ふがあ
河童の姉妹が花火を見上げてる
ひまわりのそば 洗濯物がよく乾く
夏休み 半分ちびけた色鉛筆
どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ
鼻水で 縄とびビュンビュン ヒキガエル
子ら帰る プールのにおい着て
まな落ちて 手ぬぐい落ちる 夏の浜 
アハッ 漱石ちゃん
わが声と偽る蝉の抜け殻
恋人と氷さく音 並び待つ
ファッ
夏枯れの甕の底には猫の骨
これも漱石じゃ
わがコインも 蝉の亡骸のごと落つ
違った
わが恋も蝉の亡骸のごと落つ
わがコインもなけなしのポケットごと落つ
チッチッチ
俳句の会に出る。
1997年の4月から夏にかけて
ばかばかしい
話にもならない
情けない
って
歳寄りは思わないのね
会費1000円は
回避したかった
チッ
蟻ほどの大きさのひと つぶしたし
人ほどの大きさの蟻 つぶしたり
この微妙な感じがわかんないのね
歳寄り連中には
なんとなく 蟻ほどの人 つぶしたし
ヒヒヒ
けり
けれ
けら
けらけらけら
けっ
まなつぶる きみの重たさ ハイ 飛んで
小さきまなに 蟻の 蟻ひく
わが傷は これといいし蟻 蟻をひく
自分と出会って 蟻の顔が迷っている
あれ
前にも書いたかな?
メモ捨てようっと。
ギャピッ
あり地獄 ひとまに あこ みごもりぬ
蟻地獄1室に吾児身ごもりぬ
キラッ
蟻の顔
ピカル
ちひろちゃん
チュ


二〇一四年十三月三十日 「喩をまねる 喩をまげる」 


「無用の存在なのだ。どうして死んでしまわないのだろう?」
(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』1、友枝康子訳)
おとつい、えいちゃんのところに、赤ちゃんが生まれた
えいちゃんそっくりの、かわいい赤ちゃんだった
つぎのdioは
森鴎外
ひさびさに日本の作家をもとに書きます
斉藤茂吉以来かな
問を待つ答え
問いかけられもしないのに
答えがぽつんと
たたずんでいる
はじめに解答ありき
解答は、問あれ、と言った
すると、問があった
ヴェルレーヌという詩人について
かつて書いたことがありますが
ヴェルレーヌの飲み干した
アブサン酒の、ただのひとしずくも
ぼくの舌は味わったことがなかったのだけれど
ようやく味わえるような気になった
もちろん、アブサン酒なんて飲んじゃいないけど

ようやく原稿ができた
もう1度見直しして脱稿しよう
そうして
ぼくは、ぼくの恋人に会いに行こう
風景が振り返る
あっちゃんブリゲ
手で払うと
ピシャリ

へなって
父親が
壁によろける
手を伸ばすと
ぴしゃり

ヒャッコイ
ヒャッコイ
3000世界の
ニワトリの鳴き声が
わたしの蜂の巣のなかで
コダマする。
時速何100キロだっけ
ホオオオオオ
って
キチキチ
キチキチ
ぼくの鳩の巣のなかで
ぼくのハートの巣のなかで
ニワトリの足だけが
ヒャッコイ
ヒャッコイ
ニードル
セレゲー
エーナフ
ああ
ヒャッコイ
ヒャッコイ
ぼくの
声も
指も
耳も
父親たちの死骸たちも
イチジク、ミミズク、3度のおかわり
会いたいね

合わしたいね
きっと
カット

見返りに
よいと
巻け
やっぱり、声で、聞くノラ
ノーラ
きみが出て行った訳は
訳がわからん
ぼくは
いつまでたっても
自立できない
カーステレオ
年季の入ったホーキです。
毎朝
毎朝
いつまでたっても
ぼくは
高校生で
授業中に居眠りしてた
ダイダラボッチ
ひーとりぼっち
そげなこと言われても
訳、わがんねえ
杉の木立の
夕暮れに
ぼくたちの
記憶を埋めて
すれ違っていくのさ
風と
風のように
そしたら
記憶は渦巻いて
くるくる回ってるのさ
ひょろろん
ひょろろん
って
生きてく糧に
アドバルーン
眺めよろし
マジ決め
マジ切れ
も1度
シティの風は
雲より
ケバイ
そしたら
しっかり生きていけよ、美貌のマロニーよ
ハッケ
ヨイヨイ
よいと
負け
すばらしく詩神に満ちた
廃墟

