詩と詩文(秋の感慨)
道草次郎

「瑠璃色の原理」


庭は秋の猖獗
秋桜のはなびらを数えたら8枚だった
8は傾ければ∞そういえば

秋桜のはなびらには
ところどころ
微細な穴があいていて
その穴の淵にさらに微小の生物がいて
深淵をのぞいていた

なもなきその生物にも瑠璃の排他性
かれの深淵も
かれを覗きかえすだろうか



「秋式」

イコールの両側にあるものへ
季節が指さすと

6と9が木の葉のように舞う
15のこがね色が秋にふる

左辺を抱きしめれば
笑う右辺のおとないをしる

把握の深まりと
地球の脱穀



「エピグラム」

揶揄の湯気が立ち込めた野辺で
出庫されたバーベナをみた
そんなのないと
葛がつつく
右にアナクロニズムの三角州
左と見せかけ
5次元立方体の影のまた影に
アメリカ大陸がある
斜視だ
カエルはみんな
しゃしだったんだ


「ノンセンス」

地球が旅する
長靴をはいて
海が蠍座になる
朽ちた夢のように
背中の猫は
ねこじゃらしの眷属
空気、風、政策綱領
酸の耳朶に
オゾンがスライドすると
暁新世がやや
うっ血



「おさな日和」

つまんない
どんぐり一つ
うれしいな
どんぐり二つ
やめてよお
どんぐり三つ
なかなおり
どんぐり四つ
みんなどこ?
どんぐり五つ
みんなどこ?
どんぐり六つ
みんなどこ?
どんぐり七つ
みんなーどこー?
どんぐり八つ
みんなぁ、どこぉ?
どんぐり九つ
こーこだよ
どんぐり十!



「詩の生成など」


 今、いささか頭が痺れている。それから頭痛も。帰宅するなり今をたけなわと庭に咲き乱れるコスモスの一輪の花びらを見た瞬間に詩の雷に打たれてしまう。慄然として、これははやく書かねばと焦りながら早々に顔を洗いうがいを済ませると、さっさと部屋に籠ろうと企てる。

 と、そこに母から一声。今日、竹内まりやの歌を聴いたとのこと。ひとしきりその感想を聞くことに。頷くために部屋はもちろん開け放たれままだ。たしかに竹内まりやが歌う『駅』は自分も好きだ。母の話に耳を傾けながら、どうしても気ばかり焦るのでちょうど手元にあった西田幾多郎の論考をぱらぱらと眺めはじめる。その間、遠くの人と子供の事でLINEをしつつ、バックグラウンドミュージックに現フォの誰かが聴いているらしいブルースを、YouTubeにさがし聴いてみる。時々母との話に冗談を挟んだりして、ちあきなおみ歌うところの『星影の小径』がなかなかいいよ、とこちらからも薦める。そんなやり取りのなか、異なるバージョンの詩を五篇ほど書いたら流石にすこし頭がおかしくなった。目がショボショボして、妙に胸がざわつく。

 母との話は次第にナツメヤシの枝払いと、繁茂してきたキュウイの蔓の除去についての話に移行する。果ては屋根の葺き替えの事にまで問題が至ってしまう。かねてから手付かずのままだった物置の整理や、畑に山と積まれた枝葉の焼却のことを考えるとさらに頭痛が加わった。しかも、デルタだとかスターだとか、そんないかにも肩をいからせた様なワードが頭を駆けずり回わるし、今日の配線実習では烈しくショートをかましてしまう有り様。金の算段も上手くいかないし、苦手なタイヤ交換のことを考えるとこれも頭が痛い。

 そんな状態にあっても底流にはいつも、一体いつになったらまともな文章を書けるのかという鬱屈とした気持ちがある。それはどうしようもなくダルい苦痛として、体の節々にまとわり付く真綿のような不快物だ。

 母の話に区切りがつくと部屋の戸を閉め、何年も前に古本屋で買ったアラン全集を引っ張り出してきて、少し読み始める。ところが、そのあまりの拙訳ぶりにとても読み進められない。ますます頭痛は募る。ロキソニン錠をコーラで流し込むと、しばし目を瞑り、遠くで電車が過ぎる音にあえて耳を澄ませてみる。

 本棚の端に岩波文庫のアランの『四季をめぐる51のプロポ』をたまたま見つけた。何となしに、ぱらぱらと目を通し始める。よい文章だな、と思う。けれど、神谷幹夫の訳は少しいただけない。もう少しどうにかならないか。でも、これはこれか、とも思う。好き好きか。

 本の思い出はじつは豊富だ。つまり、その本を得た時の思い出、である。このアランの小冊子『四季をめぐる51のプロポ 』を手にしたのは、まだ自動車免許を有していなかった二十五歳ぐらいの頃だ。猛吹雪のなか自転車で二つの大きな吊り橋を越え、隣接する市にあった比較的大規模の書店で買い求めたものである。あの日のことはよく覚えている。あまりの寒さに手袋の中で手を握りしめていた。そして、まだ熟さない詩への熱情を内に秘めていた時期で、自転車を漕ぎながら何千何万のついに書かれることの無かった叙事詩に新たな一ページを刻んだ。内向的に内向的にどこまでも。しかし、身体は、内側からはげしく熱く。

 とりあえず、これは散文ではない。これは詩文である、なぜなら先に挙げた幾篇かの詩の生成にまつわるささやかな物語がこの詩文に相違ないから。

 十年以上前にやっとの思いで手に入れた小冊子の中に次のような文章を見つけた。

 「何が問題なのかが完全にわかったら、その問題は解決されている。したがって解決とは問いの真に明晰な把握にほかならない。」アラン著『四季による51のプロポ〜「移動しない旅」より』

 それを運命と言ってもちっとも大袈裟でない気はする。過去のぼくが十年の歳月を見越して現在にこの本を送ったのか、それとも歳月の持つ本質がたんにこうした形で表れただけなのか。たしかに、やはり運命としか思えない。なんとなれば、アランのこうした示唆はまぎれもなくぼくが毎日職業訓練で感じていることだから。

 電気理論に必要な初等数学にも満たない種々の公式を見るにつけ、イコールを挟んで成り立つその成立条件が、すっかり世界の成立条件として見えてくるのを否定することは今のぼくには出来ない。ホワイトボートをぼんやりと見つめながら、どうしても世界の在り方や、詩の躍動すべきその輝く間隙に思いを致さない訳にはいかないのだ。これはほとんど病気かもしれない。詩に囚われたものの罹る病、詩病だろうか。

 そんな事を考えていたら夜も更けてしまった。明日も早い。感傷に浸るのもこれぐらいにして、現実に戻ることにするのが今はまあ順当だろう。

 常に本を求めてきた人間である自分は、それに嫌気がさしてここ数年は一切それと関係を断ったつもりだったが、こうして振り返ってみれば、人生というものの周到さにはじつに目を見張るばかりだ。

 ぼくはたぶんどうやっても言葉から離脱することのできない人種なのだ。今夜はそんな感慨を締めくくりとし、消灯することとする。





自由詩 詩と詩文(秋の感慨) Copyright 道草次郎 2020-10-26 22:58:40
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