9月1日 曇り時々晴れ
道草次郎

人の海の海面に詩の島が突き出ている。ところで、海はぜんぶで何立方メートル?こんな風に想像してみよう。深海魚が暮らす地下のアパート。テラスで昼寝をする赤鱏。ホオジロザメとダイオウイカは中央廻廊ですれ違う。屋上は飛魚たちの遊び場。鯨は地下のボイラー室から最上階のスイートルームまで自由に往ったり来たり。人の海の海面に詩の氷山が突き出ている。氷山の一角が文字の列?氷山そのものはそれはそれは大きいもの。氷山が深層心理ということかな。海は無意識界かな。その海をちゃぷんと載っけてカピカピに冷えた真空をまわってる地球は、ではなんだい?うーん、なんだろう…。

眠い。春でもないのに今日はとても眠いよ。こんな日は夢想の日と決めて、畳の匂いを嗅ぎながら風鈴の音に耳を預けて猫になったつもりで欠伸でもしていればいいんだ。あ、しかし、いまちょっと期外収縮。心房細動ということは季節の変わり目…それとたぶんアイスコーヒーの飲みすぎ。しばらく、30分は血の巡りの悪さに目は渇き喉はヒリヒリ、だる重いのが続きそうだ…まったく、うまくいかない。けれども今は差し当たりしなきゃならない勤めもないし、それがどれだけ有難いかしれない。一時期ぼくは心房細動を極度に恐れていた。特に厄介な仕事中にそれが起こるとQOLは格段に下がる。そんな時は決まって嫌な同僚がそばにいるもので、だから自分の身体を呪ったものさ。それがもたらす人生の破滅の予感に怯えたりして。しかし、今は落ち着いている。カテーテルを入れて焼き切る手術は先送り。何はともあれ有難いことだ、いやな脂汗をかかないで済む生活というのは。


ああ意外に悪くないぞ、大丈夫になってきた。血の巡り、これは悪くない方の心房細動だな。まあこういうラッキーな時もある。


今日はそれでもやっぱりアイスコーヒーは控える。庭に出て少し草取りをして、機械の手入れでもするか。ホームセンターで25分の一の混合ガソリンを買ってこなきゃ。だっていちいち混ぜるのはもう億劫だし。チェーンソーの歯にグリスを塗るかな。おそろしいキックバックで、この前なんて顔面を破砕してしまうところだった。梯子にのったまま片手でチェーンソーを使うなんて馬鹿な真似は金輪際しないことを誓う。

ぼくは青空にむかって走り出そうかな。でも、走り出した瞬間に怠けた筋肉と関節が一気に悲鳴をあげてバラバラになるだろう。それにしても、あの青空はいいなあ。雲のない、青。ゆううつなんて入り込む余地のない窒素の恵み。ブルー。ブルーというのは清らかなイメージを喚起する。だから、ブルーは好きだな。人間の顔が変に青いのだけはごめんだけど。

扇風機のことを書こうと思ったけど、そんな卑近なことばかりしか書くことがないことにしょんぼりしてやめた。では、なにを書くかというと、今読んでる本の事を書こうとしたけど、これも鼻につくからやめた。だいたい読み手にとってそんなこと何になる?つまらない話しさ、まったく。

ゴシップがあればいいんだが。人間の欲しいのはたくさんのゴシップと、ほんの僅かなの倫理だよ。しかしゴシップというのは、これを得るには家でじっとしていたら無理だ。出掛けて言ってちょっとした悪さもしないといけない。まあ悪さは難しいか、だったら夜の街にくりだしてこんな時節ではあるが、性的な愚かなことの一つや二つしければなるまい。性的なこと?そう、それが如何に儚いかを知るためにこそそれに塗れてみなければ。しかし、ぼくにはそれをする元気もないし、金もない。幸いにも。

うつくしいものを、探したい。泥がうつくしいなら、泥を探したい。南の島のヤシの木がうつくしいなら、ヤシの木を探したい。間違ったって、綺麗な薔薇など探すまい。

抽象的な概念で編み上げられ躍動する学的な何か素晴らしいものの存在をぼくは勿論疑わない。それを理解し胸の奥の宝箱にそっと大切に閉まっておけたらいいな、と思う。しかし、それはそれ。飽くまでそれは、ビー玉でありレアな野球カードの類と一緒のもの。ぼくが生きていく上で必要なことは少なくていいが、ぼくが存在してしまっているその在り方をうまく調整するには、宝箱の中身がどうしても必要だという、ただそれだけのこと。