上で
ぼくは
霧となって
佇んでいる
ただ
澄んでいる


ない
ビニールを
本の表紙に
カヴァーにして


ボタンダウンが
よく臭う
ぼくの欠けた
左の手の指の先の影かな
年に平均
5、6本かな
印刷所で
落ちる指は
ヒロくんはのたまわった
お父さんが
労災関係の弁護士で
そんなこと言ってた
アハッ
なつかしい声が過ぎてく
ぼくの
かわりばんこの
小枝
腕の
皮膚におしつけて
呪文をとなえる
ツバキの木だったかなあ
こするといいにおいがした
したかな
たぶん
こするといいにおいがした
まるで見てきたような嘘を
溜める

貯める
んんん
矯める
矯めるじゃ!
はた迷惑な電話に邪魔されて
無駄な
手足のように
はえてきて
どうして、舞姫は
ぼくがひとりで
金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう?
ひゃっこい
ひゃっこい
どうして、舞姫は
ぼくがひとりで
金魚と遊んでいたことを知ってるんだろう?
ひゃっこい
ひゃっこい
ピチッ
ピチッ
もしも、自分が光だってことを知っていたら、バカだね、ともたん
まつげの上を
波に
寄せては
返し
返しては
寄せて
ゴッコさせる
まつげの上に
潮の泡が
ぷかりぷかり
ぼくは
まつげの上の
波の照り返しに
微笑み返し
ポテトチップスばかりたべて
体重が戻ってるじゃん!
せっかく神経衰弱で
10キロ以上やせたのにいいいいい
まつげの上に
波に遊んでもらって
ぼんやり
ぼくは本を読んでる
いくらページをめくっても
物語は進まない。
寄せては返し
返しては
寄せる
ぼくのまつげの上で
波たちが
泡だらけになって
戯れる
きっと忘れてるんじゃないかな
ページはきちんと
めくっていかないと
物語が進まないってこと
ページをめくってはもとに戻す
ぼくのまつげの上の波たち
いまほど
ぼくが、憂鬱であったためしはない
足の裏に力が入らない
波は
まつげの上で
さわさわ
さわさわ
光の数珠が、ああ、おいちかったねえ
まいまいつぶれ!
人間の老いと
光の老いを
食べ始める
純粋な栄光と
不純な縁故を
食べる
人間の栄光の及ばない
不純な光が
書き出していくと
東京だった
幾枚ものスケッチが
食べ始めた。
ごめんね、ともひろ
ごめんね、ともちゃん
幾枚ものスケッチに描かれた
光は
不純な栄光だった
言葉にしてみれば
それは光に阻害された
たんなる影道の
土の
かたまりにすぎないのだけれど
ごめんね
ともちゃん
声は届かないね
みんな死んじゃったもん
もしも、ぼくが
言い出さなかったら

思うと
バカだね
ともたん
もしも
自分が食べてるのが
光だと
知っていたら
あんとき
根が食べ出したら
病気なのね
ペコッ
自分が食べている羊が
食べている草が
食べている土が
食べている光が
おいちいと感じる
1つ1つの事物・形象が
他のさまざまな事物や形象を引き連れてやってくるからだろう
無数の切り子面を見せるのだ
金魚が回転すると
冷たくなるというのは、ほんとうですか?
仮面をつける
絵の具の仮面
筆の仮面
印鑑入れの仮面
掃除機の仮面
ベランダの手すりの仮面
ハサミの仮面
扇風機の仮面
金魚鉢の仮面
輪投げの仮面
潮騒の仮面
夕暮れの仮面
朝の仮面
仕事の仮面
お風呂の仮面
寝ているときの仮面
子供のときの仮面
死んだあとの仮面
夕暮れがなにをもたらすか?
日光をよわめて
ちょうど良い具合に
見えるとき
見えるようになるとき
ぼくは考えた
事物を見ているのではない
光を見ているのだ、と
いや
光が見てるのだ

夕暮れがなにをもたらすか?

