註釈祭
道草次郎
※多義の豊穣、時々註解、ところにより駄洒落
ダイモス夜にのし歩く
電信
バサラ
ヒジュラ暦1853年のテレビドラマ
『聖地エル・サルバドル』
DIYコーナー指定料理
ロール壁紙は別
淡いピンクの象の巡回検診
マンモス・グラフィティ
螺旋状の子午線
別物理宇宙の
グリーン・ニッチ
※1第四天体の希薄なる空に架かるアトランダムな双子の片割れ、ダイモス。その光を何と呼びならわすべきか思案に暮れる…無論その事は末裔に託すにしてもそこは老婆心、御容赦を。
提案①じゃかいも後光②型崩れおにぎりシャイン③へちゃむくれビーム…etc.
※2闇夜にドッテテドッテテでんしんバサラの軍歌が響く。火星の砂塵をまき散らしキュリオシティの錆び付いた重たいケツを蹴り飛ばす。ドッテテドッテテ、ドッテテド。まずいぞ…バサラをググらねば…あ、成程ふむふむ。Wikiって便利だねえ…『別冊少女コミック』に連載の……いけねえ、こっちのじゃねえや(汗)ご、ゴホン。バサラとは、中世日本の南北超時代における流行語・傾奇者。婆娑羅とも。(ドヤ顔)あ、誤字だ。南北超時代!おお、災い転じて福となすとはこのこと。註釈に於いて新奇なるイマージュの顕現。然し乍ら註釈の註釈これ好事家の為すことなり。
※3ヒジュラ暦、ヒジュラ…ヒドラ…なんかカッコイイ。ムハンマドの聖遷に伴い定められた暦とのこと。いやはや西暦換算だと25世紀中葉か。なかなかにこりゃサイエンス・フィクション作家には垂涎の字面。量子テレポート華やかなる光年の日々、星間帝国を股にかけた一大遁走劇、或いは謎の球状星団の奥深くに分け入る単眼の賞金稼ぎとその一味、反転宇宙への物見遊山、半径数百パーセク以内地球外知的生命体絶無の宇宙年代記。打ち棄てられたダイソン球の内膜で発見を待ち続ける不可解なジャイナ教遺跡群…。
※4十字軍遠征が始まったのは、西暦1095年。初稿においてはヒジュラ暦1095年のテレビドラマとしたのだが、そうすると西暦換算で1695年らしく、それだと銀河系を射程に入れられないのでやむなく改竄。おかげで25世紀にかまけて紙幅を大分割いてしまう。故にエル・サルバドルのお話はまたの機会に。ちょっと安心。
※5駄洒落。ロールキャベツをひたすらロールさせて艱難辛苦の末やっと導き出した最終的究極解答。……………贅言無用。次へ(笑)
※6体験談。先ほど町で偶然見つけた乳がん検診車。お馴染みのマンモグラフィのピンク色の車。結論から言う。二度見したのだが、二度見のうちの一度目と続く二度目のあいだに宇宙的曼荼羅は展開した。
これは賭けても良いが国立国会図書館の何処かの棚には絶対に『誤視の文化史』とか『見間違いと共時性』みたいなタイトルの本がある、はず。車でマンモグラフィの検査車とすれ違った一瞬、つまり二度見の一度見(目)の瞬間、車体側面に書かれた文字をマンモス・グラフィティと誤読してしまったのだ。
二度見のうちの二度見(目)によって錯誤とそれに伴う混乱は斥けられはしたが、常識の宇宙が再び舞い戻っても哄笑めいた気分を逃がし切れず少し困った。時間にしてコンマ0.5秒にも満たない間ではあったがその印象の強烈さたるや喩えようもない。
マンモス・グラフィティ。この言葉に隠されているのは、絶滅した大型哺乳類たちの驚くべき青春群像だ。人新世として未来の地質学者に区分されるであろう年代の曙に於いて、血みどろの闘いを人類と繰り広げた偉大なる牙の持ち主達の恋と友情。彼らの寂しげな瞳の中に映った澄明な原始の大気にたゆたう大麻タバコの煙と、隆起して間もないユーラシア大陸の咆哮、そこでの性と暴力、家族の絆。マンモスもハイスクールに通っていたかと思うとさらに物語はその深みを増すのである。
※7グリニッジ標準時とはそもそもグリニッジ子午線が(経度0)における平均太陽時のことを指す。地球は一つの有意の天体ではない。従って、神の指が瑞々しいバイオロジカルなグミを抓むその夢も、漆黒に浮かぶフワフワな絨毯の上で神のグミが嬉しそうにとび跳ねる夢も何百年とやまない確率論の雨にふやけてしまった。
別の物理法則が支配しているせいで、どこまで行ってもただぼやーとした虚無が拡がるばかりの宇宙があるかも知れない。また他の宇宙ではビックバンが起こってすぐにビッククランチが起こったり、ビッククランチの収縮過程が膨張に比べ一兆倍緩やかな宇宙だってあるかも知れない。そんな宇宙で生じる生命の進化(逆進化?)は、どこまでも遅々としてしかその歴史を逆流しないだろう。一匹の魚らしき生物が陸から海に後退りするのに40億年かかることだって有りうる。
※8我々が四次元の陰影をここ三次元空間に於いて見い出すように、ある別の宇宙における螺旋状の子午線(これはもちろん比喩だが)も、グリニッジ子午線として三次元空間に投影さているに過ぎないという可能性も否定できない。グリニッジ子午線は別次元宇宙の子午線の残影に他ならないのかも知れない。無論そうした我々には想像すらできない宇宙の何処かに存在する惑星(これも惑星という比喩を使う他ない)に、植物に似た何か地球に繁茂しているあの緑のカーペットたちに近い何かが、どういった形で存在し得るのかは、想像の極北のさらに北に位置する事である。ましてやそのニッチたるや、ほとんど想像不可能ですらある。我々の数学の成り立たない宇宙、もしくは平生の論理の成立を拒否する別物理宇宙の子午線は、それでも螺旋(これももちろん比喩!)と言う表現を持ってしなければ、到底、この三次元的理解可能範囲に落とし込むことは不可能なのだ。ところでこの世界は二次元である。ここ、今まさにこうして文字を書き込んでいる紙面は二次元世界だ。そして、かかる二次元世界に三次元的な存在者が四次元以上(もしかしらそれは531次元かもしれないが)の次元宇宙=世界の経度についてしたためようとすることなどは、冗談を通り越してもはやとんちんかんな駄洒落以外の何物でもないのである。