詩の現実主義
葉leaf

 詩の世界は閉鎖的である、とよく言われる。何だか意味の分からない作品を身内で褒め合って、結局現実社会に及ぼす影響力など皆無であるかのように言われる。そして、だからこそ詩の人口は増えないし、詩を身近なものとして感じる人は増えない。詩はあたかも現実世界の何事も真っ向から取り扱っていないかのようだ。テクストの表層で自立してしまい、そのテクストの編み具合を品評し合っているだけであって、現実世界への問題提起が何もなされていないかのようである。
 詩を書く人がよく抱いているポリシーを三つほど挙げてみる。一つは内省主義。自らの内面を、ほとんど神秘的な領域に至るまで突き詰めて掘り下げていく際に生まれる言語表現こそが詩である、という考え。もちろん表現は自閉的になるし、意味も難解になる。
 もう一つは理想主義。詩は生活世界とは異なる次元、いわば理想的な次元に存するものであり、生活の塵などを払って純化された表現がテクストを純粋に織り上げるところに詩が生じる、という考え。もちろん現実世界への訴求力は極めて弱くなるし、意味不明なものの品評会が生じる。
 さらに技術主義。詩は端的に技術であり、その技術を研ぎ澄ましていくことこそが目標である、という職人気質の考え。テクストを織りなす技術を鍛えることが至上命題となるため、その実用性などもはやどうでもよくなってしまう。
 いずれのポリシーも、詩を現実世界とはいったん切り離し、そのテクストとしての自律性・技術的完成度・内的深みなどを追求していく。これらのポリシーが、詩の芸術作品としての価値を高めてきたことは否めない。詩が技術的・美的に洗練され、鑑賞者に感銘を与えるだけの芸術的強度を備えるに至ったのはこれらのポリシーの功績である。
 だが、これらの閉鎖的なポリシーはもはや来るところまで来てしまった。現代詩はもはや様式化され、みな金太郎飴のように似たり寄ったりの作品を再生産するようになってしまったのである。もちろんそこに微妙な差異を読み込んでいく批評の営みはあるが、全体的に作風が画一化されてしまった。言葉の飛躍や脱臼、暗喩や定型の使用など、だいたい現代詩の修辞はどれも似たり寄ったりである。
 現代詩がこれまで成し遂げてきた芸術的完成度の追求は決して否定されるものではない。むしろ、それは積極的に活用していくべきものである。だが、作品世界を自閉的世界に閉じ込めたり、テクストの表層の遊戯にとどめたりするのはもう終わりにしてよいのではないか。そうではなく、これまでの現代詩の洗練をしっかりと身に着けたうえで、外の世界へと向かっていくことが今後求められている。現代詩の文体的強度を利用しながら、現実の人生や社会へと問題提起をしていくということ。これまでの内閉的なポリシーを総合・応用しながら現代詩の世界の外の人でも共鳴できるようなメッセージを発するということ。現代詩にはこれから外へと向かうコミュニケーションが要請されている。


散文(批評随筆小説等) 詩の現実主義 Copyright 葉leaf 2020-08-31 04:01:36
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