お風呂場では
喩をまねる
喩をまげる
曲がった喩につかった賢治は
硫黄との混血児だった
自分で引っかいた皮膚の上で
って、するほうがいいかな
だね
キュルルルルル
パンナコッタ、どんなこった


二〇一四年十三月三十一日 「プチプチ。」


彼が笑うのを見ると、いつもぼくは不安だった
ぼくの話が面白くて笑ったのではなく
ぼくを笑ったのではないかと
ぼくには思われて
表情のない顔に引っ込む
この言葉はまだ、ぼくのものではない
ぼくのものとなるにつれて、物質感を持つようになる
触れることのできるものに
そうすれば変形できる
切断し、結び合わせることができる
せっ、
戦争を純粋に楽しむための再教育プログラム。
あるいは、菓子袋の中のピーナッツがしゃべるのをやめると、
なぜ隣の部屋に住んでいる男が、わたしの部屋の壁を激しく叩くのか?
男の代わりに、柿の種と称するおかきが代弁する。(大便ちゃうで~。)
あらゆることに意味があると、あなたは、思っていまいまいませんか?
「ぼくらはめいめい自分のなかに天国と地獄をもってるんだ」
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十三章、西村孝次訳)
「ぼくだけじゃない、みんなだ」
(グレッグ・ベア『天空の劫火』下・第四部・59・岡部宏之訳)
人間は、ひとりひとり自分の好みの地獄に住んでいる
そうかなあ
そうなんかなあ
わからへん
でも、そんな気もするなあ
きょうの昼間の記憶が
そんなことを言いながら
驚くほどなめらかな手つきで
ぼくのことを分解したり組み立てたりしている
ほんのちょっとしたこと、ささいなことが
すべてのはじまりであったことに突然気づく
「ふだん、存在は隠れている」
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)
「そこに、すぐそのそばに」
(ジイド『ジイドの日記』第二巻・一九一〇、カヴァリエール、八月、新庄嘉章訳)
世界が音楽のように美しくなれば、
音楽のほうが美しくなくなるような気がするんやけど、どやろか?
まっ、じっさいのところ、わからんけどねえ。笑。
バリ、行ったことない。中身は、どうでもええ。
風景の伝染病。
恋人たちは、ジタバタしたはる。インド人。
想像のブラやなんて、いやらしい。いつでも、つけてや。笑。
ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
ある古書のことです
ヤフー・オークションで落札しました
11111円で落札しました
半年以上探しても見つからなかった本でしたので
ようやく手に入って喜んでいたのですが
きのうまで読まずに本棚に置いておりました
きのうは土曜日でしたので
1気に読もうと思って手にとりました
面白いので、集中して読めたのですが
途中、本文の3分の2ぐらいのところで
タバコの葉が埃の塊とともに挟まっていて
おそらくはまだ火をつけていないタバコのさきから
縦1ミリ横3ミリの長方形に刻まれた葉がいくつかこぼれ落ちたのでしょう
タバコの脂がしみて、きれいな紙をだいなしにしておりました
それが挟まれた2ページはもちろん
その前後のページも損傷しておりました
すると、とたんに読む気がうせてしまいました
まあ、結局、寝る前に、最後まで読みましたが
昨年の暮れに買いましたものでしたので
いまさら出品者にクレームをつけるわけにもいかず
最終的には、怒りの矛先が自分自身に向かいました
購入したらすぐに点検すべきだったと
しかし、それにしても
古書を見ておりますと
タバコの葉がはさまれていることがこれまでに2回ありました
これで3回目ですが、故意なのでしょうか
ぱらぱらとまぶしてあることがあって
そのときには、なんちゅうことやろうと思いました
自分が手放すのがいやだったら
売らなければいいのにって思いました
ちなみに、その古書のタイトルは
『解放されたフランケンシュタイン』でした
ぼくがコンプリートに集めてるブライアン・オールディスの本ですけれど
読後感は、あまりよくなかったです
汚れていたことで、楽しめなかったのかもしれません
途中まで面白かったのですが
こんなことで、本の内容に対する印象が異なるものになる可能性もあるのですね
うん?
もしかして
ぼくだけかしらん?
「すべてが現実になる。」
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』井上一夫訳)
「あらゆるものが現実だ。」
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)
ケルンのよかマンボウ。あるいは、神は徘徊する金魚の群れ。
moumou と sousou の金魚たち。
リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。
蟹、われと戯れて。 ぼくの詩を読んで死ねます。か。
扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。
ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。
2006年6月24日の日記には、こうある
朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ
新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために
乗っている電車が停車していると
車掌のこんなアナウンスが聞こえてきた
「電車が通過します。知らん顔してください。」
「芸術にもっとも必要なものは、勇気である。」
って、だれかの言葉にあったと思うけど
ほんと、勇気いったのよ~

