紫衣からの手紙
コタロー
愛する由梨絵さんへ
お元気ですか。そこにいるだけでまわりを爽やかな風が吹きはじめるようにしてしまうあなたのこ
とですから、きっと幸せに暮らしていると思います。わたしを養女としてくださった富樫家の逸樹様、
佳奈様はとても優しいひとたちです。ですからわたしも幸福です。ご心配なさらないでくださいね。
ただ、おふたりともに教育熱心ですので、わたしは寄宿学校に進むことになりました。でも、その
聖エイレーネ女学院では、各先生方が少数の寄宿生を預かるようになっていて、寄宿舎はありません。
わたしは、数学を専門としておられる教科主任である向坂秋乃先生のお家にお世話になることになり
ました。先生は、郊外にある企業家の別邸であった西洋建築の屋敷に住んでおられます。部屋がふた
つのところへ、わたしをふくめて五人の寄宿生でした。わたしは離れの部屋で璋子さんという背が高
くて頬にそばかすのある気のおけない娘さんと、おとなしくて小説を片時も手放せない暁美さんとと
もに暮らすことになりました。
向坂先生は静かなひとです。でも、優しく愛情に満ちたカトリックを信仰しています。もともと学
校がカトリック教会の設立ですから、先生もそうなのかもしれません。おそらく、遠くない先にわた
しもカトリックに入信するはずです。
ところで、わたしも由梨絵さんもご存じのように詩がとても好きで、施設にいた頃から、いつも詩
集を読んでいました。英語の時間に詩を読むことになり、わたしの番がまわってきてシェリーの「ひ
ばりに寄せて」を暗唱しました。最初の言葉で皆が静まりかえってしまって、その後にはくすくすと
生徒たちの笑い声が響きました。先生も少し微笑まれました。でも、わたしは何故か落ち着きを失う
ことなく最後まで読むことができました。読み終わると、先生の厳かな声が聞こえました。「紫衣さ
ん、十点、皆さんにはおかしいようですが、暗唱とはこのようにするものなのですよ」。わたしは真
っ赤になってしまいました。
今は春休みですので、お家に帰っています。逸樹様も佳奈様も教養豊かな読書家ですから、本棚に
は多くの詩集や小説があって、退屈することはありません。もちろん、ピアノもありますから、毎日
楽しく佳奈様に教えを受けています。
近いうちに、由梨絵さん、初香さん、琴葉さんと再会できる日を楽しみにしています。
紫衣