10月31日雑記
道草次郎
今日は主に庭の雑事、それから農地の草刈りをした。
北信五岳は早くも雪をまとい始めている。秋風の透明さよりもその厳しさの方が身に染みるようになって来た。今のうちにしなければならない事は、早めに片付けておきたい、そんな風に思うのも季節の移ろいのせいだろうか。
畑に関しては、今年は大根を蒔かなかった。ふつう晩夏か秋口には種蒔をするものだが、今年は諸事情あって冬のさなか必ずしも収穫する手が存在するのかが不透明だった為、それを断念したのだ。それでも、玉ねぎの苗だけは植え付けようと土は拵えてある。
この辺りの地方では玉ねぎの苗の植付けは、だいたい十月下旬から十一月上旬というところだ。玉ねぎは知っての通り冬を越し春に眠り、初夏にもなろうかという時節に収穫を迎えるのだ。
日々、坂道を下るようにして冬へと近付いて行く秋。銀杏などの色付きも、本当に日に日に色を加えていくのがよく分かる。今年に限っては、ハナミズキの紅葉が記憶する中では近年で一番美しい。赤い実をたくさん付けたハナミズキの濃い赤黒い葉が朝陽に照らされると、なんとも言えないトパーズピンクのような耀きを放つのだ。
刈払機で草刈りをしているとその手応えの夏との違いに気付かされる。ヘタった雑草の上面をなでるとなんとも素直に平らになるのだ。秋だなぁと思う。しかし、末枯れた比較的丈高い草や、夏の間刈り残しそのまま放置していたアワダチソウなどは、逆だ。それを薙ぎ倒すと茶色いホコリのようなもの(花粉?種?)がたくさん舞い気管に入りひどくむせ返ってしまう。幾重にも折り重なるように茎が倒れるので作業が全く捗らず、何度もエンジンをとめて刃に引っ掛かった枯れ草など手で取り除かねばならない。微細な有害粉塵めいたものが肺胞に引っ掛かり、それが血管その他を浸潤するイメージがしばらく脳裏を離れなかったが、何事もないように作業は進められた。
庭では山茶花などの灌木の枯れ枝を数箇所落とした。なかでもキュウイの蔓の勢いが凄まじく、短刀のようなノコギリを縦横に振るいしばしの死闘を演じた。数年前に根元からチェーンソーで切られたとは到底思えない程の勢力を誇示していた。植物の生命力を改めて感じるとともに、それによってしたたか苦しめられしまった人間の図が人知れず展開される。
棗の枝を何本か剪定して梯子から降りる時、あやまって無辜の虫を踏み潰してしまう。汗をかいた背中が一瞬ぞわっと粟立つ。ほんの少しの悔いが秋風のように胸をスっとかすめていく。
柿の実の色づきを確かめる為また梯子に登ると、たまたまそこから大樹である山毛欅の、地上五メートルほどに位置する太い副幹の分岐部分が見えた。かつて三又だった幹のうちの一本を切りっぱなしにしておいたせいで、その部分はいつの間にか朽ちてしまっているようだった。もろに風雨に晒されたことにより、ちょうどお椀型に成形がし直されたカタチとなったその部位には、直径約三十センチぐらいにわたって雨水が湛えられていた。
なぜか気になったので一旦梯子を降り、梯子の位置を山毛欅の根方近くに移す。そそくさともう一度昇ると、その小さな雨水の池を覗いてみた。そこには、いく匹かの甲虫の死骸と縁を這う蟻、腐り黒ずんだ樹皮に這う蛞蝓の数体が認められた。ちょっとした神秘のオアシスを期待した子供が自分の中にいたのだが、その子供は早々に手を頭の後ろに組みいかにも退屈そうに何処かへ行ってしまった。自分もべつに思うところもなかったので、すぐに梯子を降りた。今度ばかりは足許に十分注意をして。
今日はそれから近所のホームセンターへ行きパイロット製ボールペンの替え芯と、隣接するスーパーにおいて500㎖のジャスミン茶を一本を買った。帰りがてらには、神社の樹齢百年は優に超すであろう紅葉樹の、陽に照って燦然を耀く様を眺めながら帰路についた。
秋。それは今まさに頂点に達しつつある一すじの光芒とみえる。そんな柄にも無い感慨をこっそりと此処に書きとめ、今日という一日に綴じる事とする。