長い失読の状態について
道草次郎

個人的な事で恐縮だが、ずいぶん長いこと失読の状態が続き、もう、右も左も訳も分からずいることが多くなる近頃にあって、一つだけ読める文章がある。

その文章はたったの十五行である。岩波文庫版 柳田國男著『遠野物語 山の人生』収録の「山の人生」冒頭の不幸な女の話だ。

ご存知の方もおられるかも知れないが、もしご存知なければとても短い話なので、お読みになってみてもいいだろう。

九州のとある町に住む若い女が男と逃げて、生活に困窮し、故郷へ恥を忍んで帰ってみると身寄りの者はみな死んでおり、赤ん坊ともども親子三人で身投げをしてしまうという話である。結果、女のみが死にきれず生き残り、刑に服すこと十二年、娑婆へ出てみたがその後行方知れずというそれだけの小文だ。

こういう話の持つ力の前では、色々な「もの」や「こと」のカタチ〈輪郭〉がはっきりとしてくるのである。人生とは何なのか、がはっきりとしてくるのではけっしてない。人生とは何なのかと問うことを自らに許すことのその罪の深さそのものが、より、際立つと言う方がただしいように思われる。

これは、別の言い方をすれば、読むという行為、もっと言えば、「読む」態度の自覚の深まりとも言える。

つまり、こう言うことだ。人生とは何なのかということを考えることの罪深さを徹底的に自覚させてくれる読み物しか、今の自分には読めない。そして、そういう読み物は自分にとってはかなり稀である。

これは、けっして物事を深く考えるゆえではない。それは寧ろ、倒錯した自己愛がもたらす毒の盃かも知れない。たしかに、何かを読み、その判断を躊躇わないような文章は読むまでもないし、逆に、人を逡巡させることのみが目的のようなものも虚しいと思えるが。

今は、ひとえに、読んでいる主体としての自分がその繋がりに於いて大地と同根かつ不二のものであるという自覚のみが必要なのかも知れない。

だとしたら、なぜ読むことに執着をするのか。これは、こんな事は、こうして晒すことでは本当はない。本来は黙って、この場を去るべきだろう。しかし、しかしと言ってしまう自分というものがいる。どうしても捨て切れない、割り切れない、断ち切れない想いというものを、自分はあまりに多く持ち過ぎて久しいのだ。

詩を書くことが何なのかはわからない。とにかく、書くことがただ漠として存在している。そして、読めない。読めたら、もう書かないのは明白である。

このような呪術にかかっている者の存在を管見ながらも知り得ない無智、これはやはり、失読よる弊以外の何ものでもないような気がしてならなくはないのだが。


散文(批評随筆小説等) 長い失読の状態について Copyright 道草次郎 2020-11-19 21:52:28
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