火の車と水の車
こたきひろし
街の雑踏で背後から声をかけられた
立ち止まりふり返ったら
人違いでしたごめんなさい
と若い女の人
人の流れは速くて
あっという間にその人は何処かにいってしまった
ほんの束の間の出来事
その日は休日
最寄りの駅から電車に乗って一つ先の駅で降りた
遊び場の多いその街
休みの日はたいがいそこに出掛けた
地方から上京して働きだしてまだ半年もたっていなかったのに
その間に悪事の浸透力は速くて仕事の染み込みはよくなかった
働いていた店の主人は七つ年上の独身だった
中学を卒業して十年近くは下町の洋食店で修行してから独立開店したらしい
背が低く小柄だか体はしっかりしていてちょっとお腹が出ている姿はいかにも洋食屋のコックらしかった
童顔で親しみやすく饒舌で接客にはたけていた
二十代半ばで店を持つくらいだったから人脈もあった
友達や仲間が足しげく店に顔お出して時には手伝ったりしていた
若い主人は女性との付き合いも頻繁にあった
その中にはいかにも水商売を匂わせる派手な女の人がいた
その人が勤めるお店に連れていかれ生まれて初めてウィスキーの水割りを飲んだ時私は未成年だった
それから主人は私に賭け事を教えた
そしてついには吉原へ連れていかれた
「飲む打つ買う」を躊躇なく教えてくれた
どうせ男はいつかは覚える事だから早い内に経験してしまえと主人は言った「その先溺れるか溺れないかはお前しだいだから」
と主人は警告をつけ加えた
随分乱暴な教育だったが、私はけっこう深みに嵌まってしまった
社会の序ノ口で
私は気づいたら火の車に乗ってしまっていた
私は三年で東京を棄てた
主人が悪い誘惑にそそのかされて店を失い
逃亡してしまったからだ
それは主人が結婚して子供が出来て間もなくの事だった
私はすっかり人間がわからなくなって故郷に帰った
全ては昭和の時代だった