狂気と才気の狭間
アラガイs


細くて固い冷たい手術台の上で仰向けになる。「さあ、数秒後には深い眠りにつきますからね」。 そう麻酔医から促されると全身麻酔を受ける患者が看護師に言い放った。 ‥このまま眼が覚めなければ幸いなのかな‥‥  !「まあ、なんてこと言うの‥‥」。 熟年の看護師に叱られた。 ‥叱られるのはわかっていたから言うこともできたのだ。これが 「‥ああ、そうですか。じゃあこのまま眠らせておいてあげましょう。‥どうぞここへサインをお願いします」。 なんてことになれば冗談だ、冗談ですよ! などと本気になって抵抗するのでしょう。 間違いなく死ぬ。そんな選択も無い確立の否定を他者に委ねることはできない。    by 多児真晴


脳が活動している間は夢でもみていたい。たとえ植物人間のように全身が動きを止めても生きたいと思う。それが本音ではないか。‥‥夢には現実では味わうこともできない希望を擬体験で味わえることもできるからです。   照らされることのない道筋、這い上がることも不可能な崖。その絶望の淵にも微かな希望の光を求めて生きてみる。時代を彷徨う哲学者たちの意見ならばそう真理を突いてくる。 ならば真理とは宇宙の果てを辿るように暗闇に閉ざされているではないか。否、いくら暗闇に閉ざされているとはいえ物質は存在しているのです。あなた方には見えない暗黒の物質が。 などと言われてみれば、見えないものの中にも光を感じることはできるのだろうか。

生きるという権利が認められる以上死ぬという権利が認められることも否定したくはない。本来人権とはそこまで掘り下げて解釈できうるものではないだろうか。とは言ってみても若くして自らの命を絶つ者が増え過ぎるようでは困る。人間社会という基盤が根底から覆されるからだ。元来動物には自らの命を絶つ、などという習性を持ち合わせてはいない。凡庸な人間ならばそのように考える。それが一瞬のうちに命を絶ってしまうという心理は如何なるものなのか。苦悩が何故人間の心理をそこまで追い詰めてしまうのだろうか。残された家族や友人や恋人の哀しみ。路に迷い暗闇を彷徨い続ける。自らの力で生きる権利を捨てる。その力とは愚凡を通り越して崇める狂気の神だ。礼賛はできない。天才を有するが故に悪魔の囁きが一瞬の美意識に取って代わる。唯一無二の存在である我が身を自由という生贄に捧げてしまう躯。そこには思考という余裕を与える時間など存在しないのだ。離れていく光と逃げられない絶望の狭間。脳は停止する/生と死をみつめるトルソ。そして微かな希望の光も、暗黒の光でさえも見出すことはできないのだろう。





自由詩 狂気と才気の狭間 Copyright アラガイs 2020-07-18 22:28:50
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