スノーディストピア 〜穢れた民の逝き道〜(短編小説)
月夜乃海花

かつての人間の愚かな行為によって世界は変化した。植物も無くなり、常に雪が降るようになった。海は雪で埋まり、凍りつくようになり、いつしか、人類は半分以上いやそれ以上減少していた。そんな中、都市フリギスではとある工夫を行なっている。雪を利用してエネルギーを生み出しているのだ。
本来、自然エネルギーからの発電は効率が悪いため、推奨されないのだが人間にはもはや手段は残されていなかった。嫌なほど、大量に降り積もる雪を溶かして得られる雪エネルギーを用いて生きていくことを最期の人々は望んだのだ。都市フリギスは実際によく見ると塔構造になっており、上に行くほど大統領や市長などの上流階級の人間が生活している。塔の中心部では一般民が、その下ではソルディモという民族と呼ばれる人間たちが暮らしている。ソルディモは雪エネルギーの管理を行なっている。溶かした雪は全てソルディモの住む塔の底の穴から出ていく。溶かした雪は真っ白な雪とは異なり、ヘドロのような色をしており、まるで毒のようだった。それらを扱うものは自然と穢れを扱う者「ソルディモ」と呼ばれるようになった。一方、ソルディモに対して一般人は上の民とソルディモから呼ばれていた。
雪が止まらなくなった世界には朝は来ない。常に雲が覆っており、暗い世界を静かな太陽色の電灯で照らしている。その中、ソルディモの少年ナディエは走る。
「遅いぞ、糞ガキ!」
職場に着くと先輩の男から殴られた。たった十五秒の遅刻だ。
「俺たちには遅刻が許されないと何度言ったらわかる?上の民さんらのために早急に雪を溶かさないといけねぇんだよ。いい加減にしろ!」
さらに殴られる。この話は何度もされているからだ。
「母の熱が治らなくて。」
今日のナディエはいつもにも増して薄着だった。普段のナディエは上の民が塔の底に捨てる布から創り上げたつぎはぎのコートを身に纏っている。次にほつれにほつれたシャツ、ソルディモの友人に譲られた燃えて穴だらけのズボンを着ていた。「またか。殴って悪かったな。お前も可哀想にな。かーちゃんの身体が弱いってだけでこの扱いだもんなぁ。」
「母さんの悪口は言うな!」
ナディエはただでさえ、神経質な性格であったが特に母の具合が悪くなってからはもっと鋭い眼光で人を睨みつけるように、餌を狙う鷹のように生きるようになった。
「はいはい、お前にも父親が居たら多分上の民として生きれたんだろうなぁ。」
ナディエは本来、上の民でも上級と言われる貴族の身分であった。だが、父親に側室のような状態にあった母が子供を産み、身体を壊した途端に即座に都市フルギスの底、ソルディモの街に降ろされることになったのだ。母は生まれて間もない赤ん坊を抱えて泣きながら、電籠に乗った。電籠というのは電気で動く牢屋のような籠のことである。
「私は本当に『下』に行かないとならないのですか?」
「当たり前だ。お前の病が伝染病だったら、汚れるだろう。近寄るな!」
数日前は優しかった兵士は今はまるで命をとる戝のように電籠に女と乳児を乗せる。乗せて、しばらくすると油の足りない機械音が鳴りだす。ゆっくりゆっくりと電籠は降ろされる。電籠の行く末を上の民は知らない。電籠は乗ったら人は死ぬ者だと思われていた。
母親と赤ん坊が震えて、泣きながら電籠にたどり着いた底はブリキで出来たような街だった。ガタンと音が鳴る。電籠は底に辿り着いたことを示していた。
「私は、生きている、の?」
呆然とする母と泣き続ける赤ん坊。
「んあ、また人だべな。」
電籠の周りにはボロ衣を纏った人が集まる。
「可哀想に赤ん坊が泣いとるわ。」
ソルディモは時々電籠で降ろされる人々を受け入れる。それしか方法はないのだ。電籠で降ろされたものは登ることは出来ない。それが都市フリギスでの規則であった。ソルディモはこの母と赤ん坊の服装からすぐに上級の人間だと理解した。この「お嬢様と赤ん坊」を扱うのは正直面倒であった。普段なら電籠で降ろされるのは罪人や老いた一般民であるためであり、上級の人間が降ろされることなどほとんど無いのだ。
「どうすっべな。」
「とりあえず、アタシの家に匿うよ。」
「おめー、優しいなぁ。」
