珈琲の香り / 喫茶店の地下1Fは不思議な洞窟のようで
beebee
小伝馬町の地下鉄を出て通り沿いに北に向かう。5分程行った所
に行きつけの喫茶店があった。広い客席が地下1階にあって、カッ
プを片手に階段を降りて行くと珈琲の香りと焼菓子の甘い香りがし
た。なにやら薄暗いフロアに深めのソファが並んでいて、ゆっくり
自分の想いに耽ることができた。
早めに家を出て時間調整する。心を落ち着け1日の仕事の流れを
確認する。会社員時代の習慣だった。退職して久し振りに来てみる
と、ほろ苦い珈琲の香りに一気に時間を遡り昔に戻ったようだ。深
いソファに背を持たせ半分意識を飛ばしてボーッとする。そうやっ
て出勤時間まで過ごすのだった。
その不思議な喫茶店は階段を降りて行くと薄暗い洞口に入るよう
だと思った。自分は地下帝国の住人となって、早朝の冷たく霞が架
かった謎の大陸に降りて行く。そこは色々な生き物が棲息する謎の
大陸で、青白い光りは底に溜まっている。結露しそうな気配に夏で
も襟をかき合わせるだろう。席に着き目を閉じ大きく息を吸う。苦
く熱い珈琲の強い酸味が舌を噛む。遠くから甘い香りが流れて来て、
隣りのソファには白い顔が咲いていた。それは白磁のような肌をし
た若い女性で、空気を焦点として凝固させる。ヒラヒラした白い二
本の指の間に、煌々と灯りを点す雌蕊(スマホ)があって、目深に
被った帽子と潤って光る瞳。ああ、テーブルは冷たく硬い大理石の
手触りだ。かさついた皮がこころと身体を覆う。蝋細工の塑像のよ
うに、ぼくはビニルクッションに固定される。物憂い早朝の意識は
半分妄想に眠っている。
と、ピィッ、ピィッ、ピィッと携帯の8時のアラームが鳴って意
識を戻す。出勤の時間だ。一気に気分は現実に引き戻されて、カッ
プを片付け階段を上って行く。青空のサバンナへ狩に出て行くかと、
顔を上げて外へ出る。仕事の時間だ。
そうそう、この珈琲の香りだ。これが鍵なのだ。