蹴捨坂
月夜乃海花

ある男居き。その男は一見、幸せさうに見えき。金銭に不自在もなく、夫婦も仲良く麗しき娘も居き。されど、男は不満なりき。どうにもおのれの人生はおぼろけなり。そのことに驚きしよりは男はあまりにも生活あぢきなくなりき。さる時なる女に行合ひき。その女は弱くいたづらに、いづこか守らせばやと思はせむさるけはひ醸しいだせり。人は悩み、花は枯れかけたりき。女は男に言ひき。

「我は誰にも心得られず。あな、どうしてならむ。」

女は泣き崩れき。男はその女見、いつしか存在を忘れられずなりき。これを色心地と驚きしは後のことなりき。かくて、女も男のことを唯一の理解者にて、思ふべくなりき。男はいよいよ言ひき。

「もろともに消えなむ。」

女は頷きし後、自宅に火を放りき。かくて、女は最期ののしる。そは男の名ならず、げに思へると驚きし女の実の夫の名なりき。されど男の驚きしにはさながら燃えしよりに、最早気に留むるものなど無かりき。後に娘はかく語りきといふ。

「うつつとは小説のごとき作品よりもあやしきものに、その癖に結果ばかりなかなかにあぢきなきものかな。最期、父は我がことを『天魔』と罵り、その死にし女をひとへに神のごとく敬ひ、救はれきといへば。」

最期、娘はその父なりし亡骸を三十米先に蹴捨てける。これが後に蹴捨坂と呼ばるべくなりし由来と言はれたり。


散文(批評随筆小説等) 蹴捨坂 Copyright 月夜乃海花 2020-12-28 23:30:42
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