エメラルドグリーンの流れとねずみ大根と女郎蜘蛛の話
道草次郎

そうだ。それがぼくだった。それがぼくのまぎれもない姿だった。大岡という名のさびれた道の駅。その汚い男子便所の左手に突如として広がる絶景をぼくは忘れることができない。旅人でなくとも意表をつかれるような千曲川の美しさがそこにはあった。ゆるやかなエメラルドグリーンの流れと至る所にそり立つ急峻な岩肌。山水画のようだね、と言いかけて思いとどまったのは今は昔。


妻はなぜか大根とねずみ大根を手に持ち、その道の駅の野菜売り場に立っていた。ねずみ大根だけを買うと言っていたくせにだ。ぼくはなんだか急に面白くなくなって、殆どぶっきらぼうに外へ出て待つことにした。秋風が吹き始めたばかりの頃で、山はまだどこか夏の名残りを留めていたように思う。連れだった鴉が二羽、砂利道をスキップして行くのが見えた。ぼくはポケットに手を突っ込んで自動販売機の方に視線を向けた。両手にカップのココアを持った子供が親に向かって何かを騒いでいた。どうやら釣り銭を取ろうと手を伸ばした際に巨大な女郎蜘蛛を見つけたようで、しきりにそのことを伝えようとしているのだった。そんなことには親はろくに取り合おうともせずに、蕎麦屋の暖簾の前で何度もその子へ手招きをしていた。


車にとって返すと素早くシートベルトを締め、Bluetoothの接続がちゃんと保たれていることを確認する。二人にとっての当たり障りのない曲をほぼ無意識に選曲したのち、ぼくはハンドルを握り、ブレーキから足を離す。左折しながら後部座席の妻をチラ見する。
「さっきさ、自販機のところにおっそろしくデッカイ蜘蛛がいてさ」妻が大の蜘蛛嫌いなのはよく知っていた。
「で、どっかの子供がその蜘蛛を手で潰してたんだよ。女郎蜘蛛って知ってる?あの、黒と黄色の縞模様のやつ」そこまで話し、妻の方を見る。
妻はうつむいてバックの中から何かを取り出そうとしているところだった。ぼくの話など大して気にもとめていない様子だった。アクセルを少しだけ強く踏み込む。
「ねえ、蜘蛛の子を散らすって言葉、さっきそれをじっさいに目の当たりにしてしまったよ」やっと妻がこの話に反応した気配を感じたぼくは、いよいよ話を針小棒大なものにしていく。
「あの膨らんださ、斑の腹がさ、割れたかと思うと白くて粘っこい粘液みたいなものに紛れてわっと一斉に出てきたのが…」
「ほんとやめて。お願いだから」妻は心底うんざりしたように目をつむると、すでに耳を塞ぎかけているところだった。
ぼくは少し弱気になって、「わかったよ。でもさ、こないだ家のベランダでもあの蜘蛛出たじゃん、覚えてる?」と言うと、様子を窺うためしばらくのあいだ沈黙することにした。
トンネルに入りあたり一面が暗くなる。オレンジ色のライトが緩やかなカーブを描きつつどこまでも果てしなく続いていた。
「覚えてる…アイツか。でもあの時、✕✕アイツのこと救ったよね。変な歌うたいながらアイツをティッシュでやわっと包んで物干し竿のむこうにそのまま捨てた」たしかにぼくはそうした。昔からぼくは生き物を、とりわけ身体の脆い昆虫の類いなどを殺すことは絶対にしなかった。
「そうだよ、まあ、それが俺のやり方だからね」
妻はしばらく納得できなそうにしていたが、突然ハッと何かを思い出したらしく手を打ち合わせた。
「そうだ、思い出した。あの歌、てーのひらにたいようをー♪……『ぼくらはみんな生きている』だ!あれ?タイトル違ったっけ?」
ぼくはフンと鼻をならした。「『手のひらに太陽を』だよ。かの有名なやなせたかし先生の作詞だぞ。そんな歌、俺うたってたかあ?」
「うん、歌ってた。絶対に。にしても…なんで殺さないわけ?蜘蛛はこわい生き物だよ?」
待ってましたとばかりにぼくは反撃に出る。手に持つハンドルにも力が入る。
「蜘蛛は益虫なんだぞ。やつらは人間に害をなす別のひどい虫たちをせっせと駆除してくれているんだ。それに、無闇な殺生はいけないことだよ」
妻も負けじと食い下がってくる。とうにトンネルを抜けた車は木漏れ陽が降りそそぐ一直線の道路を走っていた。
「だって、キモいものはキモいの。嫌だから殺してって言ってるのになんでいつも逃がすわけ?わかってる、ホントは殺す度胸もないんでしょ?違う?」
ぼくはなんだが無性にさっき妻が普通の大根を買っていたことが腹立たしくなり、なんの脈絡もなくこう言ってしまった。
「なんでねずみ大根だけじゃなくて、大根まで買う?いらなくない?」ここまで言って少し後悔をした。
妻の雰囲気が見るからに変わる。じっと押し黙りそのまま動かなくなってしまった。依然として直線道路が続いていた。
ぼくはバツ悪そうに妻の機嫌をうかがいながら「まあ、大根はべつにいいよ。半分食ったら残りは冷蔵庫に入れときゃいいんだし」と言った。
それを聞いた妻はなんの感情も込めずに、「そうだね。まあ、そうすればいいんじゃない」とつぶやいた。見えなかったが軽く貧乏ゆすりをしているような気がした。
その無表情な顔がバックミラー越しに目に飛びこんでくるや否や、ぼくの胸は喉に刃を突き立てられた獣のような悲鳴を上げた。心は音の無いしかし激しい不安に襲われた。やがて苛立ちがそれにとって変わると、ぼくは自分でも愚かだと思いながらもしつこく蜘蛛の話を繰り返していた。
「俺はね、たしかにそうだよ。虫を殺したくないわけじゃ全然ないんだ。ただ虫が潰れるのが気持ち悪いだけだ。ぐちゃっとした何かが飛び出したりするのなんて見たくもない。俺は、べつに善人じゃない。やつらを殺す勇気もない人間だ。俺はね、そんな人間なんだよ、けっきょくは」
妻は黙って最後までそれを聞いていたが、やがて諦めたようにこう言った。「何時ごろ着きそう?帰りに西友に寄ってくんだよ、疲れてるだろうけど。明日出るのイヤなんでしょ」
ぼくは無言でうなずくと心なしかスピードを上げた。速度計の数字がすでに制限速度のそれを遥かに上回っていたにもかかわらずにだ。それとは反対にエンジンの振動音は徐々に穏やかになっていった。


いつしか景色は、千曲川の見事なうねりが一望できる急なカーブへと差し掛かっていた。ちょうど午後の陽射しが水面にゆらゆらとその輝きを放ちはじめる頃だった。中洲では一人の孤独な釣り人が、とてつもなく長い竿を紺碧の虚空へとふるっているところだった。


散文(批評随筆小説等) エメラルドグリーンの流れとねずみ大根と女郎蜘蛛の話 Copyright 道草次郎 2020-08-14 01:05:27
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