「思うに、われわれは、眼に見えている世界とは異なった別の世界に住んでいるのではないだろうか。」
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』11、山田和子訳)
「人間は、まったく関連のない二つの世界に生きている」
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』4、友枝靖子訳)
「世界はいちどきには一つにしたほうがいい、ちがうかね?」
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川隆訳)
「きみがいま生きているのは現実の世界だ。」
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)
「精神もひとつの現実ですよ」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)
『図書館の掟。』は、タイトルを思いついたときに
これはいい詩になるぞと思ったのだけれど
書いていくうちに、お腹を壊してしまって
『存在の下痢。』を書くはめになってしまった
『図書館の掟。』は、たしかに、書いているときに
体調を崩してしまって、ひどい目にあったものだけれど
まだまだ続篇は書けそうだし
散文に書き直して小説の場に移してもいいかもしれない
『存在の下痢。』は、哲学的断章として書いたものだけれど
読み手には、ただ純粋に楽しんでもらえればうれしい
『年平均 6本。』は、青春の詩だ
一気に書き下ろしたものだ
「青春」という言葉は死語だけれど
「青春」自体は健在だ
現に、dionysos の同人たちは
いつ会っても、みんな「青春」している
表情が、じつに生き生きとしているのだ
『熊のフリー・ハグ。』以下の作品は
opusculeという感じのものだけれど
これまた書いていて、たいへん楽しいものだった
読者にとっても、楽しいものであればいいと願っている
去年の1月1日の夜に
コンビニで、さんまのつくねのおでんを買った
帰って、1口食べたら
食べたとたんに、げーげー吐いた
口のなかいっぱい、魚の腐った臭いがした
すぐに、コンビニに戻った
「お客さんの口に合わない味だったんですよ。」と
店員に言いくるめられて、お金を返してもらっただけで、帰らされた
くやしかった
たしかに、そのあと、おなかは大丈夫だったけど
1月2日には、アンインストールしてはいけないものをアンインストールして
パソコンを再セットアップしなければならなくなった
ふたたびメールの送受信ができるようになるまで、3日の夜までかかってしまった
作業の途中で、発狂するのでは、と思うことも、しばしばであった
ものすごくしんどかった
パソコンについて無知であることに、あらためて気づかされた
ことしの始まりは、最悪であった
すさまじくむごい正月であった
詩のなかで
「世界中の不幸が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように!」
と書いたけど
ほんとうに集まってしまった
こんどは、こう書いておこう
世界中の幸福が、ぼくの右の手の人差し指の先に集まりますように! と
ぼくたちは
おそらく、ひとりでいるとき
考える対象が、何もなければ
だれでもない
ぼくたちでさえないのであろう
「自分が誰なのかまるで分らないのだ。」
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸生訳)
そこにいるのは、ただ
「見も知らぬ、わけの分らぬ自分」
(ブラッドベリ『刺青の男』日付のない夜と朝、小笠原豊樹訳)
であり、その自分という意識すらしないでいるときには
そこにいるのは何なのだろう
自分自身のこころを決めさせているものとして考えられるものをあげていけば
きりがないであろう
たとえば、それは、自分の父親の記憶
ぼくの父親が
ぼくや、ぼくの母親に向かって言った言葉とか
その言葉を口にしていたときに父親の顔に浮かんでいた表情や
そのときのぼくの気分とか
そのときの母親の顔に浮かべられた表情や
母親の思いが全身から滲み出ていたそのときの母親の態度とか
反対に、そのときの思いを必死に隠そうとしていた母親の態度とか
そのときの部屋や、食事に出かけたときのお店のなかでのテーブルの席とか
いっしょに旅行したときの屋外の場面など
その空間全体の空気というか雰囲気とかいったものであったり
本のなかに書かれていた言葉や
本のなかに出てくる登場人物の言葉であったり
恋人や友だちとのやりとりで交わされた言葉であったり
学校や職場などで知り合った人たちとの付き合いで知ったことや言葉であったり
テレビやインターネットで見て知ったことや言葉であったりするのだけれども
だれが、あるいは、どれが、ほんとうに、自分の意志を決定させているのか
わからないことがほとんどだ
というか、そんなことを
日々、時々、分々、秒々、考えて生きているわけではないのだけれど
ときどき考え込んでしまって
自分の思考にぐるぐる巻きになって
まれに昏睡したり
倒れてしまったりすることがある
先週の土曜日のことだ
本屋で
なぜ、ぼくは、詩を書いたり
詩について考えたりしているのだろうと
そんなことを考えていて、突然、めまいがして倒れてしまって
その場で救急車を呼ばれて
そのまま救急病院に運ばれてしまったのである
シュン
点滴打たれて、その日のうちに帰っちゃったけどね
考えつめるのは、あまり身体によくないことなのかもしれない
チーン
『徒然草』のなかに
「筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。
盃を持つと酒を思い、さいを持つとをうとうと思う。
心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」
(現代語訳=三木紀人)
とか
「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。
主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、
きつねやふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、
わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。
鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
