道端の不審者
ふじりゅう

前もっていいたいことは、私は法律には詳しくありません。だから、何とか法の第何条に基づいて、という話をすることができません。
ですが、色んな本をよんで、やはり法律が大切であることを強く感じました。だから、法の下の平等、というとなんだか陳腐になってしまいますが、平等ということは、法律によって厳しく定められた日本人全ての権利だと思います。
今から、私の息子の話をしてもいいですか。私の息子が、昨日頬を赤く染めて帰ってきました。と言ってしまうと、恋でもしたのでしょう?と思われるかもしれませんが、そうではありません。頬を赤く染めたという表現は、頬を赤く染めたという比喩的な表現をしているのではなく、実際の現象として、頬が赤く染まったということでして、何がいいたいのかといいますと、実際に頬が赤く染まっていたということなのです。
話をきいたところ、どうやら道端で殴られてしまったということでした。道端で殴られてしまったのですから、私はもちろん怒りに震え、怒りのままに警察へ通報する寸前までいったのですが、息子はそれを引き留め、話を続けるのです。
ようするに、田んぼが連なる道端をとぼとぼ歩いていたところ、見知らぬ男が殴ってきて、私の息子は咄嗟に殴り返し、息子の方が強かったものですから、男は逃げかえってしまった、ということでした。息子は確かに空手を習っていた時期があり、それは自己防衛のためにそうさせたのですが、男が息子を殴った怒りはとうに忘れ、つまり、息子が男を殴ったことについて、怒りがこみあげてくるのです。
私は法律について詳しくありませんので、何とか法の第何条に基づいてという話をすることができませんが、不必要に殴り返すことは法律に違反していると何かの本で読んだことがあると記憶していまして、記憶しているということはその法律は確かにあったという確信がありまして、核心があるということはその法律は現在も適用される法律ということでありまして、現在も適用される法律ということはどういうことかといいますと、つまり息子は犯罪を犯したということなのです。
法の下の平等、というと陳腐になってしまいますが、人々にはそれぞれ人権というのが備わっている、というと陳腐になってしまいますが、つまり、人々には人格があり、人間性があり、人間性があるからこそ、人間であるのでありまして、殴られることはその人を明確に傷つける行為、というと陳腐になってしまいますが、つまり、人間を殴る行為は平等性に違反するのだ、というと、陳腐になってしまうのです。
だから、私は率直に、警察に出頭しなさいといいました。もちろん私は、息子に捕まってほしいなどと考えているのではありません。そうではなくて、警察に出頭することで、息子の罪がなくなるわけではありませんが、罪を認める事そのものが大切なのでありまして、つまり自分が人を殴った、人と人が平等である前提から逸脱したということを認めることが大切であることをもって、捕まってほしいと主張しているのです。
そうすると、息子は途端に不機嫌になって、私へ怒りをぶつけてきまして、どのように怒りをぶつけたかというとすなわち「自分は断腸の思いで人を殴ったのだ、自分も人を殴りたくて人を殴ったのではない、殴りたくて人を殴ったと勘違いするのであれば、では母さん、あなたも一度人に殴られてみればいいではないか」、といって、私を突然殴ってきたのです。



失望、ではありません。息子がこのように育ってしまったのは、すなわち親たる私の責任です。親の責任ということ、責任を持つということがどういうことかというと、息子を断罪することなのだと思います。話が終わった後、私はこっそり警察に連絡しました。連絡したということはどういうことかといいますと、息子が警察に捕まるという事を意味しています。私は法律には詳しくなくて、法律の第何条がどうこうということは説明できませんが、私の記憶では、人を殴ることは法律違反です。法律違反だからこそ、息子は断罪されるべきなのです。息子が捕まってほしいわけではありません。息子が捕まることによって、私の責任であることを明らかにしたいのでありまして、すなわち、法の下の平等を侵害したことは許されないと思うのです、ということを考えてしまう私は、陳腐ですか?


自由詩 道端の不審者 Copyright ふじりゅう 2020-04-28 15:32:27
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