ソルディモたちはそれでも優しく出迎える。一方、何も知らぬまま育ち結婚し、子供を産んで黒く錆びた世界に降ろされた母は泣くことしかできなかった。子供は何かを悟ったのか、じっとソルディモの人間を見つめていた。
それから八年経った。
ナディエは何とか周りのソルディモの協力で育ったもののソルディモの人間を憎んでいた。母の病の具合は悪化するばかりで最初はあれだけ興味本位で集まっていたソルディモもしばらくしたら忘れるようになった。ソルディモはわずか四歳の時から雪を溶かす炉、雪炉で働くようになった。母の薬を買うために。かつて、母は言っていた。
「いつか上に帰ろうね。」
今は咳だけで呼吸が精一杯で話すことすら無くなった。
ナディエには友人というものが居なかった。ずっと働いていたために話すのは雪炉の人たちしか居なかった。だから、人との接し方もわからなかった。せいぜい、本音を出せるのは母の様子を見に来てくれる女性カリムにだけであった。カリムはナディエや母のことを孫や子供のように可愛がっていた。ナディエが働いている間も時々、カリムは母の様子を見に行って世話をしているのである。だからこそ、ナディエは集中して雪炉で労働できるのであった。
「痛っ!」
雪炉の労働は過酷である。バケツでソルディモの街の端の貯雪庫から雪を運び、そして熱い炉の中に雪を入れ続ける。
ただそれだけの作業である。その代わり、火傷をするもの、逆に雪で凍傷するもの、怪我をする人が後を経たなかった。
「ナディエ、またかよ。本当下手くそだな。」
雪炉の先輩、アルヴェはナディエが四歳の頃からなんやかんやで雪炉での面倒を見ている。初めは雪を持ってくるためのキャタピラすらまともに扱えず、キャタピラを壊すのはいつものことだった。それでも、涙を流しながら、
「もう一度だけやらせてください!」
と諦めることを知らないナディエの姿を見ていると放置できなくなっていた。
ナディエが八歳になり、やっと半人前程度になった。ただ、母の病状が悪化したことにより、始業時間への遅れが激しくなった。とはいえ、数秒であるが。ソルディモには僅かな時間さえ与えられないのだ。与えられるのは最低限の食料、服、そして大量の雪と熱い炉だけであった。
「僕は諦めませんから。」
ナディエは独り言のように呟き、雪炉に雪を投げ入れる。まるで今までの恨みを炉で融かすかのように。
「そうか。」
アルヴェには兄弟が居る。その中の末っ子がナディエと同い年であり、細くて千切れそうな身体をしていた。たまにその末っ子とナディエを重ねて見てしまうのだ。
ソルディモと言えど、子供まで労働をする必要はないのだ。一応、学校などの教育施設やソルディモが底のごみで創り上げた遊具のある公園。子供が遊べる場所は零ではなかった。
「お前は『遊びたい』って思わんのか?」
「思いません。遊びが嫌いですから。」
ナディエは実はソルディモの学校に通ったことがある。しかし、それは二日も続かなかった。授業内容は全て母が数冊持ってきた事典に全て書かれていたものであった。授業中に笑う子供達、休憩中に遊ぼうと話しかけてくる子供達が憎くて仕方なかったのだ。お前達の家族は元気な癖に。ナディエは労働以外の時間はひたすら、学んでいた。母の持ってきた事典は何十回と読み、ボロボロになっていた。ある時、カリムが書物のある場所を教えてくれた。これまた街の外れであるが、さまざまな物が落ちる場所があった。上の民の廃棄場の物の着地地点である。そこには食べ物から服から様々な物があった。そこから七分ほど離れた場所に行くと様々な書物が積み上がっている場所があった。
「もうほとんど誰も来ないんだけどねぇ。」
カリムはそう言いながらもここには書物が落ちてくるということを話した。
「書物が落ちて、頭にでも当たったら死ぬから気をつけて選ぶんだよ。」
カリムが去った後、じっとナディエはその書物の廃棄場を書物を読みながら眺めていた。何十分、何時間か一回、新たな書物が落ちてくる。書物が落ちてくる。ただひたすら。
ナディエにとって、いつも融かしている雪よりもこの落ちてくる書物の方が雪のように見えた。とある書物には雪は氷の結晶であり、真っ白で美しいものだと書いてあったのだ。ナディエにとって、その本の雪を眺めるのが唯一の趣味であった。
