思えば、出口なんてイデーをはっきりそれと認識したのは
ホロウ・シカエルボク


飴色のグラスみたいな陽だまりが廊下の奥に落ちていた、天井に埋め込まれた空調が立てる微かな稼働音は何故だか宇宙船を連想させた、俺は廊下に並べられたパイプ椅子に腰かけていた、それは五脚あったが座っているのは俺ひとりだった、淡いベージュの壁や、均等に並んだドアや、廊下の椅子や、神経症的な静寂の中にたったひとりでそうしていると、診察を待っている患者のような気持になった、けれど、どれだけ待っても誰かが呼びにやって来たり、近くのドアが開いてお入りなさいと言われることもなかった、そもそもどうしてここに腰を下ろしているのかまるで思い出せなかった、いや―思い出せないというよりも、それまでの生活から急に切り離されてそこにそうしているような感じだった、記憶喪失などではない、名前はきちんと思い出すことが出来た、でもそれだけだった、このままここに座っていていいのだろうか、良いも悪いもないから逆に好きに動き辛かった、けれど、こんなときに選択するのは動かないよりは動いた方が良い、動かせるものがあるのなら動かしてみた方が良い、そう考えて立ち上がった、立ち上がると軽い眩暈がした、ずっと座っていたせいなのかもしれない、それともあまり健康状態がよろしくないのかもしれない、だとしたら、ここは本当に病院なのかもしれない、それならば、手始めに手近なドアから開くかどうか試してみるべきだろう、ノブを握り捻って引いてみたがドアは開かなかった、ノックをするべきだったなとあとから思ったけれど、どのみち施錠されているのなら気にすることもなかった、この時点で、他のドアもきっと開かないのだろうなという気がした。すべてのドアに手をかけてみたが、やはりすべて開くことは出来なかった、中に誰かが居て、息を潜めているような気配もなかった、そこがどんな部屋なのかを示すプレートのようなものもなにもなかった、どうやら病院ではないのだ、とにかくその廊下から離れて歩いてみることにした、建物は、正方形の中庭を直線で囲んだような作りだった、中庭では、見覚えのない低い木が枯れていた、幹が重さに耐えられず頭を垂れたみたいな形だった、もともとそういう伸び方をする木なのかもしれなかった、角度によっては、臨戦態勢に入ったサイのように見えた、どの廊下にも同じように端に採光用の天窓があり、ドアがあり、椅子が並んでいた、人気はまるでなかった、廃墟なのかもしれないな、と考えたが、すぐにそれを打ち消した、廃墟にしては綺麗過ぎるし、なにより、空調もライトもきちんと稼働しているのだ、四隅は線がはみ出すように少し伸びており、その部分にはトイレや、給湯室や、用具入れなどがあった、最後の角にエレベーターが設置されていた、階段は見当たらなかった、俺はエレベーターを呼んだ、ここは一階らしかった、天窓のあるはみ出した部分は、この階にしかないのかもしれない、建物は五階建てらしかった、エレベーターの表示だけを見たらということだが…そういえば案内のようなものが見当たらない、個人の家とは考えにくいが、なにかしらの施設なら絶対にそういうものは判りやすいところに設置されているはずだ、エレベーターのドアは音もなく左右に開いた、乗り込んで何階に行こうかと迷ったが、一番上から降りてくることにした、振動も音も全くなかった、エレベーターを模した箱の中でただ立っているだけのような気がするほどに―五階に着き、ドアが開いた瞬間に飛び込んできたのは強烈な光だった、そこはドーム型のガラスがすっぽりとかぶせられた、展望台のような場所だった、景色はまるで見えなかった、ただ眩しい光があるだけだった、外を見ることは出来ないということか、と俺は納得した、でも、その空間の見物はそれではなかった…「縦」を排除したジャングルジムのような、数メートルの鉄の棒が段違いに五本ほど天井近くに渡されており、そのすべてにびっしりと首吊り死体がぶら下がっていた、不思議なことに、全員が女だった、年齢は様々だったが、老婆は居なかった、目も眩むような光の中に飾るにはまったく不釣り合いなオブジェだった、本物なのだろうか、と一瞬疑ったが、どうやらそうらしかった、一番近くで吊っていた女子高生が不意に顔を上げてにっこりと笑いかけた、そして、俺の出て来たエレベーターの反対側にある階段を指差した、階段があったのか、と俺はつい口に出した、ちょっといいかな、と、俺の言葉につられたみたいに女子高生が喋り出した、「わたしのこと、可愛いと思う?」