常にこえたい
道草次郎

ぼくは基本的に知能指数が低いとおもう。
(そのことの辛さは
味わったものでしか理解できない
それは容易に慰めうる類のものでは無い)

だって両側の継手に24mmずつ入るパイプ管の
切り出しにとてつもない時間を要するか、
できないか、だからだ。
継手の中央から中央を300mmにする場合
継手の中央から継手の先の値(36mm)から
継手に先からハイプ管が入ってとまる位置までの値(24mm)を
引いてやった値(12mm)に×2をした値(24mm)を
300mmから引いてやればいいのだが
つまり
切り出すべきパイプ管は276mm
なのだが
何度やってもうまくできない。
しまいには具合がわるくなり
貧血と頻脈と多汗に苛まれる。

道路の下には水道管が埋設され
空中には電線がはられ
さまざまな配線が至る所に正確に施されている。
それらは全て人間の手と頭脳の所産である。
民主主義国家に生活をしていて
そのことをわすれて生活するのは不可能だし
それをわすれて生きることは自分にはできない。
だからぼくは自分もちゃんとそれらのインフラ基盤に必要な技能と知識と、手際の良い手をみずからに課すし、それにすぐれた人に引け目を感じる。

しかし自分がやると何もかもうまくいかない。
人間である以上はできないことはないはずだと思い、それをしようとするものの、手は常にぎこちなく、いつだって何か足元の物に躓くし、一つひとつの所作が無駄の塊で見るに堪えない。
今までもそうだった。
僕は今まで、誰よりも何も出来なかった。
ぼくがまともにできることは
一つも無かった。

だから
だから
こうして書くことしか今のぼくにはないのである。
ぼくはそれがとてもかなしい。
僕は分業制というものに
生存の知恵を見出すものの、
それ以上のかなしさをそこに感じるのである。

しかしぼくはぼくの知能指数をどうのと言うのは、それはぼくの精神がひどく悪いからだろう。知能指数などこんにち別段なにかの指標にすらならないのだし、たとえなったところでそれが何を示しうるかなど犬も食わないのである。

要はぼくの心根の問題で、りっぱな人は自分がばかならばかだと泣いて、嬉しいことがあったらたくさんよろこぶものだ。心根だけは、ほんとうにそのにんげんの深いところにあるいちばん全うに輝くものである。

ぼくは知らねばならない。なにものにも影響されることのない境地のそこにある、そういう化石層の下の美しい地底湖のことを。

ほんとうに世間には飛蚊症みたいに気を散らすだけの滓がたくさんある。もちろん、この自分の頭蓋骨のなかにもふんだんにある。滓とそうでないものとを、注意深くより分けねば。

先に挙げたパイプ管の施行課題を一緒に取り組んだ初老のHさんは、こんなぼくの手際と容量の悪さと計算能力の低さを認識していたが、一緒になってわからない難しいと言って最後には、道草さんが頑張ってくれたから出来た!と、(だってHさんが全部やってくれたのに)そう言ってハイタッチを求めてくれた。ぼくは汗をぬぐいながら笑顔で何だかわけも分からず、ハイタッチをした。

Hさんはとても優しく、イヤミひとついわず、飼っている老犬の為にすりこぎでドックフードを毎日すり潰す大変さの話ばかりをするような人である。いつも、明日もよろしくね、と言ってくれる。

ぼくは、世界とはこのようなものであると思う。

ぼくの欠損を人知れず補う人がいて、その人がぼくを生かす。というか、彼らこそぼくなのだと。感動などしない。感動するにはあまりにそれはたんたんとしている。ただ、ぼくは、だから分業制というものに批判的な意識をむけるし、すこしでも、誰かにとっての一部になろうとすることだけを目指したいとねがう。

ぼくが、ほんとうの詩人になりたいならば、Hさんに応えられるような人間になることが何よりも大切なのだと思う。それだけである。

どんなに人よりできなくとも、怒られようとも、置いてけぼりをくらおうとも、とにかくぼくはぼくの手の動く限り、打ちのめされることを越え、世界へみずからを接合していくだろう。それこそが書くことと同義だし、生きることと同義だから。

知能指数の低さは、じつはぼくにたいへん大事なことを示唆してくれているのである。

ぼくは、いまのぼくを常にこえていきたい。


自由詩 常にこえたい Copyright 道草次郎 2020-12-11 14:10:19
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