-無題-
道草次郎

大して自分の事を知らない人にクズと言われ、よく自分の事を知っていると思っていた人に死ねと言われ、連絡を取ろうとした人には悉く無視をされ、そんな自分に耐えられなくて詩や俳句や散文を書いてきた。そこに何かがあると、命をかける何かがあると、本当はそんなもの何処にも無いと気付いているにも拘わらず、くる日も来る日も何ものかを量産してきた。しかし、ここに来て何もかもがどんよりとして目に映る。全ては虚しく、全てはかなしく。季節は巡っているが、自分は死人のように膠着している。もう、潮時と思われる。もう、これは何回目かの潮時である。これは憂鬱ではない。否定ではない。諦めですらない。黄昏であればまだ良いのだが、たぶんそうでもあるまい。すべては過ぎ去り、消える。先だってより一行も本が読めない、心身ともに極めて悪い状態にある。むなしい。このむなしさの源はしかし辿る意味もない。これは憂鬱を超えている。何もかもすべて過ぎ去ってゆく。それだけだ。生に意味もない。死に意味もない。意味に意味もない。有るものが在り、やがて消滅する。それだけの事に尽きる。語る事の、或いは詩を生み出すことの中に、人生はない。死もない。苦しみさえもない。ただ、そこに詩があるだけである。この道は確かに昏い。しかし自分はこの道を往こうとした。そんな自分のしてきた事はおどけだった。道化師でももっとうまく踊れただろうに。思えば虚無の傘がいつも自分を被っていた。もはや何も無い。じつは虚無さえもない。そして、このような事の一切は消える。それがこの世界の顔なのだ。心一つで変わりはするだろう。しかし、今は、ただ一つの心の影すらも見えない。ただ、そこに秋があるのみである。






散文(批評随筆小説等) -無題- Copyright 道草次郎 2020-09-24 12:29:10
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