最近どうも
道草次郎
たくさんの目ざましい詩があり、たくさんの素晴らしい詩人もいて、たくさんドンドン凄いものが次から次へと…。
ぼくは、本当言うとすこしヤダなぁと思います。何故なら、自分がみっともなくみえるからです。そんなことぐらいしか最近は考えられなくて、もう、今は何だか穴があったらこもりたいぐらいです。ぼくは、自分がとても大事らしいです。皆さんも、もちろん同じだと思います。
けれども、これはなんというか変な話です。詩は、だって、誰のものでもないはずなのに。
ぼくは昨夜、眠れなくてずっと考え事をしてました。何を考えたかと言うと、それは、詩は渡し舟だなってことです。人から人への渡し舟、それが詩です。そんなことを考えていました。
そんな風にぼくの思考は単純かつ平凡だから、あんまり良い詩が書けないのかも知れないですね。それとも、苦労が足りないのかとも思います。どうなのか…そのへんは色々な人の意見があって、ぼくには手に負えないかも知れないから、あまり自信も無いのです。そういう意思の表明の裏に卑屈さが皆無とは勿論言い切れないから、ぼくはなおさら不安にもなります。
ぼくの間違いは、きっと、批判されないように予め相応の布石を打つこと、無視されるくらいひどい駄作を多産することなどでしょうか。そのどちらもたぶん現にやってしまっていて、しかもそうしたことの大半は無意味な自意識過剰に過ぎないのでしょうから、この通り気がつくといつの間にか愚痴になってしまうという有様です。
さて、どこで横道にそれましたか。そうです、詩は誰のものでもない、渡し舟のようなものだという話でした。たしかにこの考えはありきたりでしょう。ですが、これは本当だと思いますよ。良い詩の書き手は、やはり良い渡し守であると思います。
特に何か面白い気の利いた事の一つもいえないのがいつも残念です。これが、いまのぼくの実力です。ぼくはここ半年自分なりにたくさん書いてきたつもりですが、そんなのよりずっとすばらしい詩を書く方々が大勢います。
そして、その方々も日々自分を変革しようともがいたり、さらなる修練を積んだりしてもっと大きくなっていくでしょう。たぶん、いつまでも埋まらない溝というのはあるのです。その溝のことなど微塵も考えたことがないかのように、たくさんの詩人たちは未来へ走っていくことでしょう。
ぼくにはそれが直感として分かります。それはもちろん、客観的には素晴らしいことです。ですがぼく個人としては寂寥感を感じるより他は為す術がありません。それを言祝ぐほどの器量がみずからに備わっていないことには、痛切な失望を感じるばかりです。
ぼくはいま、詩との関わりに於いても実生活および将来設計に於いても、ある一つの岐路に立っているのを自覚しています。
先はまだ、見えません。さまざまな理由から、おそらく近々、書くことを放棄するかしないかの判断を迫られることかと思います。それこそが、ぼくの宿命であり、そのことこそがまさに、ここまで自分に詩を書かせてきた原動力でもあるのです。
じつに、このような事に関心をお持ちの方がおられるとは思えませんが、もしそうした奇特な方がおられたら、どうかぼくの書いた350以上の詩をはじめからザッとでもいいから目を通して頂けたら幸いです。
そうしたらきっと、ぼくがここ半年何を思い何を悩み何に光を見出して来たかが分かるはずです。ぼくはそこに自分のすべてを燃やしました。そして、今この手元に残っているのは燠火だけかと言ったらそうではありません。ここにあるのは、それは、新しい火種です。
これは、自分にとっては意外なことでした。こんな日がくるとは、半年前には想像だにできなかったです。人生とは不思議なものですね。ぼくはまだ書いていくでしょう。ペンに拠るかそうでないかは、それは運命のみが決めることなので何とも言えませんが、とにかく詩をやめることはないと思います。詩とは遍在する行為そのものでもあります。詩を生きる、ということはけっして詩的ではないでしょうが、それは生の中の詩あるいは詩の中の生を志向する意思に於いて、実際の詩作となんら変わりが無いように思えるのです。
最後になりますが、ぼくはこの文章をどちらかいうと卑屈な気持ちから書き出しました。しかし、今の気持ちはもうあまり卑屈ではありません。ぼくの心はすこし整いました。どうも、こういう心模様を文頭と文末に於いて語るとはずいぶん節操の無いことではあります。しかしこうした事すらここでは許されるのだと、そう、高を括るだけの厚かましさは幸い持ち合わせています。
素晴らしい詩と詩人たち、それらが存在することの得難さと有り難さがむしろ今は感じられます。
良いものは、良いままに。美しいものは、美しいままに。そして、憎むものは憎むべき時に憎む。それのみを心に留め、今夜は筆をおこうと思います。ここまで読んで下さった方へ、篤くお礼申し上げます。