食パンをトースターで焼かなきゃ。お昼を食べるんだ。それが、人間というものだから。いや、それは間違い。人間というのは昼飯を食べなくても構わない。ぼくの胃袋がそれを欲するし、生活の決まり事がそれを要請する。生活の要請に素直に従うことほど、大切なことはないよ。

トマトの種のあのぐにゃあとした部分が嫌いな人がいるらしいけど、ぼくはあのぐにゃあがなくなればトマトがトマトの本質を損なうとまで考える。そう考えながら今はトマトを食べている。トマトを食べるにもこんな余計な思考が纏わりついてはトマトもつまらないだろうな。畑に行ってみればいい。トマトのやつはそりゃあすごい仏頂面。なにもかも気にいらないぞって顔をして、存在様態自体を呪詛している。農夫はおっかなびっくりチョキンと切って赤い玉を籠に入れる。赤い玉はすっかり立派な死物と化して、もはや宇宙の彼方へ行っている風情だ。堅苦しい存在の背広を捨て去りじつに晴れ晴れとしている。せっかく楽になったのに猿の紛い物につべこべ小理屈ならべられながら喰われるなんてまっぴらごめん、そんなトマトの声が聴こえるのさ。

周期的にくる心の浮ついた状態。これは有難い。助け舟だ。いつも張り詰めていてやり切れない。こんな時はひたすら愚痴みたいな言葉を書き連ねるのがいい。できたら本を読みたいが、それも今は危ない。この安定した精神もいつ何時おそろしい嵐に見舞われるか分からない。一行は、一行にしかずだ。一行の針山の中に紛れている一本の針。その針の頭に細い感情の糸が通されている。その糸はするするとどこまでも続いていて、その先っぽの方では気分の結び目が作られている。それは時におそろしいものに化ける結節点だ。凪から時化へと、瞬間的に。心の大洋には未知のリヴァイアサンが蠢いている。


なんということのない毎日のなんということのない生活の中のなんということのない一動作として、ぼくは今この瞬間に右手をあげる。そしてなんということのない毎日のなんということのない生活の中のなんということのない一動作として、ぼくは次の瞬間には既にその右手を下げている。
こうした一連の事を見通してみて考えるのは、そうした中において何かを差し挟めるのかということ。というか、何かを差し挟む余地がそこにはあるのかということ。キュビズムのように多面的に現実を切り取りそこにいちいち何かの符号なりを貼り、一つの完成された作品、或いは少なくとも鑑賞者がそれを把握することのできる何かにすることは可能か。しかし、ところでそうした衝動の一切が冒涜でないとどうしていえるか。冒涜というのは、既存の権威を疑うことなしに受け容れているものが感じる不自由な感情?本当にそうか?人間がある芸術的方法をとる場合に冒涜感情が兆すのはその人間が狭隘な宗教意識に縛られているから?うーん、わからない。冒涜的感情を感じるのは、自分の場合、たんにその感情を表す言葉として冒涜しか知りえない故かもしれない。つまり、現実を現実として取り扱う普段の在り方から逸脱してある切り離された状態で事物を捉えてしまったら、二度と普通の世界へ戻ってこれないのではないかという不安だろうか。ただのホームシックみたいな。克服されない帰郷心が、自由な思考を阻む。宗教的な、特にキリスト教的な冒涜の感情はおそらくこれとはまったく別のもので、ぼくにはそれがまだよく把握できていない気がする。たちのぼってくるある感情を既存の言葉によって表すとき、その言葉の定義をよく知っておかないと誤解を招くどころか、自らをも意識の迷宮に彷徨わせてしまい兼ねないので、注意。

お腹が痛くて、だんだんきもちが落ち込んできて、それでもまだ明るい気持ちは残っているから、まだゆらりと居られる。お天道様に手を合わせる。物事がスムーズに行くときの楽しいイメージと意味のある充実した朝焼けの思い出を信じていたいよ。みんな素晴らしい人たちだ。あるいはみんな、ぼく、と同一か。

ボルヘスの『エル・アレフ』には、全一なるものの神秘的な美しい描写はさることながら、作家自信が登場してこう呟く場面があり、何より何より印象的。(書が喪われた。細かい部分は記憶に蒙い、御容赦を)。
「ぼくだよ、ベアトリス」

ぼくは、大丈夫だ、たぶん。光の中でもやっていける。

あ、稜線に飛蝗跳ねたら午後三時!



散文(批評随筆小説等) 9月1日 曇り時々晴れ Copyright 道草次郎 2020-09-01 14:45:23
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