炉に雪を融かし続けて、何時間か経った。
「もう今日はいいぞ、ナディエ。これが賃金だ。」
ナディエはごく僅かな賃金をもらうとお辞儀をして走り去っていく。ナディエにとって時間は一番大事な物であった。
「ただいま!」
家に帰ると咳をする母、そしてカリムが居た。
「あら、おかえり。早かったねぇ。」
「今日のお金です。」
カリムに賃金を渡す。
「あら、ありがとうね。」
「いえ、いつもこうやって僕が働けるのとカリムさんが母の様子を見に来てくれているからですから。」
「ナディエは偉いさねぇ。いつも働いて。それに今日、コートを羽織らなかったろう。風邪ひくよ。今からスープを作るからしばらく待っててなぁ。」
カリムに対して、無言で会釈をすると母の様子を眺めた。どんどん悪化していく母の病。ソルディモの医者に見せても「この病の原因はわからない。恐らくいつか死ぬだろうということ以外には何もわからない」ということだった。ナディエは毎日の賃金をカリムに渡しつつ、一部を母の薬代として貯金していた。そして、数年に一回薬を買う余裕が生まれた時に薬を買うのだ。ここまで母が長生きできたのは薬のおかげである。母の顔を見ると、いつも母の苦労を考えてしまう。上に捨てられた母。下でも放置された母。カリムが居なければあっという間に二人で餓死していただろう。時々、泣きそうになるがそれでも耐え続けることにした。いつか報われる日を信じて。
「いつ薬は買えるのかな。」
貯金箱を見つめるとあと三ヶ月程度で薬が買えるほどには稼いでいた。もう少しだった。
「ほら、スープが出来たよ。」
「はい!」
ナディエは率先して食器の準備をする。
「今日は珍しく野菜が落ちてきたんだよ。」
「本当ですか?!」
「このスープで少しはお母さんの病状が安定すると良いんだがねぇ。病を治すには栄養が無きゃ何もならねぇからなぁ。」
ソルディモの街に落ちてくるものはゴミばかりでいつも肉の破片や骨、腐った魚ばかりであった。野菜が落ちてくることなど滅多になく、あったとしても何処かの葉っぱなどよくわからない植物であった。
「久々に綺麗なスープを見ました。」
「だろう、だろう。」
薄く黄金色に光るスープには緑色の野菜、橙色の根菜が入っていた。
「これは人参というものでしょうか。」
「そうなのかい?」
「事典で見たことがあります。」
「ナディエは頭が良いねぇ。」
「確か、この野菜は栄養的に母の病に効くと思います。夜目に効くと聞いたことがあります。」
そう言うと自分はスープをほんの少し食べて、残りは全て母に食べさせた。
「母さん、口を開けて。」
母はゆっくりと口を開ける。ほとんど話せなくともきちんと人の言葉は聞こえるのだ。
カリムはこの様子を見て泣きそうになった。もっと自分が世話してやれたらいいのに、と。カリム自身も頭は悪い方ではない。栄養という単語を知るソルディモなどほとんど居ないのだ。カリムがきちんと教育を受けられたのはソルディモの中でも比較的裕福であり、最低限の教育だけではなく、知識人のコミュニティがあったために様々な人から生きるための知恵を教わったのである。知識人のコミュニティの人々は今は老衰で亡くなったか、生きていてもほとんど動けなずにましてや話すことすら困難な状態である。だから、ソルディモの教育水準は下がっているのだ。みんな働くことに必死になって、学ぶことを、生きる希望を、忘れた。ただ、その結果である。
いつまで人は雪を運び、融かし続けるのか。
ソルディモが絶滅するまでか、それともソルディモが居なくなったら上の民が降りてくるのか。それは誰にもわからない事柄であったし、そんなことを考える余裕すらなかった。助けを求める暇があるなら、自分で動くしかない。そうでなければ死ぬのみ。それがソルディモにとっての掟であり、矜持であった。また、今日もガラガラと電籠が降りてくる音が聞こえる。


散文(批評随筆小説等) スノーディストピア 〜穢れた民の逝き道〜(短編小説) Copyright 月夜乃海花 2020-12-02 03:51:49
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