朝と音のための覚え書
道草次郎

まず、南部風鈴の音色がある。それから、木のまな板をリズミカルにたたくステンレス製包丁の軽快音。スリッパの薄っぺならビニール底が台所の床の上でぺたぺたと笑う声。朝焼けのなか、小刻みに振動する洗濯乾燥機は重低音のバックグラウンドとして。

唐突に開けられた網戸はアルミの桟を物憂げに切り裂き、ポリバケツの把手は重力に逆らうことなくさりげない鹿おどしとなる。AMラジオからは男性アナウンサーが発するくぐもった国際情勢。湯のなかではインゲンが愉しそうにはしゃぎ回り、それまでずっと控え目だった炊飯器もいよいよ憤怒の蒸気を漏らし始める。

ふいの警笛に虚をつかれる一羽のカラス。いきなりうなり出す錆びれた耕運機の頼りなさげな起爆音。凸凹の農道を軽トラックが走り抜けるとき、その荷台でガチャガチャと上下する金属質の何か。勢いよく流れ出た温水が排水口へと吸い込まれていった後に残る生温い余韻。一枚一枚食台に並べられてゆく皿逹のつつましい溜息。オタマが味噌汁のお椀の縁にこつんと当たる時の音。となり合うご飯茶碗とご飯茶碗が何かの加減で軽くふれあって立てる単音。

もう一度500メートル先で警笛音が響くと、近所のオス猫が音もなく道路を横断する。まな板を食器戸棚の脇に立てかける音。それに、ほとんど聴き取れない程の浅い呼吸音が混ざる。りんご畑から遠ざかるスピードスプレーヤーの絶叫。操られる箸は苛立ったように小鉢の傍らにその身を投げ出す。とてつもなく巨大な換気扇がどこかで稼働しているような正体不明の低い唸り。

きゅうりの漬物と雑穀米が織りなす咀嚼音のハーモニー。しぶしぶと褥をはい出してゆく両生類めいた粘っこい無音の匍匐。乾いた衣擦れと関節の微かな軋み。挨拶が待ち受ける居間へ向かおうとやっとのことでその魂を引き摺っていく二本脚で歩く疲れた動物。こうしたさなかにあり、それでも絶え間なく風に応えつづけるのは、やはり、風鈴の歌。


自由詩 朝と音のための覚え書 Copyright 道草次郎 2020-08-12 13:38:34
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