虚空は、その中に存分に物をれることができる。
われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、
心という実体がないからであろうか。
心に主人というものがあれば、胸のうちに、
これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」
(現代語訳=三木紀人)
というのがあるんだけど
最初のものは、第117段からのもので
それにある
「心はかならず何かをきっかけとして生ずる。」
という言葉は
ゲーテの
「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」
(『花崗岩について』小栗 浩訳)
といった言葉を思い出させたし
あとのものは
第235段からのもので
それにある
「鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。
鏡に色や形があれば、物影は映るまい。」
とか
「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。
 われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、
 心という実体がないからであろうか。
 心に主人というものがあれば、
 胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。」
といった言葉は
「多層的に積み重なっている個々の2層ベン図
 それぞれにある空集合部分が
 じつは、ただ1つの空集合であって
 そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」
という、ぼくの2層ベン図の考え方を
髣髴とさせるものであった
この空集合のことを、ぼくは
しばしば、「自我」にたとえてきたのだが
ヴァレリーは、語と語をつなぐものとして
「自我」というものを捉えていた
あるいは、意味を形成する際に
潜在的に働く力として
「自我」というものがあると
ヴァレリーは考えていたし
カイエでは
本来、自我というものなどはなくて
概念と概念が結びついたときに
そのたびごとに生ずるもののようにとらえていたように思えるのだけど
これを思うに、ぼくのいつもの見解は
ヴァレリーに負うところが、多々あるようである
しかし、そういったことを考えていたのは
何も、ヴァレリーが先駆者というわけではない
それは、ぼくのこれまでの詩論からも明らかなように
古代では、プラトン以前の何人もの古代ギリシア哲学者たちや
プラトンその人、ならびに、新プラトン主義者たちや、ストア派の哲学者たち
近代では、汎神論者たちや、象徴派の詩人や作家たちがそうなのだが
彼らの見解とも源流を同じくするものであり
それは、現代とも地続きの19世紀や20世紀の哲学者や思想家たち
詩人や作家たちの考えとも
その根底にあるものは、大筋としては、ほぼ同じところにあるものと思われる
ぼくが、くどいくらいに繰り返すのも
ヴァレリーのいう、「自我」の役割と、その存在が
空集合を下の層としている、ぼくの2層ベン図のモデルと
その2層ベン図が多層的に積み重なっているという
多層ベン図の空間モデルで10分に説明できることが
それが真実であることの証左であると
こころから思っているからである
また、第235段にある
「主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。
 主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、
 狐やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、
 わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。」
とか
「虚空は、その中に存分に物を容れることができる。」
とかいった言葉は
ぼくの
「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。
真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」
といった言葉を思い起こさせるものでもあった
このあいだ、『徒然草』を読み直していて
あれっ、兼好ちゃんって
ぼくによく似た考え方してるじゃん
って思ったのだ
チュチュチュ、イーン。パッ
ううぷ
ちゃあってた
Aじゃない
Eだ
リルケは
ちゃはっ
視点を変える
視点を変えるために、目の位置を変えた
両肩のところに目をつけた
像を結ぶのに、すこし時間がかかったが
目は、自然と焦点を結ぶらしく
(あたりまえか。うん? あたりまえかな?)
それほど時間がかからなかった
移動しているときの風景の変化は
顔に目があったときには気がつかなかったのだが
ただ歩くことだけでも、とてもスリリングなものである
身体を回転させたときの景色の動くさまなど
子供の時に乗ったジェットコースターが思い出された
ただ階段を下りていくだけでも、そうとう危険で
まあ、壁との距離がそう思わせるのだろうけれども
顔に目があったときとは比べられない面白さだ
左右の目を、チカチカとつぶったり、あけたり
風景が著しく異なるのである
顔にあったときの目と目の距離と
肩にあるときの目と目の距離の差なんて
頭ふたつ分くらいで
そんなにたいしたもんじゃないけど、目に入る風景の違いは著しい
寝る前に、ちかちかと目をつぶったり、あけたり
1つの部屋にいるのに、異なる2つの部屋にいるような気分になる
目と目のあいだが離れている人のことを「目々はなれ」と言うことがあるけど
そういえば、志賀直哉、じゃなかった、ああ、石川啄木じゃなくて
漱石の知り合いの、ええと、あれは、あれは、だれだっけ?
啄木じゃなくて、ええと
あ、正岡子規だ!
正岡子規がすぐれていたのは、もしかしたら
目と目の間が、あんなに離れていたからかもしれない
人間の顔の限界ぎりぎりに目が離れていたような気がする
すごいことだと思う
こんど、胸と背中に目をつけようと思うんだけど
どんな感じになるかな
あ、それより、3つも4つも
いんや、いっそ、100個くらいの目だまをつけたらどうなるだろう
100もの異なる目で眺める
あ、この文章って、プルーストだったね。
The Wasteless Land.
で、引用してたけど
じっさい、100の異なる目を持ってたら
いろいろなものが違って見えるだろうね
100もの異なる目

