月見ヶ浜海浜ホテル
細川利回
そのホテルは海のそばにあって
むかしから 多くのモノカキが訪れるという
あの夜 僕はどうかしていた
長い闇のトンネルを抜けると
偶然ホテルのあかりが見えた
気まぐれに左に折れて車を停めた
重々しく見えた扉はすんなりと開き
呼び鈴を鳴らすとフロントはこう言った
「あいにく今夜も満室となっております。
それでもよろしければどうぞ」
軋む廊下を歩く
客室から聞こえる自慰の声々
恍惚とした部屋の隣は苦悩に満ちたもので
その向かいはどこか懐かしい声で唄い
とある部屋は異国の言葉で唸りを上げていた
磨りガラスの窓から部屋の中をうかがうと
いくつかと目が合った
その夜の僕はやはりどうかしていたので
手当たり次第 客室をノックして
それらと交わった
波の音が近づいたり遠のいたりするのを
虚ろな頭のどこかで感じながら
それらと交わり尽くした
中には 心底つまらないものもあったし
しばらく忘れ得ないような
鋭く深いよろこびを感じるものもあった
ただ それらは一様にくちづけを拒んだ
夜更け
僕は中庭に降りてベンチに座った
月はなかった
ひどくたまらない気持ちになって
煙草を吸った
ふぅ、と吐いたけむりが立ちのぼって
ひとつの詩になってしまった
窓から誰かがじっと見ている
波の音は止むことがない
ここは海のそばのホテル
僕はもうすっかり正気なのだけれど
あれからずっと
けむりを吐き続けている
僕はもうすっかり 正気なのだけれどね