「悪くないよ…鬱血してなけりゃいいセンいってると思うよ」そうかぁ、と、女子高生はどちらにでも取れる調子で呟いた、じゃあ、と言って俺は階段に向かった、ここがどんなものなのか訊いてみても良かったが、きっと満足のいく答えは得られないだろうという気がした、女子高生以外はひとりも声を出さなかったが、彼らの視線がずっとこちらに注がれているような気がした、階段は明るく、清潔だった、きちんと清掃がされているということだ、すぐに四階についた、「4」と大きく書かれたドアを開けようとして、ささやかな疑問が生まれた―何故、エレベーターじゃ駄目なんだ?わざわざこちらに案内されたということは、そういうことじゃないのか…?考えてはみたけれどまるで判らなかった、ならば、開けてみるべきだ、四階は巨大なバスタブになっていて、そこに並々と血が注がれていた、俺は息を呑んだ、五階の死体よりもそれは大きな恐怖を語っていた、人間の血だろうか、もしかしたらそれを模した悪趣味な水じゃないかという考えが浮かんだが、明らかに人間の血だった、その中で何人かの男が溺れていたからだ、血のなかで泳ぐのは容易なことではないだろうな、と思った時、ひとりの中年の男と目が合った、男はこちらにバシャバシャと泳いでいて、まずエレベーターを指差し、それから俺が下りて来た階段を指差した、なるほどね、と俺は納得した、もしエレベーターで降りて来ていたら、そのままこの血の風呂へと落下していただろう…俺は片手を上げて階段へと戻った、男は片手を上げてそれから沈んで行った、三階はただただ真っ暗い闇だった、それほどにも暗い闇を俺は何と呼ぶべきか知らなかった、騒がしいほどの静寂のなかで佇んでいることは出来なかった、そこに何らかの合図があるとも思えなかった、階段へと戻るドアを見つけるのも簡単ではなかった、俺は階段を下りた、二階には何もない空間に巨大な人間の皮が落ちていた、人間からなんらかの理由で内容物がすべて消え失せたみたいな感じだった、そしてその皮は俺によく似ていた、でもはっきりそうだと言い切ることも出来なかった、俺は階段へ戻ろうとして、妙な考えにとらわれた…階段でも、エレベーターでもないような気がしたのだ、けれど、目に見えるものはそれしかなかった、階段で一階に降りてみたらどこに出るのかという興味もあったけれど、そうしたところで同じ廊下をまたぐるぐると回るだけだという気がした、まてよ、そもそも一階なのに入口と呼べるようなものもなにもなかったな―エレベーターの回数表示に地下を示すようなものがあったかどうか思い出そうとしたが、思い出せなかった、でもどうしても、怪談でもエレベーターでもない気がした、俺は自分によく似た皮を持ち上げてみた―落とし穴が開き、俺はあのサイのような木がしょぼくれている中庭へと落ちていた、中庭から廊下へと出るドアはなかった、つまり、もうこの木からなにかを見つけ出すしかないというわけだ…俺は胡坐をかいて木と向かい合った、木は俺の視線を避けているみたいに見えた、背後から強烈な視線を感じた、あのいくつものドアが開いて、何人もの透明な意識が、考え込む俺の背中を見つめているような気がした、きっと、振り返ってそいつらの顔を拝んでやろうなんて考えてはいけないのだ。



自由詩 思えば、出口なんてイデーをはっきりそれと認識したのは Copyright ホロウ・シカエルボク 2020-06-11 22:43:27
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