メモ(正直なところ)
はるな
正直なところ、たしかに生活することは悪くない。湯を沸かし、布を洗い、床を磨き、花を飾る。娘の髪を梳き、夫の靴をそろえ、ときどき、外で花を売ることは。
どうしても今日死ななければいけないのに。という気持が45分おきにめぐってきて3時間続き、気を失うように眠って半日経つっていうようなのが、わたしの人生の半分だった。どうしてそう思うのかはわからないけれど自分が生きてるべきではないのだと信じてたし、けれども世界はあるべきものであって、苦しかった。あるべき世界にあるべきでないはずの自分があって、それがとにかくいやだった。どうしたら正しいのか、どうあれば自分がいることが正しいのか考えて考えて考えても正しいと思えなくて、いやだった。
物事は少しずつ変化して、とにかくいま生活をしている。考えているときは生活なんかしてなかった。お湯を沸かすことも床を磨くこともなかった。花はみるもので飾るものではなかったし、とにかく世界のあらゆるものはわたしの外側にあった、生活も。
わたしはとにかくさみしくて途方に暮れていた、誰もわたしにいても良いよともここにいなさいとも言わなかったから。健全な家族に生れて足りないとおもってはいけないのだと考えていた。真っ当な父と母にきちんと育てられたけれどもその時はとにかく生きていても良いと思えるための愛は足りなかった。
それで夫に自分と一緒にいれば良いのだといわれたときは嬉しくて嬉しくて、じゃあそうしようそれで良いのだと思った。だけど一人でいるとやっぱり生きていてはだめなのだと思った。自分がだれかのお陰で生きているずるい、悪いものと思った。とにかくまださみしかったので子供がほしかった。やわらかくてちいさくて可愛くて絶対に愛せると思った。そうしてやっとむすめが生まれたときは嬉しかった。はちきれそうな体もぶちあがる血圧もつらくなかった。乳が腫れるのも血が出るのも構わなかった。30分ごとに泣いて眠れないのも離乳食をたべないのも構わなかった。このときのために今までの人生の半分を眠って過ごしていたのかと思った。いつまでも自分から離れようとしないのも可愛くて、息をしてていいんだとおもった。はじめて人から必要とされた。
わたしはこの人がすこやかなように、生活をつくって、そのなかで生きよう。と思った。
けれども当然のように、わたしの生活のなかに、むすめの生活のすべてをいれることが出来る時期は終わった。いっときの素晴らしい贈りものだったと思う。
この家のなかに、わたしの生活と、むすめの生活(の一部)と、夫の生活(のほんの一部)がある。わたしはそれらすべてのために、湯を沸かし、布を洗い、床を磨く。そしてわたし自身のために、外へ出て、花を売る。
もしもういちど子供を産むことがあったら、また素晴らしい体験ができるかもしれない。
そうしたらまた生きていてもいいのだと思えるだろう。でもそのために子供をつくるのはあまりに邪とおもう。
それに、わたしは少しずつ折り合いをつけてきたような気もするのだ。
生きていてよいはずがないという考えと戦い続けるのはとても疲れる。考えて考えて考えても、生きていても良いと思えなかった。どんなに数をかぞえても。一生懸命働いても、詩を書いても、人を好きになっても。泣いてる娘を抱きあげる贈りものみたいな時間の外では、わたしはどうしてもだめなのだった。
だからわたしは頭のなかから出て、湯を沸かす。いっとき逃げて、靴をぴかぴかに整える。それを
生活というなら、たしかに悪くはないのだ。
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