100の異なる目でも
頭が1つだから
100の異なる目でも
100の同じ目なのね
考える脳が同じ1つのものだったら
じゃあ
100の目があってもダメじゃん
100の異なる目って
異なる解釈のできる能力のことなのね
あたりまえのことだけれど
違った場所に目があるだけで
違って見える
違って解釈できるかな?
わからないね
でも生態学的に(で、いいのかな?)100もの目を持ってたら?
って考えたら、ひゃー、って思っちゃうね
あ、妖怪で、100目ってのがいたような気がする
いたね
水木しげるのマンガに出てたなあ
でも、100も目があったら、花粉症のぼくは
いまより50倍も嫌な目にあうの?
50倍ってのが単純計算なんだけどね

プチッ
プチ
プチ、プチ
あの包装用の、透明のプチプチ
指でよくつぶすあのプチプチ
プチプチのところに目をつけるのね
で、指でつぶすの
プチプチ
プチプチって

ブブ
ブクブホッ
いつのまにか、ぼくは自分の身体にある目を
プチプチ
プチプチって

ブブ
ブクブホ
って

ひとりひとりが別の宇宙を持っているって書いてたのは
ディックだったかな
リルケだったかな
ふたりとも
カ行の音で終わってる
あつすけ

カ行の音で終わってるね

おそまつ

ところで
早くも、次回作の予告
次回の dio では
失われた詩を再現する試みをするつもりである
その過程も入れて、作品にするつもりである
かつて、『Street Life。』というタイトルで
どこかに出したのだが、それが今、手元にないのだ
よい詩だったのだが、ワープロ時代の詩で
データが残っていないのだ
原稿用紙に2枚ほどのものだったような気がする
覚えているかぎりでは、よい詩だったのだ
ベイビー!
そいつは、LOVE&BEERの
いかしたポエムだったのさ
(いかれたポエムだったかもね、笑。)
フンッ


自由詩 詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2021-01-03 17:32:09
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