新居
墨晶

 
          掌編

 内見のとき、不動産屋は部屋の窓を開け、済まなそうに、
「ええ、見える景色がこんなですから、正直人気がない物件なんですが」と云った。しかし、「人気がない」と云う言葉が、借りる決め手になった。窓の外、視界に広がるのは、墓地である。
 お寺の裏の路地の行き止まりにある古いアパートの一階だ。引っ越し業者の青年たちに、「こんな奥で申し訳ないです」と、飲み物の缶を渡しながら云うと、
「慣れてます。でもお客さん、荷物少なくて助かりましたよ」と首に巻いたタオルで顔の汗を拭きながら笑った。
 わたしを知る者が誰もいない町で、新生活がまた始まったのだ。


 新しい、食堂の給仕の仕事も、忙しいが一週間順調に過ぎた。
 今日は休日なので、カメラを持って町内を徘徊しようと思っていた。以前勤めていた写真館が閉業するとき餞別でもらった白黒フィルムをカメラに装填し、気に入っているベージュのステンカラーコートを衣類の収納箱から出した。防虫剤の匂いのコートはたたみ皺があったがわたしは気にしない。わたしは何よりコートを着る季節が格別好きだからだ。
 姿見の前で帽子をとっかえひっかえしていると、玄関のドアを乱暴に叩く音がした。「シヤクショノホウカラキマシター、アケテクダサーイ」と誰かが怒鳴っている。チェーンを掛けたままドアを少し開けると、訪問者の手がドアの縁を力一杯掴み、わたしの目の高さのチェーンがピーンと張った。そして、隙間に傷だらけの革靴を突っ込んできた。付け焼刃の様な眼鏡を掛けた無骨な日焼けした顔が、先ほどの怒鳴り声と打って変わった猫撫で声で、「コノドアヲアケテイタダイテイーデスカー」と作り笑いで云う。どうしてこう云う人たちは新参者をすぐに嗅ぎつけるのだろう?


 チェーンを外し、ドアを開けると、薄い鞄を片手に下げた大柄の男の卑劣さを恥じていないような顔は一瞬で歪んで硬直した。瞳孔が開いた眼鏡の奥の震える両眼はわたしの背後の部屋の奥を見ていた。程なく、男は絞り出すような声で絶叫した。鞄を振り回し、何度も転び、叫びながら路地を駆けていく男の後ろ姿を見るのを途中にドアを閉じると、何か大きな物同士がぶつかり合うような音が聞こえた。わたしは薬缶に水を汲み火に掛けた。
 気分を戻したくて熱い焙じ茶を飲んでいると、今度は救急車の騒音が遠くで喧しい。もう外出する気分ではなかった。気が付けば、わたしは台所の隅の小さなテーブルで、鳩色のベレーをかぶり、コートを羽織ったまま数時間、お茶を飲んでいた。


 夜、寝床で読んでいる今日三冊目の本は読み終わりそうにない。もう眠くなってきた。町内の徘徊は次の休みにしよう。そのときは寂れた商店街の気になるあの喫茶店に入ってみよう。わたしは枕元の電気スタンドの灯りを消そうと紐に手を伸ばそうとしたが、ふと、それを止め、スタンドの傍らの畳をトン、トン、と拳で軽く叩いた。すると、コッ、コッ、と床板の裏側を叩く固い音がした。
「そう、また付いて来ちゃったのね」
 わたしは灯りを消し、布団を頭からかぶって横向きに寝た。
「でも、どうしてそんな暗い黴くさいところに居るのが好きなのよ?

 あなた」

                    了
 
 
 


散文(批評随筆小説等) 新居 Copyright 墨晶 2020-11-10 20:58:26
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