11.30メモ
道草次郎

この世には弱い理性と、強い理性とがあるように思うことがふんだんにあるけれど、じつは理性に優劣はないと思う。というか、ない。あるのは人間の判断だけだ。判断というものに理性はなんら関係を持たない。理性はそれだけで事足りる、立像かなにか。同じように、弱い想像力と強い想像力というものもない。想像力があるだけだ。想像力に貧困はない。想像力の根幹に何があるかをしめそうとすると、想像力はにげる。それは、どんな想像力だってそうだ。虫の想像力だって、虫から逃げるだろう。

善いことの中に悪いことがあり、悪いことの中に善いことがあるということは、つまり善いことの中には善いことしかなく、悪いことの中には悪いことしかないということでもある。

世界の破滅に救われるような気になる人間もあるだろうし、世界の破滅にもかかわらず相変わらず救われることのない人間もあるだろう。破滅の間際においても変わらないことがあることは、大変おそろしいが、引きのカメラだと全く滑稽そのものだ。

分かっていないことを分かったように云うことを言うのは容易いものの、分かったことを分からないもののように言うのには、ひじょうな意識の倒錯が起こる。なぜなら、分かったことなど有り得ないのだし、ということはつまり分かったことはじつは分からなくもあるワケで、それについてさらに分からないことをみずからに畳みかけているのだから。それはまるで、混沌の海に混沌の太陽が没するみたいにワケがわからない、かも知れない。


なにか理性らしいものが算数を解くだろうか。解かない。では、何が解くだろうか。何も解かない。算数とはなんだろうか。それは、イコールを挟んだ右と左が、おんなじだという事情に、いくつかの筋道を与えることだろうか。あるいはそのいくつかの筋道が相互にどうやって置換えられるかの説明にじゅうぶん論理的な根拠を有していることか。しかし、そうしたいきさつに理性を差し挟む余地があるとは、まったく思えない。そもそも理性とは何か。理性の定義とは、なにか。わからない。辞書を引いても分からない。辞書には書かれていない。辞書どころか、どこにも、無い。そして、なんの語のなんの定義も存在しない。理性、定義、辞書、これら3つの言葉をとってもそれが何なのかがわからない。分からないことを使って分からないことを指示している。置き換えている。理性とは何かはわからないが、算数でしていることが、ものの本質そのものと同じであるというのはそこはかとなくわかる気がする。そうやって感じるのが理性というなら、なぜ辞書にそう書いてないのか。やはり、理性は存在しえない空中楼閣なのだろうか。人間がいるのといないのと、どっちが宇宙にとってポジティブなんだろう。1ミクロンでもポジティブなら、銀河100兆個分のお祭りだ。冗談。


宇宙帰りである事を忘れたら、その人は虜囚となる。時の虜囚、空間の虜囚、個人の虜囚にだ。人は誰しもみな気付かないだけで、銀河鉄道の復路にある。「ジョバンニ」と唱える。すると、わずかに恥ずかしく、かたや、地の果てまで救われるような感覚をまざまざと覚える。



散文(批評随筆小説等) 11.30メモ Copyright 道草次郎 2020-11-30 23:00:10
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