8月27日 付箋
道草次郎

すごく悪いことをしている気がしてならない。一日中ずっと抽象的な考え事をしていた。もうだいぶ以前から気付いているが、自分は抽象的な考えに集中すると罪悪感を感じてしまう。具体的な何かや事務的な何かに集中できている時には感じない不穏な焦燥感もそれに伴う。この感覚こそが、自然がみずからの元へ自分を引き戻そうとする感覚であると長いあいだ思ってきたが、果たして本当にそうだろうか。物事をそうやって推し量るのは、柔軟なものの見方を損なわせてはいないか。考え方の癖というのが存在して、その癖ゆえに自らの思考を一つの範型に収めていないと何故言い切れるのか。

立ち昇ってきた一つの感情を捕らえ、辛抱強くそれを眺めていることができたら良いと思う。感情を捕らえたら、じっと目を凝らしてそこから目を逸らさないでおく。次々に湧いてくる雑念は捨てる。その都度、捨てる。感情を暗闇に立たせたい。感情に何かを纏わせたりしてはいけない。裸でそれを立たせなければならない。そして身体そのものの有り方に従うようにする。大事なことは全部身体が知っている。身体のおもむくように赴けば良い。一番楽な姿勢で重力を受け容れて、筋力の反発具合もちょうどよく調整されたら、天然となり、身体だけとなれば良いのだ。

エリック・ホッファーの本を読んでいる。ホッファーのように生きることができたらと、度々、思う。そう思う事で少し希望が持てたけれど、ホッファーも言っている通り希望というのは長持ちしない。希望ではなくて、勇気が必要だ。これもホッファーが言っていた。たしかに、すでに今日一日の内でさえ心模様は変わってしまっている。それは、自覚される。太陽の位置によって自分の世界観など簡単に変わってしまう。

やはりホッファーのように生きたいなどというのは欺瞞かも知れない。人は、自分の生きたいように生きられる訳ではなく、誰かのように生きられるということも勿論なく、ただ、目の前の生を生きるだけなのかも知れない。そうすることの中にしか、確かさや勇気を培う苗床は齎されないのではないか。勇気を望むのなら、まずは目の前にあるものの輪郭を指でなぞる事から始めなければ、と思う。

箴言が意味を成すのは歩いている時だけだという考えにとらわれている。だが、歩きながら箴言に触れるのは自分には至極難しいと気付く。箴言がそっくり頭に入っていないと、結局は、血肉として通わないということか。

なんとなく旧約聖書の事を考える。ホッファーの酔いがなかなか覚めないようだ。





散文(批評随筆小説等) 8月27日 付箋 Copyright 道草次郎 2020-08-27 20:45:22
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