落下と膨張
新染因循

ある朝、わたしは透明になった。
世界は膝を抱えて仰いだ青空であり
そこへとあらゆるものは落下していた。
それは重力という現象ではなく
存在という重心へと還っていく風景だった。

この風と岩、水だけの星をおいてけぼりにして
宇宙はどこまでも広がりつづけるという。
道ばたの雑草も、空中庭園の薔薇も
彼方へ、彼方へと伸びているのではなく
最後の息をはいて落下しているのだ。

雨と雨との距離さえ膨張している。
川の対岸に舞う蝶々、麦畑の金色の波、
夜が詰まってしまった側溝の饐えた臭い、
踏みにじられたショートホープの吸い殻、
親しんでいたものすべてが遠くにある。

とどかない呼び声に疲れた肉体と
やおら閉ざした瞳のうちの景色は
四十六億年もの間ずっと
はちきれないよう
力一杯に堪えつづけていた。

それでも地球は変わらずに在る。
瞳孔のかぎりをこえて膨らんだ感覚で
赫赫と燃える大地を見た。
冷たく固まる大地を見た。
そこに立つまぼろしを見た。

わたしは落下する。
あらゆるものがそうするよう
わたしという一点へ向けて。
そしてまた膝を抱えて頭蓋を仰いで、
流星が降ってくるのを待っている。

ある朝、わたしは透明になる。
まぼろしだけが残っている朝だ。
それは落下しないで、己という大きさのまま
空っぽになってしまった空を仰いで
あくびなんかをしている。



自由詩 落下と膨張 Copyright 新染因循 2019-09-28 20:57:35
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