遺失の痣
ホロウ・シカエルボク


蜥蜴が乾涸びて鮮やかな炭になってた、それは現実に路上で起きたことだった、だが俺は、どうしてもそれが真実だと信じられなかった、時に真実はあまりにも単調で、ウンザリするほど単調に過ぎる、踏みつぶせばそれは、形を失くすだろう、踏みつぶせばそれは、灰になるのだろう、小蝿が人に集り続けるのはきっと劣等感からさ、数珠を左手に巻いた老婆とすれ違う外れの国道、笙の音色に似た声の鳥が鳴いている、空は治りきらない蕁麻疹みたいにじくじくとして、信号待ちで左の鎖骨のあたりを掻いてしまう、斜めに刻まれただろう幾筋かの爪傷が語りたがるのは上昇か、それとも落下だろうか?風が吹き抜けるたびに誰かの囁きが聞こえる気がする、俺は時計を見ただろうか、安物の腕時計は午前遅くを示していた、時刻なんてアナログの文字盤程度に知るのが一番いい、靴底は人生とともに擦り切れる、でも靴を変えるたびに新しい世界が始まったりなどしない、時々は比喩にすべてを頼り過ぎる、わかるだろう、色を付けない限り白か黒しかない、ゴム底はあまり音を立てない、でもリズムを生むことは出来る、聞こえる音だけが音ではない、海の方へと曲がる緩いカーブを曲がると堤防沿いの小道は銀杏の葉で埋め尽くされていた、幾つかの葉が助けを求めるみたいに、あるいは何かを企んでいるかのように、俺を手招きしていた、道に落ちたものばかりが語りかけてくる、ヘリの音がして空を見上げる、はっきりとはわからないがドクターヘリのようだった、そういえばこの近くにヘリポートのある病院が建ってたか、友達はその病院をやたらと嫌っていた、そういえば蕁麻疹持ちのやつだったな、体調不良で退職したらすっかり良くなったって笑ってた、このまま海を見に行くのはよくない気がする、俺は踵を返した、元来た道を帰ろうとして、いままで気にしたこともない小道が気になった、迷子になるのもいいかもしれない、あるいは、長く歩いた挙句行き止まりになって引き返すようなありさまでもいい、それは街中で言うなら、古い住宅地には必ずある路地裏のような道だった、両側には背の高い雑草がただただ生えているばかりだった、もともとは何かがあったのか、それともずっと昔からそのままだったのか、ほんの少し草を搔き分けてみてもそれを教えてくれるものはまるで見つからなかった、そんな道が四十分近く続いた、一本の枝がこれ以上通るなという風に脛の高さに横に渡されていた、両端がどうなっているのかと探してみたら束ねた草に縛りつけられていた、誰かの土地なのだろうか?でも訪れるたびにこの枝を解くのは相当な手間だろう、少し迷ったが跨いで先に行くことにした、ただの行き止まりの印だろうか?それならそれで、どこで終わっているのか見てみるだけだ、それからまた半時間は同じ景色の中をただ歩いているだけだった、そして、朽ちかけた一軒の廃屋に辿り着いた、おそらくは小さな畑だったのだろう草塗れのスペースの後ろに、古民家を改装したみたいな平屋の一軒家だった、家の中心にあたる部分の屋根が陥没しかけていた、その家からどこに続く道もなかった、新しい造りなのに、とてつもなく古いもののように見えた、そして、孤独を守るためだけに建てられたようなものに見えた、玄関は開いていた、あまり広くない、二人並べばいっぱいになりそうなその玄関に、女が座ってこっちを見ていた、俺が会釈をすると、女もそうした、俺は近づいていった、女は一昔前に流行った膝までのゴツゴツしたブーツを履いて、身体をすっぽりと覆うようなグレイのコートを着ていた、そしてなぜか、雨も降っていないのに全身がほんの少し濡れていた、君の家?と俺は訊いた、女は黙って首を横に振った、口にするような言葉は持っていないの、と話しているような仕草だった、次は、雨宿り?と訊いてみた、どうかしら、というように女は首を傾げた、少し中を見て歩いてもかまわないだろうか、と俺は訊いてみた、なんなりと、ご自由に、というふうに女は左手を、手のひらを上に向けて屋内を示して見せた、俺は靴のまま上がって、家じゅうを歩いた、特別何もない家だった、ただ浴室だけが、不思議なほど汚れていた、まるでそこだけで誰かが生活していたみたいに、俺は薄気味悪くなって玄関に戻った、楽しかったか、というふうに女が俺の顔を見た、俺は女の真似をして黙って肩をすくめた、「君は見なかったのか?」うん、「ひとつだけおかしなことがあったよ」俺は浴室のことを話した、女は黙って聞いていたが、俺を見たまま急に目を大きく見開き、途方もない悲鳴を上げた、目一杯歪ませたギターの高音弦のような声だった、俺は唖然として、悲鳴を上げる女とただ見つめ合っていた、永遠に続くのだろうかと思われた悲鳴は電源を切るみたいに途切れ、女は立ち上がり、唯一の道へ向かって駆け出した、追うべきだろうか、と考えているうちに別の世界に吸い込まれるみたいに消えた、俺はしばらく目の前の景色を眺めていたが、それ以上もう何も起こらないだろうと悟ると、立ち上がり帰ることにした、玄関を出て、少し歩いたころに、背中で何か小さな音を聞いたような気がした、振り返るとさっきの女がさっきと同じように玄関に腰を下ろして、俺を見て微笑み、さよならという風に右手を振っていた、俺は右手を振り返して、そのまま国道へと戻った、自動販売機で飲物を買い、自分がまだ生きていることを確かめた




道に落ちたものばかりが語りかけてくる。



自由詩 遺失の痣 Copyright ホロウ・シカエルボク 2020-11-22 00:52:38
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