腐れ華
道草次郎

苦しみの只中にある時、人の辛さを被う布となり底へおりる意識の錨となるのは安易、だという事は、なかなか忘れ勝ちだ。困難は、苦しみが拭われてから始まる。周囲を見回した時にこそ、初めて顕現する。霧が晴れた庭に、醜い毒の花があっても、お前の霧も、別の晴れた霧にとっては毒の花に過ぎなかったのだ。お前はその毒花から目を背けてはならないばかりか、全く、今度はその毒花の中枢へと自らを没入させなければならない。そうしたらそこに、呑まれず、安定した心を保ち、細心の注意とともに刻刻に息をころす意思を加える必要がある。この恐ろしい時間に堪え得る力を、お前は索し求め続けてきた。その力の根ざす所に美を見出したら自分は堕落すると信じて。数少ない例を除き、殆どの信仰はこの美に堕している筈だ、と。美を見出さず、しかもそこに美を発見する感動のうちにこそ、心の働きの妙はあるのではないか。お前はお前に定められた泥濘を、批判的な長靴で歩かねばならない。そして、蓮の花に焦がれつつも、泥の人とならねば、お前は本当の意味で奈落へと墜落するだろう。そして最後に、そういった一切の事は蒙昧に過ぎず、霧も、毒花も、美も、妙も一切が無なのだと知るがいい。無のうちにこそ現れやがて無へ帰するものの経緯を、一時を永遠とし、また永遠を一時とする心の働きの中で、謙虚に捉え直すのだ。捉えたら離せ。離したら捉えろ。常に、躍動するものの中に批判と心の信(まこと)を置け。お前は、お前の輪廻をまざまざと引き受けると同時に、何食わぬ顔で睦言さえも交わすのだ。


散文(批評随筆小説等) 腐れ華 Copyright 道草次郎 2020-09-29 22:43:48
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