信じられないことがある
それは一つの、収束
帰ってきて皿を洗って、シャワーを浴びる。それからごみ捨てをして(妻にはいつもシャワー前にごみ捨てをしろといわれたが、どうにも守れない)、雑用をこなしさてやっと寝れるという時、ほんの15分ほど自分の時間がある。気晴らしのYouTubeを眺める時間。ごく偶には、読書の時間(3年間で唯一読んだのはヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』の最終章「ゴーヴィンダ」)。
そんな生活が静かに、小雪のように降り積もっていった。朝、カーテンを開け放つと、そこにはかつてつややかだった何かが立っていた。顔。
詩の在り処、芸術の方法論、青土社、思潮社、上質紙を使った月刊誌の帯に書かれた衒学めいた文句の数々からはなれ、遥か遠くにまできた。
それはそれはずぅっと遠くに
生活。生活。雪。雪かき。汗と長靴。カレーの匂いとつけっぱなしのテレビ。扇風機のしまい方。百均めぐり。冷凍庫体積の効率的活用法。換気扇の音。雪。ぼたん雪。細雪。濡れた靴下。いたたまれなさ。1日がかりのカビ取り。妻の笑顔。夜の涙。雪。雪。ぼんやりした灯り。
信じられないことがある
それは、今という事態。事象。いま、こうして部屋でなすすべなくいるのはだれなのか。いったいだれ?
やることがないし、金もない。
さるものはさることすらせず、幽霊として夢とうつつをおびやかしている。
まったく信じられないので、しかたなく、モーパッサンや夏目漱石を熟読してみる。今まで、若い折には分からなかったことが腑に落ちたり、分かるような気がしたり、する。漱石、、、構文のなかに単語が転がっている。単語は裸足の子供のように、豊穣な空き地を探検する。砂で作った現代文の城。モーパッサン、、、無内容だ。だから、工夫が必要だし語り方が肝要なんだ。非常に弁えていて、それでいて聡い。しかし、余りにも弁え過ぎている。
芸術の形式(?)を考えることは、なんというか、甘やかな中年の遊戯か祈祷に似ている気がする。そんな、気もする。
信じられないことだ
起こり得たことのほとんど何もかもが
鏡に映った顔。実在するとされる像。わたし。そうだよ、わたしだよ YES
この信じられない瞬間に立ち会っているのは、他でもない、わたし、それは一つの招かれた事態に過ぎない。言葉をみつけ、嵌めてみる。ピタっ。
それはどんな言葉でも構わない。うまくおさまれば良いというだけ。
雪のイメージ。
窓の外、夜通し降る雪のイメージ。聴こえない堆積。そのイメージが他の何ものよりもそれに近い。
そのイメージを遺して、この場を去ることとする。
窓外の雪
しんしん