気が付いたらボロ雑巾のようにベッドに転がされていた
山人
四月二十三日、若い女性看護師Aの説明を受けながら、跳ねる川魚のような指先で打つキーボードをぼんやりとみていた。柔らかい声で適切に私の話を聞き、それを一切漏らさずキーで打ち込んでいる。血液検査の注射針も、するっと柔らかく私の静脈に挿入された。穏やかだが機敏で手際よく、看護師という仕事をよく熟知しマスク越しだが魅力的な女性だった。そんな彼女だが、発する言葉には仕事をやり遂げようとする意志が感じられ、十六時半にシャワー室の予約をしておいたから下の毛を自分で剃れと言う。
昼には病院食が配られ、粗食を味わった。如何に今まで贅沢をしていたか、如何に余分な嗜好品を食らってきたのかがわかる。人が命をつなぐためにはこのような粗食で十分なのであり、食糧に事欠く時代であればこの病院食ですら大御馳走であったはずだ。しかし食欲はあった。菜と凍み豆腐の煮ものだとか油をほぼ使っていない料理が中心だった。それでも人は腹が減ればこんなものでも美味いのだ。
十五時に冠動脈の造影剤によるCT検査が始まった。明日行われる手術が計画通りにできるかどうかという検査である。三十年ほど前に別の事情で造影剤での撮影を試みた際に過剰反応してしまい、検査を中断してしまった経緯があった。もちろんその事をあらかじめ報告済ではあったが当日はそのまま検査が実施されようとしていた。CT検査台で仰向けになり、検査の練習みたいなことを数回やらされ、造影剤が注入された。血管から火の粉が、いたる血管をかけめぐるような感覚で全身が熱くなった。しばらく火照りはあったが、過剰反応は起こらずに済んだようだ。
十六時半、A看護師からシェーバーを渡され、狭いシャワー室に入り股間の毛を剃ることに没頭した。特に鼠径部を入念に剃る必要があり、割ときれいに剃り上げた。ついでに顔の髭も剃ってみたが、切れ味は全く悪かった。のちに、A看護師がその出来栄えをチェックするというので、見てもらい、OKがでた。
四人部屋には、私より年上の後期高齢者の老人が二名と、私と同世代かやや下と思われる男性が同部屋だった。対向かいの私と同年代と思われる男性は、看護師との会話から狭心症のようだった。後期高齢者のうち一人は透析治療と糖尿病が進行しているという感じで、もう一人はよくわからない。病名が良くわからないその御老人は病院歴も長いらしく、看護師とも軽口で話し病院生活を謳歌している風にもとれた。
四月二十四日、昨日のA看護師から男性のB看護師に担当が代わった。昨日の女性A看護師と比較すると、あらゆることに手際が悪く下手糞であった。点滴の針を何度も刺し、何度も失敗を重ねようやく血管を捉えた。昼食後には尿管カテーテルを挿入されたが、これも激痛に喘いだ。おそらくだが、昨今こういう医療行為は患者と同性の看護師がやるものなのかも知れない。できれば昨日のA看護師にやってほしかったと思う。なにしろ、この男性B看護師は針を刺しながら、あれっ、おかしいなぁ、などと何度も耳元でささやくものだから、こっちはもう完璧な練習台なわけだ。さらに、この尿管カテーテル挿入後は常に尿意があり、極めて不快だった。
病名は心房細動。すでに二〇一九年八月二十一日に医師から告げられていた病名だ。病名宣告から一週間ほど調子が悪かったがその後ほぼ軽快。今回の術日に至るまでの間もほぼ症状は皆無で、いったい手術の必要があるのだろうかとすら思っていた。しかし、いったん慢性化してしまうと生涯高額な薬物治療をしなければならず、しかも病態悪化や、脳・心臓の梗塞の危険性もあり得るとのことで手術の決断をした。
手術の時間は十四時からとされていたが、だいぶ遅れるらしいとの連絡があった。結局ストレッチャーに載せられたのは十六時半だった。手術室には濃紺の術衣を着た看護師や医師が大勢いて、物々しい雰囲気だった。
術式は鼠径部からカテーテルを挿入し、心臓中の不整脈発生箇所をバルーン式冷凍焼却するというものであった。当初は鼠径部と腕、喉の三ヵ所からカテーテルを挿入の予定であったが、前日の検査で難易度はさほど高くないと予想されたようで一ヵ所からのカテーテルの挿入となった。鼻の穴に水あめのようなものを入れられ、それを啜るように言われ啜った。マスクをかけられ、何か夢を見たように気がしたがそこからの記憶はない。
