燃える秋へ捧げるもの
道草次郎

 書かないでおこうと思うことはむろん書けばいいし、書こうと思うことの大抵はただ、書いてみればいい。信濃路の秋を作り付けのファンタジーに貶めることなく、どうやったらそこに厚みある輪郭と衒うことのない調べを添えられるだろうか。
 ただしく考えることと、ただしくまようことが不断に入れ替わる、喩えるならばそんな寡黙な鉄砲をかつぐ猟師であれたなら、と思う。

 カントリーロードを歩く背の高い男の背中。そんな偉大な秋の支点が欲しい。こうして書いているコトバも、一字一句残さず指の火で拾いたい。その場合、それが理性ではなく多くを汗腺に負うものであれば、尚、良いのだが。

 野に、人のいたたまれなさは見当たらない。永劫の時の名残りをとどめた褶曲のみが秋にはあり、そこには涙も、遺跡も、戦争すらも現生しては来ない。そこには影ばかりが多く、一体どの影が、無数にある他の影の面積に複雑な凹凸を与えているのかが、全く判らない。

 読めなくても、読めないそういう自分をみとめたい。少しおちついて、長く歩いてみようと思う。自分の理解力の限界と想像力の臨界が、足取りに加わる地面からの抵抗により、ふと、思春期を終えることもあるはずだから。

 力の無さは如何ともし難いが、思えばぜんぶ天が決めることだ。何はともあれ、この拙文を貶めてはいけない。ついぞ心に寄る辺をもたずに来て、言葉それのみに縋ったいきさつは、自分が一番よく知っている。言葉は、縋れるものではあるが、縋るべきものではきっとない。
 
 自生の花。秋の野には、まだたくさんの花が咲いている。それをこそ見よう。見るだけは、見られるのだ。

 構わないだろうか、それを恩寵と言って。庭へ征く。


 どうして、宿根バーベナがひじょうに低く可憐に風に揺れるさまを、ぬれた白い鉢植えがコンクリートの上で夕陽に照らされ美しく輝くさまを書かずにいられよう。
 そして、控えめな八重咲きの秋薔薇のことも。それは濃い桃色をしていて、棘を隠し持つ葉には珠のような水滴が幾つもくっついている、まるで幼子の涙のように。

 よく観れば庭の至るところには、つゆが満ちている。秋風にふれたつゆは冷たく張りつめ、くるしそうでもあり、だが陽をまとうとそれは、憩うてもいるようだった。

 白い秋桜の花びらは数えて八枚だ。真ん中には意外な大ぶりの黄色い筒状花がすえられている。堂々としたそのたたずまいにたじろぐのは、むろん人間の方である。幾本かの秋桜は、ひょろりとしたその茎を斜交いにして風の成すがままに揺れていた。風が強ければ薙ぎ倒されんばかりに、弱ければ、優しくうなずくように。

 柘植の常緑は晩秋にあってもその濃さを失わない。赤い実ばかりを各所にちりばめ、じっと黙っている。家人が退けば何処からか小鳥が舞い来て、きっとその実を啄むに違いない。

 ブナの大樹は風相手に、動的に、そして時に静的に受け身の練習にいそしんでいる。その様子を立って眺める。この樹の、今現在の色彩を表そうと思えばパレットも絵具も到底安物では足りないだろう。火のようなあのくれないが、まさか、かの涼しげな淡い黄緑色の葉脈をつたい、枝ぶり逞しい秋の上腕を染め上げようとは誰にも想像できまい。炎のようなくれない、臙脂、未だ染まり切らぬ黄緑色、緑葉、そうしたもののバランスがブナという一朶の統一体に脈付いているのだ。

 雲一つない青空を老いた手で掴む柿の木。古びた樹皮を剥がすと、その下からやや色うすい幹の脛が顕わになる。地に目を遣れば、そこには散り敷かれた枯れ枝と濡れそぼつ病葉の数枚。仰ぐなり蒼穹が覆いかぶさってくる。点在する実のおよそ半分は烏によりすでにつつかれており、降霜直前に時をさだめ収穫をおこなう人間に残された恵みは、どうやらほんの一縷のものに過ぎなくなりそうだ。

 ここ秋に於いて、閑けさはじっさい何処にあるのだろう。森に在るとは思えない。里に有るともまた考えられない。秋は、ただ、さやさやと風とともに哭いている何かの気配の総体のようだ。木の葉の一枚すら、舞って地に落ちるまでに無窮の月齢をようするとさえ想われてくる…どうも心が秋の帳尻を気にし始めてきたのを感じ、しばらくぼんやりと年月の事などを考えてみる。やにわに鳥がバサッと羽搏き、ハッとして正気にもどる。

 遼くの峰々にこころをなげてみる。すると、びっくりした鉄塔が肩をすくめる。山に陽が射している。山肌の所々に清潔な影の部分ができて、えも言われぬ風情を醸しだしている。最初喜んでいたかに見えた日向も、やがて影のことが気になりはじめたのか影にすり寄りだす。むろん、その慕わし気なそぶりは儚く袖にされる。互いの境界は無限に一定の距離をたもちながらなだらかに尾根をうごいてゆく。


 庭の縁まで来て、しばし目を瞑る。

 まぶたの裏には、銀色をした芒の穂が透明な風にさらさらと波立っていた。
 脳裏のほとりには、千曲川堰堤に果てしなく植えられたソメイヨシノがうつくしく燃えたっていた。
 胸底の谷には、一羽の鷺が山おろしの風に身じろぎもせず、中州の叢にその嘴を突きたてていた。

 高台が欲しい、と想った。
 山に囲まれた北信濃の盆地を見おろせる高台が。
 眼下にあるそれら一軒一軒の屋根に噛みしめられた物語と、そこに住む人々の生きざまこそ今の自分には必要なのだ。

 足りないのは解っている、それは暮らしと営みに対する眼差しであり、こころなのだ。


 目を開ける。
 しかし、どうすれば良いというのか。茫漠として、この先の道はひろがっている。どこまでも、果てしが無いように。足下の大地から夕焼けがじょじょにしのびよって来るのがわかる。もうそろそろ、夕食のしたくの時間なのだ。

 落ち葉を踏みしめながらぼくは、来た道を、生活のために戻っていく。
 その足どりもまた秋の囁きの一つであると、ただ残照のみがやさしくそう教え諭すかのようであった。


散文(批評随筆小説等) 燃える秋へ捧げるもの Copyright 道草次郎 2020-11-08 21:05:11
notebook Home