Terminal Frost
ホロウ・シカエルボク
その月三度目の土曜、部屋の南側にある薄っぺらい窓の下の壁に、血で書かれた詩があるのを見つけた、そんなものを書いた記憶はなかった、けれどそれは、自分自身が書いたとしか思えないものだった、袖をまくり、腕に見覚えのない傷がないかどうか探してみたけれど、どちらの腕にも傷ひとつついてはいなかった、もしも傷がどこかにあるとしたら、その血で書くのに便利な左腕だろうと思ったのだけれど―それ以上気にしないことにしようかと思ったが、血で書かれているという事実は多少不愉快だった、すべての謎が明らかになることはたぶんないのだろうけれど、せめてその血がどこから出たものなのかは突き止めておきたかった、着ているものを全部脱いで姿見の前に立ってみた、苦労してあちこちを眺めてみたが、やはり傷らしきものは見当たらなかった―ずっと昔からあって、いままで気づかなかったというだけのことかもしれない、自分の住処の壁なんて意外と注意深く眺めたりはしないものだ、仮説としてはそれが一番適当なもののように思えた、だとしたらその傷はもう塞がっているだろう…ふと、ここしばらくの間でそんな怪我をしたことがあっただろうかと考えてみたが、どうにも思い出せなかった、詩が書ける程度の出血だ、ちょっと擦り剝いた、というような傷では決してないだろう―誰の血だろうか?という考えがふと頭をよぎった、自分自身に心当たりがないのなら、自分自身の傷からの血で書かれたものではないのかもしれない、だが、この部屋に誰かが訪ねてきたことなどなかった、俺はそれを必要としなかった…古いホラー映画みたいな、お決まりの場面が思い浮かんだ、つまり、どこか他の場所で殺して、ここに―いや、そんなことをするのは不可能だろう、周りに家が一軒もないような辺鄙な場所に住んでいるのならともかく、ここに死体など持ち込むのは自殺行為だと言わざるを得ない、では、やはりここで殺したのだろうか?どうやって…?ともかく確かめることくらいはしてもいい気がした、浴室に入って、おかしなところがないかどうかじっくりと眺めてみた、排水口の臭いまで嗅いでみたが、そこで人が殺されたことを示すような不自然さはなにも見つからなかった、トイレを開けて、便器の奥まで覗き込んでみた、細切れにした死体を流したような形跡はなかった、ベランダに出て、血痕も肉片も見つけられなかった、ということは、他人の血でもないということだ―動物?動物の血という可能性はあるだろうか?あるいは血糊とか―?そもそも血ですらないという可能性はないだろうか、絵具や、ペンキ…顔料とか、マジック―けれど、それは本物の血で書かれたものだとしか思えなかった、だとすれば、それが本当は血で書かれたものなのだということを俺自身は知っているのだということだった、いつのことだろう…壁に顔を寄せてじっくりと眺めてみたが、なにも思い出せなかった、自分の字に違いなかった、それは確かだった、文体やリズムも、明らかにそうだった、でもなぜそこにそれを書こうと思ったのか、なぜ血でなければいけなかったのか、そういったことはまるでわからないままだった、俺の血である可能性、と、俺は言葉にしてそう言ってみた、内臓、と、肉体のどこかが答える声がした、まさか、と、俺は答えた、もしも内臓のどこかが損傷していて、これほどの詩が書けるほどの血が溢れ出したというのなら、それは外傷のダメージよりもずっと深刻な話になる、第一血を吐いていれば、床の上にそれらしい痕跡が残っていてしかるべきだろう…なにかで受けた、というイメージが浮かんだ、そのイメージはひどく俺を落ち込ませた、それは当然のことのように思えたからだ…詩を書くときにも楽だしね―もう一度浴室へ行って、洗面器をチェックしてみた、毎日使っているものだ、たとえ本当にそれで血を受けたとしても、痕跡など残っているはずもなかった、こんどはキッチンへ行って、それなりに揃えている食器の中に、覚えていない過去を教えてくれるものがあるかどうか片っ端から調べてみた、銀色のボールがなんだか怪しかった、一見普通のボールなのだが、なにか妙なものがこびりついていて離れてくれない、といったようなイメージを持っていた、そのボールを持ってリビングに戻り、壁の詩の前に置いてみた、確かにその光景をどこかで見たことがあるような気がした、そんなに前の話じゃない、そういう感じがした、一昨日の印象的な夢を思い出すような感覚だった、いやな確信が静かに忍び寄って来るのを感じた、途端、俺はそのボールに詩を書くのにちょうどいいくらいの血を吐いた、体温が急激に下がり、冷汗が全身に溢れた、ボールに零れそうなほどに注がれた血液は、俺の呼吸に合わせて揺れた、なんだっていうんだ?俺は息を切らしながらその先に目をやった、あれほど鮮明に刻まれていた血で書かれた詩は、その欠片すら見つけられないくらい完全に消え失せていた。