気が付いたら、私はボロ雑巾のようにベッドに転がされていた。左手には点滴、胸部分にホルター心電図、尿管カテーテル、鼠径部付近を覆った硬いコルセット。ずっと仰向けでいたので腰は痛むし、息を大きく吸うと胸の圧迫感があり、なによりも困ったのは喉が干からびていたことだ。唾を飲みこめない不安はとても怖い。さっそく看護師を読んだ。まだ麻痺している呂律の回らない言葉で喉を湿らせたいと懇願した。水分が摂れるタイミングは術後二時間とされていた。少し早めだったが湿らせるだけならよいだろうという事で許可されたのだった。これで少し安心したが、あとは腰の痛みだ。絶対安静時間は三時間とされていて、あと一時間我慢しなければならなかった。が、そんな苦痛の中でも数十分ふたたび寝てしまっていた。二十一時三十分、体を反転させても良いとのことで幾分腰の痛みは和らいだ。その後も少し眠っては覚醒したり、点滴の管が曲がって警告音が発生し何度か看護師を呼んだ。
四月二十五日、夜が明け、三日目の昼勤務の看護師は再び男性看護師でCという名だった。かなりベテランらしく、ハキハキものを言う看護師で、最初病室に入ってきた時は医師なのかと思ったほどである。C看護師の後ろを看護師の新人女性D看護師がちょろちょろついて指導を受けていた。舌足らずな萌え系の女子看護師だった。色々教えながら私の病床でC看護師の実践授業が始まった。点滴の撤去方法、病床での心電図のやり方、尿管カテーテルの撤去など、若い萌え系看護師の前で私の粗末なシンボルが晒され、一気に抜かれた尿管カテーテルの痛さは飛び上がるほどだった。
相変わらず、ホルター心電図は常に装着されていたが、動けるという喜びはありがたいものである。廊下に出て数十メートル歩くとN市の街並みが見え、それぞれに忙しげに車が行きかってはいるものの、新型ウイルスの影響か喧騒感はない。
体は動けるようになったが、尿管カテーテルを抜いたあとしばらく尿道が痛み血尿が混じった。さらに極度の緊張からか便秘が続いた。
四月二十六日、この日の担当看護師はEという女性看護師だった。やはり若く、透析と糖尿病老人の皮膚に注射針が入らないと我慢するでもなく、もう嫌!などと言葉を抑制することを知らぬ看護師だった。その御老人の対処はその後、ベテランC男性看護師によって解決されたようだ。
二十六日は尿道の痛みも大分感じられなくなり、一日中テレビのBS系のドラマや映画を見て過ごした。副食が禁止されているので楽しみはもっぱら食事という事になる。相変わらず質素な食事ではあったが、それでも昼にはカレーだとか麻婆豆腐のようなおかずがあった。
看護師の勤務体制は詳しくは解らないが、このT病院では日中勤務と夜間勤務のシフトのようだった。二十六日夕方からの担当看護師は二十三日担当だったA看護師だった。○○さん、ひさしぶり、と気さくに話しかけてくれ、うれしかった。手術の時間が遅れたことや、カテーテル挿入箇所が三か所から一か所になったことなど会話した。
二十七日、早朝、A看護師は御老人の一人に注射を試みていた。この御老人、昨日E看護師が何度も注射を試みたが最後は刺せなかった御老人であった。A看護師はつぶやき、うたうようにしんなりとした空気感をまとい、するすると御老人の皮膚に針を挿入してしまっていた。A看護師、彼女はやはりあらゆることを極めていたのだ。患者に対する物腰、技術、しおれかけた男心をくすぐるような所作や言葉やトーン、PCをいじるスピード、かつて私が知る中では極みの看護師に命名したい。
二十七日、早朝の検診に夜担当のA看護師がそれぞれの病床を回った。鼠径部の赤みが気になるという事で訴えたところ、マジックでその内出血部分に縁をなぞり、これ以上今後広がっていたらちょっと問題があるとのことだった。この日は退院日で一〇時と決められていた。わずか五日間だったが、いろいろと荷物があり時間はあっという間に過ぎた。
感染防止につき、病室までの立ち入りは家族であっても禁止となっているため、妻はデイルームで待機していた。取りあえず主だった荷物を妻のところに持って行く際に、ナースセンターのカウンターでA看護師が俺を見つけ、チラ見で小さく手を振ってくれた。心残りなのは、私の表情が硬く、彼女に対して突っ込みすらできなかったという事だった。再び、荷を整え、元の普段着でナースセンターの横を通るとき、もう一度A看護師に礼を言いたかったが既にシフト時間は過ぎていた。
看護師や医師の力量にも差があったり、経験値のある者ない者、それぞれいるが、彼ら彼女らが経験を積むためには私たちのような患者が存在しているというのは間違いではないだろう。実践をし、技術も上がり、A看護師のような魅力的な看護師にだってなれるのだ。A看護師にもう一度会うためにはまた病気にならなければならないが、それは避けたい。思い出の中で美しい妄想をしていればいいのだ。
妻とともに病院の外の駐車場を歩くとき、風は硬く胸に入り込んではいたが、遠くの山は緑に覆われ始めていた。