残熱
道草次郎

Uさんのお宅へは何年も通った。Uさんは地元の新聞の俳壇に俳句を投稿していて、何年か前に期間賞の次席に輝いたことが自慢だった。その時のぼくは百人近くいる職員の中で唯一の男性ホームヘルパーだったこともあり、少なからず気難し屋なUさんの担当を仰せつかることとなったのだ。


Uさんは壮年の働き盛りの頃、作業現場の足場から転落し首の神経に深刻なダメージを受けていた。胸のあたりから下がまったく動かなくてベットでずっと寝ていた。どうやら小さい会社の経営者か少なくとも現場監督ではあったらしく、そういう人が往々にしてそうであるように、結構口が悪かった。


ぼくはもう一人のパートナーと一緒にUさんの入浴介助を週二回行なった。特別に改造されたリフトと洗い場はどれもUさん自身が設計したもので、介助者の負担を減らす工夫が至る所に施されていた。ぼくは不器用なこともあり、比較的簡単な首下の洗いとリフト操作を担当した。


今思えばよくホームヘルパーをやっていたと思う。元々大雑把な性格だしやれと言われたことは人よりずっと不器用にしかできない。慎重さや細やかな気遣いを必要とされるこの仕事をどうして何年も続けて来られたのか、未だによく分からない。


ぼくはしょっちゅうUさんに叱られた。ぼくが何度も何度も同じ失敗を繰り返すからだ。「お前はそれだからいつまで経ってもだめなんだ」とよく言われたものだ。ぼくは平気な顔こそしていたものの内心はかなりしんどくて、Uさんのお宅に行くのはいつも気が重かった。


そんな日々が何年も続いたある日、きっかけは何だったか忘れたがUさんにお前も俳句をやってみろと言われたことがあった。大した考えもなしにぼくは軽い気持ちでいいですよと安請け合いしてしまった。というのもぼくも俳句が嫌いではなかったからだ。


二日後の入浴介助の後、即席で作った数句を書き付けたメモをUさんに渡した。Uさんは自分専用に改造した特殊な装身具を指に嵌めそれを器用に受け取った。残存する肩の機能だけでパソコンさえ使いこなすUさんには、そんなことはわけのない事だった。


Uさんはしばらくメモに眼を落としていたがやがて徐に眼を上げると、ぼくがあと数ヶ月も俳句をやれば自分など簡単に超すことができるだろうと言った。ぼくはぼくでそんなことはありませんと言ったけれど、その話はそれ切りだった。


翌日、いきなり上司に呼び出されるとホームヘルパーの立場を弁えない行為は今後控えるようにとの注意を受けた。そして本来の介護技術がなおざりにされている現状への皮肉もそれとなく添えられた。


その時のぼくはもう毎日が苦しくて、それでも何とか頑張らなければならないとは思っていたので、上司からそういう叱責を受けたことで何だか色々なことがさらに悪い方向へと行くのではないかと思ってしまった。


Uさんは次回作を期待してくれたけれど、それはやんわりと断らざるを得なかった。何故なら一緒に介助をしているパートナーの目が以前に増して恐ろしかったのだ。パートナーが一部始終をチクったのは間違いなかった。


それからしばらくてぼくは心身の不調に苛まれることとなりホームヘルパーの仕事を休み勝ちになった。そんなある日、ボロボロな古本屋の店頭で叩き売りの文庫本を渉猟していた時に、たまたま例のパートナーと出くわした事があった。


パートナーはヘルパーが使う電動自転車に跨ったままぼくに声をかけた。ぼくは幾らか気が動転し、何故こんな所でブラブラしていたのかと後悔した。ぼくの体調不良はすでに周知のことだったのでパートナーはしきりにぼくの身体を心配していた。そしてぼくがなんで難しい言葉をよく知っているのかがこれでよくわかったと言った。本が好きなんだね、と。


ぼくはドキマギしてしまい、「はい」とか「そうです」とかしか言えなくて半分うつむいたままだった。すると、パートナーは去り際にぼくに向かってこう言った。「悩んでることあったらなんでも言いなよ。何だって聞くんだから」


古本屋の前に取り残されたぼくは去りゆくかつてのパートナーの後ろ姿をいつまでも眺めていた。


その時、ぼくの意識は鳶が舞う遥かな空の高みを求めたがった。だが、けっきょくは何かがそうする事を拒んだ。ぼくはしばらく人気のないさびれたアーケードを闇雲に歩くしかなかった。いくつかの感情がその者の持つ特質をよく表すことや、そうした特質がその者の今後の運命すらも決定づけるようなターニングポイントをもたらす事などについて、あてのない思考をどこまでも彷徨わせながら。


Uさんとは、それきり会っていない。その消息を知るには新聞の俳壇にUさんの名前を見出すしかない。しかし、Uさんはこのところ不調なのかあまり顔を見せないでいる。Uさんのお宅の二階に堆く積まれていたNHK俳壇のテキストの佇まいは今でも忘れられない。奥さんの趣味だった押花は、今もまだ、あの二階の丸窓の脇に飾られているだろうか。

ついにUさんの口から語られることのなかった絶望と復活の物語は果たして今どこを漂っているのだろう。それを知る手立ては今のぼくにはもうないのだ。






散文(批評随筆小説等) 残熱 Copyright 道草次郎 2020-09-03 17:47:39
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