夜に覚める
道草次郎

物音と話し声を聞いたとき、ぼくは布団の中いた。

ぼくは、しばらくじっとして、できるだけ注意深く外に耳を済ませることにした。

空耳ではないはずだった。
たしかに、微かな話し声と、横たえられた樹が地面を引き摺られる時に出すような音をちゃんと聞いたのだ。

ぼくは隣の部屋で寝ている妻の横顔を見た。その顔は月の光を浴び、白く、というよりも蒼白に見えた。

妻を起こさないように、そうっと起き出したぼくは窓とは反対側のキッチンへ行き、昼に少し飲んだきり急須の底にわずかだけ残っていた冷めたルイボスティーをコップに注いだ。

コップを持ってバスルームの鏡の前に立つと、薄明かりの中に自分の顔がぼんやりと浮かんできた。
ルイボスティーを少しだけ口に含むと遠くで消防自動車のサイレンの音が鳴り始めた。
ルイボスティーの苦味が心地よく舌を潤していく。

ぼくはカップを手にしたままそこで動物のように動かなくなってしまった。
いつもの癖で指を耳の穴の中に入れると奥の方でゴォーという濁流のような唸りが聴こえる。
生理的な関心をしばらくその音に向けるよう、ぼくはなぜか自分に求めることにした。

ふいにキッチンから冷蔵庫の振動音が聴こえる。
遥か遠くではクラクションが鳴っている。
となりの家の庭に植えられた紅葉の樹を揺らす風のざわめきも聴こえる。
増水がすっかり治まった千曲川の流れの音さえも、よく耳を澄ませばいたって静かに聞こえてくるのだった。

月がすべてを白々と照らしているこんな夜には、きっと何もかもよく見えるんだろうな、ぼくはそんな事を考えていた。

例えば玄関先に置いてある消火器の黄色い安全ピン。
階段の手すりにこびり付いたクモの糸。
夜陰に潜む小動物の濡れたピンク色の鼻先。
キラキラと瞬く人工衛星。
それから銀色に輝く満月のクレーターの、その一つひとつに至るまで。

ぼくは、自分がパジャマ姿のまま、音を立てないよう慎重に玄関を開け静かな風の中へ出ていく事を想像した。
歩く度に、懐中電灯の明かりが植え込みや砂利道の上を狂ったようにスキップし、星座はいつになくくっきりと夜空に縫い付けられているはずだ。
夜空を見上げたぼくは、そこに、点滅しつつゆっくりと虚空を移動する一つの光点を見つけることだろう。
上空を飛ぶ旅客機ではキャビンアテンダントや乗客たちが、微笑みながら人間の町を見下ろしているに違いないのだった。

・・・・・・・・・・

ぼくはルイボスティーのコップをテーブルに置いて心の中でこうつぶやいた。

「いけない、もう寝なきゃ。朝がきてしまう」

もうだいぶ遅い時刻だった。
すぐにでも布団にもどり、ぼくは、頭のなかのあらゆる思いを振り払い寝てしまわなければならなかった。

皓々とした月明かりが、夜明けを知らせる白みにとって変わられないうちに、少しでも早く寝てしまう必要が、その時はあるような気がしたのである。


散文(批評随筆小説等) 夜に覚める Copyright 道草次郎 2020-07-27 17:30:35
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